第三章 「半月の子ども」

第1話 海の向こうへ

「……やはり、そうなりますか」


自身の地下室の中で呟きながら、『探究の賢者』エクスは立ち上がった。力強さの欠片も無い、ゆっくりとした起立だった。しかし、彼の体は異様とも言えるほど大きかった。特に身長は2mを優に超えていて、腕も気味が悪いほどに長かった。


「非常に不味い事態になりました。このままではメーナの命が危険です。急ぎ準備をしましょう」


エクスは一人呟く。彼はよく独り言を呟く。と言っても、昔はそうでは無かった。正確に言えば4~5年ほど前から、独り言が激しくなった。しかし、とりわけ彼はその事を気にしていなかった。必要な事を、必要な時にする時に、何の許可や常識がいるのだろうか。彼にとって独り言とは、そのレベルの話なのだった。


立ち上がったエクスは、机の上に無造作に置いた仮面を手に取った。黒一色で何の模様も無い、目の所に僅かな隙間があるだけの、兜のような仮面だった。


「さて、色々と準備を始めましょうか」


エクスは呟いて、仮面を装着する。視界は大分狭くなるが、彼にとってはそこまで大きな問題ではない。


「ふむ……帰ったら部屋を片付ける必要がありますね」


エクスは部屋の中を見回しながら呟く。足の踏み場が無いという程ではないが、部屋の中は雑多な物で散らかっていた。積もった埃を落としながら、エクスはいくつかの器具を拾った。


「君も楽しみですか?少々苦戦するとは思いますが、必ずメーナは連れて帰りますよ」


机の上で拾った物の整備をしながら、エクスは呟く。しかし、辺りには彼以外、"誰も"いなかった。それからしばらく、彼は整備を続けた。


整備は一時間程で終わった。整備を終えた器具達をエクスは懐に仕舞って立ち上がる。


「こんなところでしょうか。一応、直ぐに治療が出来るように後で転移装置も作動しておきましょう。いや、寧ろ転移装置を使って行った方が楽ですかね。順調にいけば、メーナ達は今頃海峡ですか。彼女の身に、何事も無ければ良いのですが」


エクスは数歩いて、"何か"に触れた。背丈の高い彼よりも、遥かに大きい何かである。


「アニー。待っていてください。君のご友人は、必ず私が奪還します」


かなり縦に大きく作られた地下室にただ一つ、彼の声が響き渡った。彼は体を翻して、掛けてある黒いマントを手に取った。彼の着ている服には、背中に大きな穴が開いている。その穴を隠すように、そのマントをエクスは羽織った。


「願わくば、この私に唯一神の加護があらんことを」


エクスは一瞬だけ立ち止まって祈りを捧げて、また再び歩み始めた。



*   *   *



――ディア海峡


バイズ共和国と、魔族連合国の間にあるこの海峡は、人間領土と魔族領土を結ぶ唯一の海路にして、正規の手段として魔族連合国へ入国出来る、ただ一つのルートである。


その海の上に、全長10m程の船が一隻、魔族連合国へ向けて進んでいた。その船には、帆もオールも無かったが、確かな推進力を持って、目的地に進んでいた。


「おえぇぇぇ……」


その船の上で、佐藤は海に向かって胃の中身を吐き出していた。


「クソ……何だってこんな……ちく――」


言いながら、また佐藤は吐いた。吐き始めてから、既に1時間は経過している。胃の中身は出し尽くしたと思っていたが、それでも何かの小さな固形物と共に、吐瀉物は海に溶けていく。


「いつ食ったものなんだよ……ちくしょう……」

「はっはー。大丈夫……じゃないみたいだねぇ」


彼の背後で、マギサが薄ら笑いを浮かべて立っていた。


「……マギサさんは、平気なんですね。正直、羨ましい限りです」

「私も全然船酔いするけど?」

「その割には、そんな事なさそうに見えますけども。回復魔法とかで何とかしてるんですか?」

「いんや?回復魔法じゃそれは無理だね。船酔いは正常な機能の一種だから」

「は、はぁ……。じゃあ、どうして船酔いしてないんですか?」

「ちょっとだけ浮いてるから揺れもクソも無いだけ」


ドラえもんかよ。と、佐藤は心の中でツッコミを入れた。


「……じゃあ、俺の事も浮かせてくださいよ」

「それは無理」

「どうして?」

「面倒だから」


あっけらかんと言う彼女に、佐藤はため息を吐いた。


「……っていうか、タダ乗りさせてもらっている立場で言う事じゃないですけど、もう少し大きな船は無かったんですか?昔から、小さい船がどうしても苦手で」

「うーんまあ、もうちょい大きな船ならあるけど、例えば、何百人も乗れるくらい大きな船ってなると、魔物に沈められて終わるから無いかな」

「……魔物?」

「魔力を持った生物の総称。海ならクラーケンとかリヴァイアサンとか。大きな船で海を渡ろうとすると、そう言う連中が船を沈めてくるのさ。生息地にもよるけど、大きい船ってのはこの世界には無いね」

「……魔法で倒せないんですか?」

「クラーケンやリヴァイアサンは賢者クラスじゃないと多分無理だし、それに巨大な船を守りながらって考えると、やらない方が無難だね」

「人払いは?」

「ある程度知能があれば魔物にも効果があるけど、多分魔力量が多すぎて効かないんじゃないかな」


(……クラーケンとリヴァイアサンの馬鹿野郎)


水平線の遥か彼方をぼんやりと眺めながら、佐藤は心の中で悪態をついた。


「……そう言えば、マギサさん。魔族連合国って、どんなところなんですか?」

「一言で言うなら、砂漠の国って感じかな。あとは名前通り魔族がいっぱいいる。と言っても、人間がいないわけじゃないけど」

「そうなんですか?」

「魔族が人間の領土に入るのは駄目だけど、こっちが魔族の領土に入るのはオッケーだからね。商売だったり、輸出入のためだったり」

「後は、亡命するためだったり?」

「正解」


佐藤に指を指しながら、マギサは言った。


「いると良いんですけどね。俺以外の転生者。出来ればあの本の事を理解できるくらい凄い人。……まあ、いないと思いますけど」


積荷の方をチラリと見ながら、佐藤は言った。


(本音はこの本を書いた作者に会うのが一番だけど、70年前の事らしいしなぁ)


ため息と同時に、再び佐藤は胃の中身を吐き出した。


「どういう吐き方なのよ、それ」


佐藤の背後で、マギサが苦笑した。


「あー……。後どのくらいですか?これ……」

「1時間くらいじゃない?」

「……しんど」


佐藤は絶望に満ちた表情で、天を仰いだ。


「……ねえ」

「……ん?」


陽に照らされた佐藤の顔を、影が覆った。


「……変わってくれない?そこ」


一切抑揚が無い、フェルムの声だった。深く被ったフードが、海風に吹かれ揺れていた。


「えっと……」

「気分が悪いなら、寝てたらいいと思うけど。船内に寝台ならあるし、マギサに魔法でも掛けてもらえばすぐ寝れるでしょ」


淡々と話すフェルムの顔は、少し青かった。表情には出していないが、暑さだけとは思えない程、大量の汗をかいていた。


「あの……フェルムさんも、ご機嫌が優れないのでしょうか?」

「何でそんな気持ち悪い喋り方してるの」

「まあ、何となく……」


滅茶苦茶怖いから――とは口が裂けても言えなかった。フェルムは少しだけ眉をひそめたが、すぐに取り直して、


「あっそ。分かってるなら、変わって」


と言った。


「は、はい……」


言われるがまま、佐藤はふらつきながら立ち上がって、船内にある寝台へと向かった。フェルムは佐藤が見えなくなった途端、船から身を乗り出して、口から何かを吐き出した。


その何かは血だった。今までため込んだものを吐き出すように、彼女は血を吐き続けた。フェルムは血を吐きながらも、懐から錠剤を取り出して、強引に口の中に押し込んだ。


「……別に、無理してついてこなくていいと思うけど」


マギサは、フェルムの吐血がある程度収まったのを確認してから言った。


「……五月蠅い。そこの人間を魔族連合国に届けるのがアールの役目なら、私もそれを全うするだけ」


フェルムはマギサを強く睨みながら言った。マギサは呆れたように肩を竦めた。


「分かった分かった。好きにするといい」

「……私は後どれくらい持つ」

「さあね。前例が無さ過ぎて、君の症状は私にはさっぱり分からない。君にあげた薬は、単純に病の進行速度……というより、君の体の成長速度を遅くしているだけで、根本的な解決にはなってないからね」

「……往復する分は持たせて」

「それは保証しかねる。が、努力はしよう。最も、君の記憶を読ませてくれるのなら、もう少しいい解決方法を教える事が出来るかもしれないけどね」

「それは絶対に嫌だ」


フェルムが、少しだけ声を大きくして言った。


「だろうね」


マギサは気にすることなく、フェルムの言葉を受け流した。そして、懐から小さな瓶を取り出して、フェルムに渡す。中には、先ほど彼女が飲んだ錠剤が、いくつか入っていた。


「とりあえず、追加分は今渡しておく。この薬、効果時間がなかなか安定しなくてね。症状が出てから飲むしか無いのは、今後の改善点かなぁ」

「そんな事より」

「ん?」


フェルムは船べりを強く掴んだ。


「アールは……アールは本当に無事なんだよね」

「それを確かめる方法は。……まあ、それに関しては保証するよ。あいつの強さは、君もよく知ってるだろう?」


フェルムは数秒だけ、自分の懐に手を入れた。そして、


「……今は、あんたの言葉を信じる」


抑揚のない声で、そう言った。



佐藤達が降り立った港は、砂漠では無かった。ごく普通の港町だった。日差しは強かったが、海から吹き抜ける風のおかげで、寧ろ涼しいと思える程だった。


「ここが砂漠の国……ですか?」


石畳を踏みながら、佐藤は呟いた。周りの建物は木を中心に作られていて、街を取り囲む山々には、木々が所狭しと生えていた。


「砂漠の国だよ」


先頭を歩くマギサが、そう言った。


「……砂漠要素、どこにあるんですか?」

「まー、海の近くだし、港近くは割とこんなもんだね。証拠見たい?」

「証拠……?まあ、見れるなら」


マギサは、不敵な笑みを浮かべながら人差し指を立てた。


「ほれ」


佐藤が気がつく頃には、彼の体は既に上空にあった。


「へ……?」


佐藤は情けない声を出した。反射的に下を見ると、模型サイズの港町に、小さな豆粒のような人影がいくつか見えた。本能的に、足から力が抜けた。足先が、つま先立ちのようにピンと伸びていた。


「――っ」


本能に負けて、恐怖を叫ぶ直前、彼を正常に引き戻したのは、景色だった。目の前に広がる、砂漠の景色。山を少し超えれば、区切ったように、土であったはずの地面が突然砂に変わり、そしてそれは少し丸みがかった地平の果てまで続いていた。


中央に、角ばった建物群が見えた。恐らくはあれが国なのであろうか。しかしそれがちっぽけな存在に見えるほど、その砂漠は横にも広かった。


鳥取砂丘、サハラ砂漠。そんな単語が、彼の脳裏に浮かんだ。実際に目にしたことは無いが、写真で見たそれらと同じ、あるいはそれ以上の、圧倒的な光景だった。


その後、佐藤はすぐに地面に下ろされた。地面でへたり込む佐藤を、自慢げな顔でマギサは見下ろした。


「分かってもらえた?」

「じゅ、十分に……」

「ならばよろしい。とりあえず、服を買うからついてきて」


佐藤に心配して駆け寄るニアを尻目に、その少し後方で構えているフェルムを、マギサは一瞥した。その虚ろな目は、明らかに焦点が合っていなかった。


「どうしたもんかねぇ……」


帽子の端を弄りながらそう呟いて、マギサはため息を吐いた。



「似合ってますね!」


更衣室のカーテンを開けた佐藤に、ニアがそんな言葉を掛けた。


「そ、そうか。なら良かった。ちょっと着慣れないけど……」


佐藤が着ていたのは、白を基調とした、砂漠用のダボついた長袖と、これまた同じくダボついた長ズボンだった。


「魔族用に大きめの服があって助かったよ。サトウ君、やたら身長高いし。オーダーメイドになってたらシャレにならん」


マギサがそう言いながら、佐藤に向かってターバンを投げた。佐藤は掴み取ると、頭にそれを巻き付け始めた。


「……でも、砂漠って、すごく暑いんですよね。どうしてこんな格好を……」


ニアもまた、佐藤と同じような服を着ていた。佐藤と違う所は、羽を外に出せるように、背中に隙間が開いている点だった。


「うーんとね。砂漠って、諸々の理由で水がかなり蒸発しやすいんだ。つまり、かいた汗もすぐに蒸発しちゃうんだ。そうなると、体の水分がどんどんなくなって、危ない状態になるんだ。だから、なるべく体を覆うような服を着る事で、体の水分を逃がさないようにするんだ。直射日光も防げるしね」


科学にあまり理解の無い、この世界の住人にも伝わるように、佐藤は慎重に、ニアの様子を伺いながら、言葉を選んだ。しかし――


「え、えっと……」


終始ニアが困惑した表情を浮かべていたのを見て、佐藤は肩を落とした。


「……まあ、そうした方が良いって事だけ覚えてればいいと思うよ」

「す、すみません。頭が悪くて……」

「仕方ないさ。まだ学校で習っていないだろうし」


佐藤は柔らかく笑って、少しだけぎこちない動きで、ニアの頭を撫でた。


(……まあ多分、一生習わないだろうけど)


佐藤は心の中で、そう呟いた。


「それはそうと、マギサさんは服着ないんですか?」


マギサは佐藤と同じ種類の物は着ず、いつものダボダボのローブと、大きな帽子を羽織っていた。


「やだよ、そんなダサい服」

「……試着室の鏡、折角ですし使ってみたらいいんじゃないんですか」


佐藤がそう言うと、マギサは笑いだした。


「冗談だって。魔法で何とか出来るから、別に良いかなって」

「……フェルムさんも?」


佐藤は、背後で壁に背を預けているフェルムを見ながら言った。彼女の恰好も、いつも通り、フードを深く被ったローブ姿だった。


「そうだけど、どうかしたの?」

「その……。船酔いにしては、体調が回復しないな……と思って。先程から、顔色が悪そうですし。よく分からないので何とも言えないですけど、あの状態で魔法って大丈夫なんですか?」


歯切れ悪く、佐藤が言った。フェルムに気を使っているのか、小声でマギサに話しかけていた。


「……そう?本人が大丈夫って言ってるし、大丈夫なんじゃない?」

「だと良いんですけど……」

「ま、いざとなったら私が何とかするよ。そのためにいるわけだし」

「……よろしくお願いします」


そう言って、佐藤は頭を下げた。そして、ニアの元へ戻っていく。


(案外勘が鋭いのな、あいつ)


佐藤の後姿を眺めながら、マギサは心の中で彼を褒めた。


「やはり、早急に聞くべきかな。『あの件』は」


マギサは気怠げにそう呟いた。

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