第42話 猫と人間

 リンが達哉たつやの家に行こうと思ったのには、もう一つ理由があった。

 それは、リンが置いてきたもの——達哉からもらった大切な鈴を取りに戻るためだ。死んでしまったら忘れてしまうかもしれないと不安に思っていたが、しっかり覚えている。

 もちろん、自分のなすべきこと——壊したものを直すことも、壊したものが何であるかも、しっかり覚えている。


 秘密基地から達哉の家までの足元は、猫だったときほどとはいかなかったが、それでもかなり軽かった。もう二度と会えないと思っていた達哉に会えると思うと、自然と心が躍った。

 魂に刻み込んだだけあって、目を閉じればすぐに瞼の裏に浮かぶ。しかし、実際に逢えるとなると喜びは大きかった。もう二度と逢えないものと思っていた。

 今の自分の姿を見て、達哉はなんと言うだろうと考えると、自然と頬がほころぶ。自分の名前を告げたら、達哉は驚くだろうか。きっと驚くだろう。そして、喜んでくれるに違いない。例え偽物の人間であったとしても——。

 リンは何の疑いもなく、心からそう思っていた。


 達哉の家に着いて、すぐに「しまった」と気が付いた。

 今までは猫だったから、リビングの窓からスルリと侵入することができたが、人間になった今でも、同じように入ってもいいものなのだろうか。

 リンは少しの間、考えた。そして、思い出す。達哉も、たまに玄関ではなく、窓から気配を殺すようにして侵入していることがあった。

 ——であれば、大きな問題はないだろうとリンは判断した。

 そんなときは、決まって達哉の母親の雷が落ちていた——、つまりは、やましいことがある人間の行動なのだが、リンは知らなかった。


 そうと決まれば、すぐにでも入ろう。家に入って、さっさと置いてきたものを取り戻したい。達哉にも逢いたい。そう思って、人間が通るには狭すぎる隙間を広げようと窓枠に手をかける。

 大好きな匂いとともに、室内の空気がふわりとリンの髪を撫でた。

 室内は、外に比べるといくらか涼しかったが、誰もいないようだった。達哉に逢えなくて残念に思ったが、すぐに気持ちを切り替えて鈴を探す。

 置いてきたものの中で、最も取り戻しやすいものが鈴だった。


 最後に置いた場所はどこだったか——、思い出すまでもなく覚えている。最後に達哉とお別れをしたリビングだ。リビングのソファの脇。リンが決まって寝ころんでいた、お気に入りの場所。

 しかし、あると思ったそこに鈴はなかった。それどころか、リンのお気に入りだったクッションもない。リンが訪れると訪れないとに関わらず、いつもそこに置いてあるはずのリン専用の器もなかった。

 おかしい——、と思ったが、あれから時間が経っている。鈴は達哉が見つけて、自室の机にでもしまったのかもしれない。他のものは、使う者がいなくなったから片付けたのだろう。と思いなおす。

 念のため、少しだけリビングを探してみたが見当たらないので、早々に諦めて、達哉の部屋に向かった。

 キシキシとなる階段の音と感触が、新鮮に感じられる。


 達哉の部屋に入ると、すぐに強烈な違和感に襲われた。

 キャラクターもののおもちゃや、車の模様が装飾されたベッドカバー。壁には、何かのアニメのキャラクターが描かれたポスターが貼られている。

 それらのものは、中学に上がるタイミングで達哉の希望で片づけられたり、買い替えられたはずのものだった。


 リンの記憶が正しければ、そこは、昔の——、十年以上前の達哉の部屋だった。


「どういうこと……?」


 思わず独り言がこぼれる。

 懐かしい景色から、言いようのない不気味さを感じる。達哉の部屋からそんな感覚を得るのは、初めてのことだった。


「とにかく……。鈴をさがそう!」


 不安を打ち消すように、努めて明るく、自分に言い聞かせるように言ってから、重たくなった一歩を踏み出す。

 入ってしまえば、そこはただの懐かしい達哉の部屋だった。そういえば、こんな風だったと思い出が蘇る。蘇るのは、なぜか夏の思い出ばかりだった。

 ベッド脇の勉強机。その一番上の引き出しに、鈴はいつもしまわれていた。あるとすればそこだ。

 「なかったらどうしよう」という不安を振り払って、勢いよく引き出しを開ける。

 そこには、ちゃんと鈴が入っていた。


「よかった……。あった」


 猫のときにそうしていたように、首元にぶら下げようと思って、「あっ……」と小さな声を漏らす。人間の首は、猫の首と比べて何倍も太い。そのままでは、とてもではないが、巻き付けることはできなかった。

 どうしようかと悩んでいると、机の上に黒い紐があるのを見つけた。リンは、その紐に鈴を括りつけて、自分の首に巻き付ける。ちょうどチョーカーのようになった鈴を確かめるように指先で撫でた。


「これで、よし」


 馴染みの場所に納まった鈴を揺らしていると、階段を上がってくる音が聞こえた。


「たっちゃんかな?」


 リンは、反射的に達哉の部屋を飛び出していた。少しでも早く達哉に会いたいと思っての行動だった。

 しかし、そこにいたのは達哉ではなかった。達哉の妹、夏菜子かなこが、大きく目を見開いて固まっていた。


「あっ! かなちゃんだ!!」


 夏菜子の姿が子供であることを気にするよりも先に、嬉しくなって思わず声をあげる。しかし、嬉しそうなリンとは対照的に、夏菜子は、固まったまま次第に眉間にしわを寄せ始めていた。


「ビックリした?! リンだよ! 分からなかった!? あたしね、人間になっちゃった!」


 無邪気にはしゃぐリンの手が、夏菜子の肩に触れようというとき、夏菜子は耳をつんざくような悲鳴をあげた。そして、リンを力一杯突き飛ばすとそのまま階段を駆け降りていく。

 リンは尻餅をついたまま、半ば呆然と夏菜子の駆け下りていった階段を見つめていた。

 何が起きたのか、すぐには理解できなかった。それでも五感だけは、容赦なく機能する。夏菜子に押された胸が、床に打ち付けた尻が、鈍く痛んだ。

 そして、離れていく夏菜子の声が、追い打ちをかけるようにリンの耳にはしっかり届いていた。


「気持ち悪い!! なんで知らない子がうちの中にいるの!! なんで私のこと、知ってるの!? 怖い怖い怖い……」


 風に乗って夏の香りが鼻先をくすぐる。

 嫌な汗が噴き出てきて、なにかとんでもないことをしてしまったのではないかと思うと、リンは、しばらくその場から起き上がることができなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る