第5話 歴史書と仮説

「やぁ、コルザ。お待ちしていましたよ」

「お招き感謝するよ、オリヴィエ」

 伯爵家が所有する資料書庫への入室許可が出た。

オリヴィエから連絡を受けて彼の家を訪れたのは、お茶会から五日後のことだった。

ペティアを連れ、午前中のうちにオリヴィエの元へ向かったコルザは、昨晩彼から届いた手紙の内容を確認しながら、彼と共に書庫のある別館地下へと向かっていた。

普段は滅多に入ることのできない別館地下の資料書庫には、代々文化省の重役を任されてきたレシュラン伯爵家当主直筆の歴史書が保管されており、王国内外での重大な出来事が記録されているという。定期的に当主自ら書き加えることが義務付けられている歴史書の閲覧をオリヴィエが希望したところ、昨夜ようやく許可を得たとのことだった。

「今後の仕事のためにと交渉して、やっと許可をいただきました。訂正不可、ありのままの歴史を記したこの書になら、何か手掛かりがあるかもしれませんよ」

 本館の中庭を抜け、さらに奥にある建物を通り過ぎ、ようやく見えてきた白壁の教会のような小さな建物。その中に入りながら、オリヴィエは凛とした表情で優しく微笑んだ。

確かに、世に出回っている国にとって都合のよい歴史書とは違い、信憑性は高そうだ。

そんなことを思いながら、コルザはお茶会の日以来、ペティアのために行動してくれていたオリヴィエに礼を言うと、少しだけ意外そうに言った。

「ありがとう。まさか当主直筆の歴史書があったなんてね」

「偽りなき歴史の伝道者たれ、これが我が家の表沙汰にできない役目なのです。スリージェル侯爵家の貴族の警察然り、古い家には隠された仕事がそれぞれ存在するのかもしれません」

「……!」

 たくさんの書架が並ぶ一階の奥にある隠し扉を開け、地下に続く階段を下りながら、オリヴィエは辺りを憚るような小さな声で、歴史書が存在する理由をそう語った。

偽りなき歴史を遺すこと、それはきっと伯爵家にとって重大な秘密のはずだ。

いくら周りに人がいないとはいえ、こんなにあっさり話してしまっていいのだろうか?

二人の後について行きながら、微かな不安と心配を覚えたペティアは、そんな役目がうちにあっただろうか、と思い悩み始めたコルザをよそに、使用人口調で問いかけた。

「ところでオリヴィエ様、そのような重大な書物を、コルザ様にお見せしてよろしいのですか?」

「!」

 彼女の使用人口調に、オリヴィエが一瞬、戸惑ったような表情で振り返る。

「その歴史書はレシュラン伯爵家が代々守り続けてきた秘密ですよね」

 だが、すぐに事情を悟った彼は、どこか不安そうなペティアに笑いかけると、彼女の右手前にいる問題のコルザを見遣った。腕組みをしたまま悩むコルザは、そんな二人のやり取りなど気にした様子もなく、明後日の方向に視線を向けている。

「問題ありません、父の許可は取ってあります。それに、嘘もつけないような正直者のコルザにここの資料を使って悪巧みができるとは到底思えない。もちろん、そんなことをしない人間だと分かっての招待ですから」

「え、今なんか俺のこと話してた?」

「……そうですね」

 悪巧みなんて言葉ほど似合わないものはない彼のすっ頓狂な声音に、ペティアは小さく肩をすくめると、オリヴィエに同意した。確かに、きょとん顔で二人を見遣るコルザの性格からして、歴史書の悪用なんて絶対にありえない。

「いいえ、なんでもありません。さぁ、鍵が開きましたよ。中へどうぞ」

 今さら会話に入って来たコルザをあしらいつつ、二人を中に通したオリヴィエは、内側から鍵を掛けると、彼らに笑みを見せた。見渡す限りの書架を興味深そうに見まわすコルザは、素直な感想を呟きながら子供のようにはしゃいでいる。

「おぉ……本がいっぱい!」

「資料書庫ですから。それではお二人共改めてようこそ、レシュラン伯爵家所有の資料書庫へ。ここには王国が独立して以来、約三百年分の資料が保管されています。そして、今回お見せしたい当主直筆の歴史書はこちらです」

 恭しく一礼しながら改めてこの場所について語ったオリヴィエは、そう言うと二人を書架の奥にある古い机の前に案内した。繊細な彫り模様が幾つも施された樫木の机は年月によってやや風化しているものの、その場に座る者の風格を現すような堂々たる姿を見せている。

「これが……!」

「うわ…分厚い本!」

 その机の上。綺麗に整頓されたそこに、今回の目的である歴史書は置かれていた。

「はい、こちらが伯爵家当主が代々書き残した歴史書になります。この書の最初の記録は今から約304年前…つまり西暦1426年のルリエル王国独立記念式典のことから始まっています。国内でのことがほとんどですが、重大な出来事であれば国外のことも記録されていますよ」

 二千頁は余裕でありそうな、革張りのされたA4サイズの分厚い書物の一頁目に手を掛けたオリヴィエは、そこに刻まれている歴史の内容について端的に説明した。

見たこともないような本の厚さにコルザはまた素直な感想を呟いていたが、一方のペティアはこの本に詰まった歴史の重みを感じたような、どこか硬い表情だ。

「どうぞ、ペティア。なにも気になさらず、ご覧になって下さい」

「ええ、ありがとう」

 躊躇うように、しばらく歴史書を眺めていたペティアは、やがてオリヴィエに促されるまま、革手袋をはめた左手でゆっくりと歴史の頁をめくっていった。

そして、手書きで刻まれた、王国と諸外国の歴史を声に出しながら読み進めていく。

「1502年、欧州国際連盟での各国首脳による緊急会議…1576年、港町セレイアで大規模な港の整備…1669年、某王国での内乱……。お父様が亡くなったときの王国最高齢が、確か当時七十歳の財務大臣・ロヴ公爵だから、この辺りから見ていけば……」

 そう言ってペティアが手を止めたのは、今から約六十年前の出来事だった。

そのページを境に今までよりも慎重に、ゆっくりと頁をめくっていく彼女の姿に、オリヴィエは首を傾げると、少しだけ不思議そうに尋ねた。

「ペティア、聞いてもいいですか? 侯爵は二十数年前、若くして当主になったと聞いていますが、このころはまだ先代が調査を行っていた時代ですよね? なぜこんな古い時代から入念に調べるのですか……?」

「念のためよ。私はいつから闇がこの国に根付いていたのかを知らない。もしかしたら、お爺様の代では偶然見つからなかっただけ、という可能性も捨てきれないもの」

 小首を傾げながら問いかけてくるオリヴィエの疑問に、歴史書から目を上げたペティアは、そう簡潔に説明した。密告者についても闇の大物についても、ペティアが知り得ている情報は少ない。だとしたら、考え得るすべての可能性を潰していかなければ……。

その懸命な姿にオリヴィエは優しく笑うと、それ以上何も言わず、ペティアの向かい側から歴史書を覗き込んでいるコルザと共に、彼女が読み終えるのを待った。

「……どうですか、ペティア? 何か分かりました?」

「そうね……」

 十五分後。ただひたすら歴史書を読み続けていたペティアは、記載されていた今年の初秋までの出来事を読み終えると、静かに書を閉じた。

歴史書には大臣の仕事の功績をはじめ、王城での各種式典、嫡子の誕生、王都中に響いた夫婦喧嘩など、実に様々な出来事が書かれていた。だが、やはりと言うべきか…残念なことに、闇へ繋がりそうな直接的な出来事は書かれていなかった。

そのことを話すと、コルザもオリヴィエも残念そうな表情を見せたが、ペティアは何でもないことのように肩をすくめると二人に告げた。

「そんな顔しないで。仕方ないわ、簡単に証拠が見つかるような案件なら、お父様だって苦労はしないもの。でも、歴史書見ていてひとつ、思ったことがあるの」

「思ったこと?」

 くじけることなく、冷静に分析を続けるペティアに、コルザが机に頬杖をついたまま尋ねる。

すると彼女は、先程まで見ていた歴史書のある頁に手を置くと、ひとつの仮説を話し出した。

「ええ、ここを見て。前世紀末から今世紀初頭にかけて行われた各港の再整備。これは出来事として表の歴史にも載っているけれど、ここには、財務省職員に聞いたという目的まで記載されていて、どうやら植民地支配を視野に入れた貿易の強化と、他国との交流・政治的な結びつきを強めるため、外務省と財務省の高官がわざわざ指揮を執ったみたいなの」

「え、環境省の役人じゃなくて?」

「そうなのよ。普通、公共交通網の建設や整備は環境省の交通整備局の仕事でしょう? 珍しいこともあると最初は思っていたのだけれど…この港の整備から数年、やけに東欧との貿易が増えているのよ。異文化交流は悪いことではないけれど、お父様の調べでは、大物貴族の闇の根源も東欧にあると仰っていたから、もしかすると、この港の再整備や他国との交流の推進自体が、貿易強化を隠れ蓑に闇を呼び込む手段だった可能性も考えられるな、って……」

 歴史書を読んで思った疑問や事実を口にしながら、彼女はそう言って二人を見上げた。

ペティアの話を興味深そうに聞いていたオリヴィエは、彼女の仮説に感心の眼差しを向け、コルザもパッと明るい表情を見せると、肯定的に頷いた。

「なるほど。他の省が出張るっていうのは、多少不思議に思うけれど、根底に悪意があるなんて誰も思わない。それくらい力を入れたい事業なんだろうな程度で納得されて終わりだよね。じゃあ、ペティアの探し人もどちらかの省に……?」

「そうね。その可能性もあると思うわ。尤も、省に在籍しているだけの職員の口車に乗せられて、お父様が秘密をしゃべるとは考えにくいから、当時の外務省・財務省所属の職員の中で、お父様と直接交流のあったお家を調査対象に加えましょう。もちろん、そうでなくても、お父様が懇意にしていたお家は調査すべきだと思うけれど……」

 見えてきた方向性にほんのわずかな希望を見出しながら、ペティアは今後の調査について提案した。結局、ここでいくら話し合いを続けようとも、闇との繋がりを決定づける証拠を見つけなければ告発も復讐も叶わない。

調査すべき家を絞り、お茶会やパーティと言う名目でお宅訪問する手筈を整えなくては。

「それでは当時の職員名簿と、スリージェル侯爵の交友関係を一度浚ってみましょう」

「うわ、細か…っ! なにこれ」

 そう言ってペティアの提案にオリヴィエが取りだしたのは、当時の外務省・財務省の職員名簿と自作のスリージェル侯爵交友関係リストだった。見やすくも細かく丁寧なリストにコルザは一瞬面食らったが、オリヴィエは軽く微笑むと、リストに視線を落としながら話を続けた。

「うちにあった資料ですよ。まぁ、それはさておき、当時スリージェル侯爵が最も懇意にしていたのは、コルザのトレフィーヌ公爵家、アルクのグランディア侯爵家、ミューナの生家・リースレット子爵家、サリィヌのブラーティン伯爵家、そして我がレシュラン伯爵家と、いずれも我々の幼馴染みの家ですね」

「んー、まぁそこは回るしかないよね……。他には? ものすごくとはいかなくても外務省・財務省に所属していて侯爵様と交流のあった家もあるんでしょう?」

 どんなに足掻いても幼馴染みの家が対象に入ってしまう事実に、コルザは分かっていながらも残念そうに表情を曇らせると、職員名簿に目を落とすオリヴィエに尋ねた。

彼の問いかけにオリヴィエは、出来ることなら幼馴染みの家は関係なくあってほしい、そう思っていることがはっきり顔に出ているコルザに、今分かっていることを告げた。

「スリージェル侯爵は外交官ですから、そもそもの所属は外務省です。そちらの関係で私的にも交流のあった家が三つ、あとは…仕事上やり取りをしていた家が幾つかあったはずです」

「うーん、じゃあそこも回ってみようか。そうなると怪しいな…外務省」

 ペティアの仮説と、オリヴィエが提示した家名にコルザは首を捻ると、疑うように呟いた。

確かに、貴族の中には身分が下であることを理由に平民に手を上げたり、私腹を肥やすために悪巧むような、お世辞にも評判がいいとは言えない者たちがいることは知っている。

だが、少なくとも幼馴染みの家に、悪い噂が囁かれている心当たりはない。

幼馴染みの家は潔白であってほしいと言う贔屓目もあるだろうが、すべてのことが外務省で起きているのだとしたら、むしろ怪しむべきはそこなのではないだろうか。

「……そう言えば、なぜペティアは情報提供者を先に探すことにしたのですか? まぁ、間違いなくペティアが言う闇の大物貴族の方が、探すのは困難かと思いますが……」

 すると、悩み続けるコルザをよそに、考えに耽っていたオリヴィエが少し話題を変えるように問いかけた。彼の質問に、情報提供者が裏切った侯爵の友であることを知っているコルザは首を傾げたが、まだその情報をある意図を以って話していないペティアは、一瞬、目を見開いた後で、どこか慎重に言葉を選びながら言った。

「そうね。大物貴族については大方目星がついているけれど、」

「え」

「相手は秘密を知った人間を屋敷ごと葬るような人だもの。おそらく調べたところで巧妙に証拠を隠し、絶対にしっぽを掴めないと思うの。そう考えると……」

「……ちょっと待って。今、大物貴族の目星がついているとか言った?」

 情報提供者の方がまだ探しやすいかと思って。オリヴィエの質問をそんな理由で誤魔化そうとしたペティアの言葉は、途中で割り込んできたコルザに遮られ、伝わることはなかった。

ペティアの発言がよほど意外だったらしいコルザは、驚いた顔で目を瞬く彼女を見つめ、大きく口を開けている。

「言ったわよ?」

「えぇっ?」

「だって、侯爵家当主だったお父様が、王国の要人である大物貴族と仰っていた以上、相手はお父様より格上の人物だと予想されるわ。つまり必然的に公爵か大臣ね。そう考えると、多く見積もっても候補は十数名と思っただけよ」

「あー」

「だから、もしかしたらお父様の旧友で、公爵で内務大臣のコルザのお父様が黒幕だったりして、と考えて今あなたのお家にいるわけ。何軒か回ったお屋敷から何も出てこなかったしね」

 まるで、明白だと言うようにペティアの口ぶりは淡々としていたが、一方で大物貴族の目星がついていると言う衝撃の事実にコルザは驚愕しっぱなしだった。だが、続けざまにさらっと告げられた、ペティアがトレフィーヌ公爵家を選んだ理由に、コルザは仰天すると、

「……えっ! うちだいぶ疑われてた!」

「フフ、ご愁傷様です。ちなみに先程何軒か屋敷を回ったと仰っていましたが、今までペティアは他にどのお家を巡ったのですか?」

 納得したりショックを受けたりと百面相を繰り返すコルザとペティアのやり取りを微笑ましく見ていたオリヴィエは、コルザの顔が落ち着いたのを見計らって言った。

すると彼の問いかけにペティアは一瞬宙を見遣った後で、それを教えてくれた。

「これまで調査したお家は、お父様とよく一緒にお仕事をしていたご友人の、マルグリア子爵家とローザン伯爵家、あとはこのお屋敷にもいたわよ」

「え、ここ? オリヴィエの家にいたの?」

「ええ、二年くらい前かしら」

 指折り巡った家の名を上げるペティアの発言に、コルザはまた目を丸くすると、隣で同じように驚きを見せているオリヴィエと顔を見合わせた。相変わらず淡々とした彼女の口調とは裏腹に、先程から驚かされっぱなしの二人はやや動揺した様子だ。

「気付いてた? ペティアがいたなんて……?」

「いいえ、初耳ですね……」

「じゃあ…もし、オリヴィエがペティアに気付いていたら、二年も前に逢えていたかもしれないってこと? なんで気付かないんだよ、オリヴィエ~!」

「当然よ。私はハウスメイドだったし、近くに家人の気配を感じたら逃げていたもの」

 思い当った可能性にちょっとだけむくれながらオリヴィエを小突くコルザに、ペティアは大真面目な顔で言い切った。彼女に友人たちと再会する気が微塵もなかったことは台詞からも明白だったが、ここでオリヴィエはあることに気付くと、青い瞳を細めながら尋ねた。

「それではなぜ、コルザには正体を明かしたのですか?」

「私だって、明かしたかったわけじゃないのよ。……でも…あれは本当に運が悪かったの。あの日私は、公爵様が数日ご不在と聞いて、トレフィーヌ様の書斎に忍び込んでいたのだけれど、コルザったら満月観賞、なんてロマンチックなことをしにバルコニーに出ていたみたいで……。私が書斎から出る瞬間を帰りがけの彼に偶然目撃されて、気付かれたのよ……」

「月明かりの下での再会…ですか。それもロマンチックで素敵ですね」

 悲しそうに理由を告げるペティアと、嬉しそうな笑顔を浮かべるコルザを交互に見返したオリヴィエは、優しい笑みを浮かべ和やかに言った。

五年の年月を経て実現した二人の再会を純粋に喜んでいるような彼の声音に、ペティアは一瞬言葉を詰まらせたが、やがて息を吐くと今後のことに話題を切り替えた。

「それより、さっきオリヴィエが挙げてくれた家を巡る順番を決めましょう。せっかくここまで候補を絞れたのだから、行動しないと」

「フフ、分かりました。では、届いている招待状などを参照しながら、予定を立てましょう」

 そうして三人は、本格的な冬となった今の時期から二ヶ月の間に行われるお茶会やパーティの予定を招待状を基に確認し、候補に挙がった家々を巡る計画を立てた。

最初から分かっていたことだが、巡る家の大半は幼馴染みのお屋敷なので、大方の予定はすんなりと決まってくれた。だが、しばらくして一つの家名を見つめていたオリヴィエが、少しだけ困ったように言った。

「……リースレット子爵家に関しては、ミューナ本人に聞いてみないと何とも分かりませんね。伺うにしても大人数で行けるかどうか……」

「あー、そっか。確かに今は、ミューナんちには気軽に行けないかもね」

「……? ミューナはお家でお茶会をしないの? お兄様がいるから?」

 オリヴィエの話に納得の表情を見せるコルザとは裏腹に、ペティアは思わず二人を見つめると不思議そうに尋ねた。昔から甘いものが大好きだったミューナなら、自宅に併設された巨大温室で頻繁にお茶会をしていそうなものだが……。

そんなことを思いながら首を傾げるペティアに、オリヴィエとコルザは一瞬きょとんとした顔を見せた。だが、すぐにペティアが何も知らないことを悟ると二人は笑って、

「そっか、ペティアは知らないのか」

「確かに、ペティアにはまだご報告していませんでしたね」

「……?」

 そう言って楽しそうに笑う二人のやり取りを、ペティアは困惑顔のまま見つめていた。

知らないとか報告とか、一体何のことだろう? そんなことを思いながら黙っていると、しばらくして、表情を改めたオリヴィエが少しだけ照れたように報告した。

「実は一年半ほど前、私はミューナと婚約しまして、今彼女は我が家に住んでいるのです」

「……え。こ、婚約? オリヴィエとミューナが……?」

「はい」

「………」

 オリヴィエの意外な報告に、ペティアは心底驚いた顔で何度か目を瞬くと、そのままフリーズしてしまった。予想以上の反応にオリヴィエもコルザも驚いたが、やがて彼女の動揺が収まってきたのを見計らうと、苦笑交じりに言った。

「だいぶ意外そうだね」

「……だ、だって、婚約なんて、そんな、そんなのまだ……」

「俺たちもとっくに成人しているからねー。そんな不思議なことじゃないと思うよ。ま、と言ってもあとはサリィヌとラスターにそれぞれ許婚がいるくらいだけ、ど…ペティア?」

 動揺を隠し切れないペティアとは裏腹に、何でもないことのような声音で事実を教えてくれるコルザの言葉に、彼女はハッと目を見開くと、僅かに俯いた。

分かっているつもりだったけれど、あれから五年も経っているのだ。

もう自分たちはそんなに子供では、ない……。

「……ごめんなさい。そうよね。……ただ、私の中ではすべてがあの日で止まっているから、実感がなくて。全然そんなこと、考えてもみなかった……」

 消え入るような小さな声で感想を呟くペティアの本音に、コルザは自分の失言に気付くと、どこか傷ついた面持ちで彼女を見つめた。

ペティアにとってのこの五年は、華やかさとは無縁の孤独な戦いの日々だった。

コルザと逢い、五年ぶりに幼馴染みたちと再会したとはいえ、彼らに対するペティアの印象はあのころのまま変わっていないのだろう。そう思うと彼女の反応にも納得がいく。

「………」

 分かっていたつもりだったけれど、再会して一ヶ月では埋め切れない五年の空白と互いの意識の違い。正しくそれを体現した状況に、しょんぼりと俯く二人を心配そうに見つめていたオリヴィエは、やがて話題を変えようと彼女にある提案を持ちかけた。

「ペティア。よろしければこの後ミューナに会って行かれませんか?」

「えっ」

「もちろん、あなたの正体を明かすつもりはありませんので、ご安心を。調査の件に女性を巻き込みたくないのは私も同感ですから。……ですが、リースレット家を訪れる日程然り、直接話を聞いてはどうかと」

 オリヴィエの提案に、ペティアは俯くのをやめると悩むように口元に手を当てた。

確かに調査対象として挙げた家の中でリースレット家だけ伺う日程は決まっていない。

けれど、ミューナに直接会うのは………

「ん…分かったわ。ただし、絶対に正体は秘密だからね」


 と言うことでオリヴィエに誘われるがまま、ペティアとコルザは青と白を基調としたレシュラン家の談話室にやって来た。洗練された美しい調度品や絵画が並ぶ室内は、窓から入る冬の柔らかな日差しを受け、明るい。

和やかな雰囲気に包まれたこの場所で、ペティアはミューナに正体を知られないよう、あくまで侍女としてソファに座る彼の傍に控え、ミューナを呼びに行ったオリヴィエの到着を待った。

「お待たせしてすいません、コルザ」

 ミューナを連れたオリヴィエが談話室に戻ってきたのは、それから十分ほどのことだった。

出て行ったときと変わらず柔らかい笑みを浮かべた彼は、ミューナの他にも数名のメイドを連れており、彼なりにもてなしの準備をしてくれていたことが伺える。

相変わらずの気遣いにペティアは感心すると、準備を進めるメイドを見つめる体を装い、彼のあとに続いてコルザの向かいに腰かけたミューナを見遣った。

 ミューナは肩につくくらいの短い茶髪に大きなリボンが印象的な幼顔の女の子で、ペティアとは同い年の親友だった。いつもゆったりとした雰囲気で周りを和ませてきたあのミューナが、いつの間にかオリヴィエと婚約していたなんて、やはり驚きだ。

(……でも、今のミューナはとても幸せそうだわ。直接おめでとうって言ってあげられないのが残念だけれど、親友が幸せなら、それはとても嬉しいことよね)

 会えているようで会えない親友を思いながら、ペティアは少しだけ寂しそうに俯いた。

トレフィーヌ家でのお茶会のときも思ったけれど、やっぱり昔の友人の姿を見るのは嬉しい以上に苦しかった。本当の自分を言えないのが申し訳なくて、寂しい。

そんな心持ちを胸に三人の様子を窺っていると、向かいのコルザと隣のオリヴィエを交互に見つめたミューナが不思議顔で口を開いた。

「それで、私に何か御用かしら? 今日はオリヴィエとお仕事の話で来るって聞いていたから、突然呼ばれてびっくりしたわ。会えて嬉しいけど~」

「ごめんね、ちょっと話があってさ」

「ふぅん。……それにしても綺麗な子ね~」

 のんびりとした口調で紅茶を頂きながら話を聞いていたミューナは、不意にコルザの後ろにいる女の子を見つけると、何気ない口調で呟いた。

「えっ?」

「あなたの後ろにいる女の子。コルザの侍女?」

「そうだよ」

「……」

 他の幼馴染み同様コルザに侍女というのが珍しいのか、ミューナはそのまま見るともなしに彼女の姿を見つめ続けた。赤みがかった茶色の瞳に、長いまつげ。それを彩るウェーブを描いたピーチベージュの髪……。どこかで知ったような色彩だ。

「何か気になることでもあるのですか、ミューナ?」

そんなミューナの視線に、ポーカーフェイスを装いながらも内心、微かな焦りを募らせるペティアの心情を察してか、彼女の視線に気付いたオリヴィエが、疑問を装って問いかけた。

もちろんオリヴィエには彼女が何に引っ掛かっているのか分かっていたが、秘密を言えない以上、演技を余儀なくされているようだ。

「うーん、なんか知ってる女の子に似ているような……。気のせいかしら」

「……!」

 すると、彼の問いかけにミューナは首を傾げると、侍女を見つめたまま呟いた。

まさか正体に気付かれるとは思わないが、前例がないこともないだけに、油断はできない。

(ごめんなさいミューナ。お願いだから…気付かないで……!)

「……。……いいえ、そんなわけないわね。ごめんなさい、何でもないの……」

 気付きたいミューナと、気付かれたくない三人の微妙な心情のせめぎあいが織りなす何とも言えない空気の後、ミューナは不意にソファにもたれると脱力したように結論を出した。

その少しばかり落ち込んだ表情にペティアは申し訳なくなったが、気付かれずに済んだことには正直ほっとしていた。友人の目の触れるところに姿を晒す危険性は考慮していたつもりだったが、こうも立て続くとどうにも心臓に悪い。

「でもほんと綺麗な子ね。まさか、コルザがペティア以外の女の子に興味を持つ日が来るなんて、正直夢にも思わなかったけれど……」

「え」

 そんなことを思いながら、再び紅茶のカップをとってお茶を嗜むミューナの様子を窺っていると、彼女はまるで今の間を取り繕うように、思いがけないことを口にした。

その予想だにしなかった台詞に、コルザが紅茶でむせながら目を丸くする。

「あら。だって今でもあの子が一番なんでしょう? バレバレよ」

「……!」

「好き合った二人が結ばれたらいいなって、私は昔から思っていたのよ。いつかそんな日が来るのを、あのころは楽しみにしていたのだけどねぇ……」

「えっ、いや、そ、す、き合うなんて……」

 間を取り繕うためとは思えないほど想定外な爆弾投下に、コルザは百面相を繰り返すと、実に楽しげなミューナの笑顔を見返した。

もちろん彼女に悪気がないのは分かっているのだが、本人が真後ろにいるこの状況で、自分たちの話をされるのは、とてつもなく気恥ずかしい。

「フフ、やっぱりコルザは気付いていなかったのね。まったく鈍感なんだから」

 しかし、正直に顔を赤くするコルザの反応が楽しいのか、ミューナは上品に声を上げて笑うと、生き生きとした様子でなおも話し続けた。

「私が思うに、ペティアはあなたを好きだったと思うの。コルザと一緒にいるのが一番楽しそうだったし、何より幸せそうだったもの。……尤も、結婚相手は親が決めるものだからって強がっていたから、あの子自身、自覚はしていなかったかもしれないけれどね……」

「!」

(……ペティアが俺を? そんな、こと……、いや、今はそれどころじゃ……)

「あの子と最後に会ったときも、二人はうちの温室で楽しそうに植物を見ていたわね。まさかあれが、今生の別れになるなんてね……。逃げた…じゃない、焦げた魚は大きいわよ」

 笑顔の裏にほんの少し寂しさを織り交ぜた声音でそう締めくくったミューナは、顔を真っ赤にしてあわあわしているコルザと、彼の後ろで瞳を伏せて表情を隠す侍女に目をやった。

彼女の視線に、もしや侍女の正体に気付いていてあえて二人をからかっているのでは、とオリヴィエは心配になったが、向かいにいる二人は確実にそこまで気が回っていないことだろう。

(……ペティア本人がここにいなければ、私もミューナに賛同したいところですが)

「まぁまぁ。コルザをからかうのはその辺にしましょう」

 二人きりになった後、目を合わせるのも恥ずかしくなりそうな話題に、オリヴィエは小さく苦笑すると、そう言って助け舟を出した。

そもそも彼女を呼んだのは、ミューナの生家にお邪魔する日取りを決めるためであって、こんな穴があったら埋まりたくなるような話をするためではないのだ。

「フフ、はぁい。脱線してごめんなさい。私に何か御用があって呼んだのよね?」

「ええ。実は私たちも先程、昔話をしていましてね。子供のころ、よくコルザたちとリースレット家の温室に集まって遊んでいたことを話していたら、また見たくなってしまって。あなたがうちに来てからはあまり行く機会もなかったので、今度皆で行けたら、と……」

 何とも言えない微妙な心情で黙りこくるコルザたちをよそに、オリヴィエは話題を戻してくれたミューナに、ようやく本題を切り出した。

もちろん話はこじつけだが、彼女はそれに気付いた様子もなく笑うと、

「あら、いいわね。今の季節なら、ちょうどフリージアが綺麗に咲き出すころだわ。あの子が大好きだった花だし、久しぶりに幼馴染みを集めて温室で昔話、楽しそうね」

「きっと素敵な時間になりますよ。お父上にご確認いただけますか?」

「もちろん。日程が決まったら招待状を出しましょう」

 どこか嬉しそうなミューナの返事に、オリヴィエは優しい笑み浮かべたまま、ようやく平常心を取り戻した様子の二人にそっと目配せた。

さすが、馬鹿正直なコルザとは違い、オリヴィエは話しの誤魔化し方や誘導が上手である。

(……これでようやく、候補に挙げた家をすべて巡る算段が付いたわね。あとは、本当にこの中に密告者がいるか、証拠を探すだけ。必ず、見つけて見せるわ……)



「世紀末の港の整備…それがきっかけの可能性、か……」

 数日後、レシュラン伯爵家での話し合いを経て、探るべき家を限定したペティアとコルザは、情報を共有するため、ラスターを家に招いていた。

「ええ。まだ可能性と言うだけで確証はないけれど、闇との繋がりが今世紀に入ってからできたと仮定すれば、歴代当主の中でお父様だけが闇の存在に気付いたことにも納得がいく。それに西は海、東は大国に挟まれたこの国が闇を呼び込むなら……」

「確かに、外側を回って海から入れるのが妥当だな」

 突然の招待に初めこそ怪訝な顔をしていたラスターは、普段あまり使っていない離れの談話室でペティアの報告を聞くうちに、表情をどんどん真剣なものに染め変え、歴史書とそれを基に立てた仮説を一通り聞き終えた後で納得したように頷いた。

候補に挙げた家名然り、仮説とは言え彼女の話はしっかりと筋が通っているように思える。

ちなみに、この話は既にオリヴィエ経由でアルクにも伝えてあり、ペティアの仮説にアルクは大いに感心した様子を見せていたそうだ。

「しかし…あれだな。きみたちの話を聞くに、僕たちが正体を暴き、追い詰めんとしているのは闇との関係を築き上げた相当な大物貴族、と言うことになるのか……」

「……!」

「特に今現在それが露見していないあたり、かなりの重鎮か、はたまた幾人もの貴族を取り込んでいるのか……。なんにしても御しがたい相手であることは間違いないな」

 するとしばらくして、ラスターは会話の途切れを繕うように、つり眉をさらに吊り上げながら呟いた。一週間ほど前ペティアに聞いた話を含め、相手の危険度の高さは計り知れない。

もちろん、そこにはっきりとした恐怖があるわけではないが、妙な緊張感だけが心の内に溜まっていく、そんな感覚を拭えないのも確かだ。

「……そうね。相手は私たちの想像を超える大物……。これ以上核心に近付くのはとっても危険だと思う。だから、もしラスターが嫌だと思うなら無理しないで?」

 相手の大きさを再認識したように俯くラスターの表情を見つめたペティアは、やがて躊躇いがちに口を開いた。未来のため、そう言って協力してくれる気持ちは嬉しいが、やはり、将来国の中核を担うことになる彼らを巻き込むことへの罪悪感は大きいようだ。

「……そう言う意味ではない。それに、勘違いしてもらっては困るが、僕たちはきみに頼まれて協力しているわけじゃない。自分の意志できみの目的に首を突っ込んでいるだけだ。だからそんな風に心を痛めるな」

「……!」

 ペティアの罪悪感を打ち消すように、ラスターはそう言って彼女の頭をぽんと撫でた。

飾り気のない言葉とは裏腹に、触れる手はとても優しい。

思わぬ行為にペティアは一瞬戸惑いを見せたが、すぐに思い当ったように瞳を伏せると、心の中で呟いた。

(私はナルシア嬢と同じ扱いなのかしらね……)

「………」

「……悪い。いつもナルシアにこうしていたんだ」

 そんなことを思って黙っていると、しばらくしてラスターが我に返ったように言った。

ナルシアとは、ラスターが溺愛している彼の妹で、高飛車で派手好きな、お世辞にも品が良いとは言えない伯爵令嬢だった。物静かな兄とは正反対の妹をなぜそんなに溺愛しているのかは不明だが、こういった行為は兄妹間では日常のようだ。

「……ともかく、この件に協力しているのは僕の意志だ。罪悪感など要らないから、必要なことは言ってほしい」

 彼の妹愛を改めて認識しながら、問題ないと言って首を振ると、ラスターは今の行為を取り繕うように改めて自らの意志を伝えた。

調査の件に協力しているのは、自分たちなりに国を守らんと考えた結果で、家も立場も関係ない。

それをきちんと分かってもらいたかった。

「……ありがとう、ラスター」

 そんな彼の気持ちに、改めて覚悟を決めたペティアは、ラスターの言葉を心に留めるとゆっくり頷いた。

自分の罪悪感はともかく、彼らの意思を尊重したい、そう思ったのだ。

「分かったわ。では、次はサリィヌの家で会いましょう」

「ああ。八日後、楽しみにしているよ」

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