第36話 呪い

 見上げるほど大きな病院の最上階にある病室で、少女は、真っ白なベッドの上に人形のように横たわっていた。リンの脳裏に、秘密基地での光景がフラッシュバックする。それを打ち消すように、一度大きく頭を振って、意識を現実に引き戻した。

 すんすんと鼻を鳴らすと、薬品の匂いとともにほんのわずかに達哉たつやの匂いがした。それがいくらかリンの気持ちを落ち着かせてくれる。


 横たわる少女の首には、今も縄の痕が赤黒く残っていた。

 無機質に繋がれた、たくさんの管が少女の容態の深刻さを物語る。

 そして、規則正しく鳴る機械音。さらには、それに合わせるように機械的な呼吸の音が鳴る。——嫌な音。無意識にリンの耳が、ピクピクと痙攣するように動く。

 生きているのか、いるのか、リンには判断できなかったが、それらの嫌な音が、辛うじて少女の存命を証明していた。


 病室内には、少女の他に患者はいない。

 特別待遇の個室であることは、すぐに分かった。病院の名前が『大野総合病院』であることと、無関係ではないのだろう。

 

「目の前の私のことを忘れないで。何があっても忘れないで。それだけが今の私の望み」


 リンの隣で、感情のない声がした。達哉が、手紙を読み上げる声だった。


 その手紙は、病室に入るなり、大野真凛おおのまりんの母親から渡されたものだった。リンは、達哉の背負ったリュックの中に隠れていたから、そのときの母親が、どんな表情をしていたのか分からない。

 達哉は、大野真凛の母親から、その手紙が彼女が自殺未遂を起こす前に書き残したものらしいと聞かされていた。その話の流れで達哉の家に届いた封筒も、大野真凛の母親が発送したものだということが分かった。

 大野真凛は、ご丁寧にも、自分が死んだあとで母親にしてほしいことを書き残していた。死んでしまうことこそなかったものの、死んだように眠る娘のために、母親はそれを忠実に実行しているらしかった。

 そのうちの一つが、達哉に手紙を送ることであり、大野真凛の想定では葬儀——実際には、見舞い——に訪れた達哉に更なる手紙を渡すことだった。

 大野真凛は、初めから達哉に期待していなかったことになる。むしろ、中途半端に救出されて、こうして生きていることの方が想定外なのだろう。


 母親は、娘のしたためた手紙を読んでいないようだった。それも『してほしいこと』——正確には、『してほしくないこと』だが、——のうちの一つだったのかもしれない。


「目の前の私のことを忘れないで。何があっても忘れないで。それだけが今の私の望み」


 中身を知られたくなかったのか、達哉は、母親が去ってから、渡された手紙を開いた。そこに自分の罪が書かれていると思ったから、母親の目には入れたくなかったのかもしれない。

 手紙を読むこと自体に躊躇した様子は感じられなかった。かと言って望んで読み上げているわけでもなさそうだ。ただ、達哉は、手紙を開いた瞬間から焦点の合わない目で、そこに書かれた短い言葉を繰り返し、繰り返し、呟き続けている。抑揚のない声が、何度となくリンの耳に届いた。

 それは、大野真凛に言わされているようであり、達哉自身に言い聞かせているようでもあった。

 あるいは——、リンに向けて言っているようでもあった。

 まるで呪いのようなその言葉を、何度も何度も聴かされ続けているうちに、リンは言い様のない罪悪感と不快感、そして、使命感を覚え始めていた。互いに相反する感覚がリンの中で渦巻いている。


「目の前の私のことを忘れないで。何があっても忘れないで。それだけが今の私の望み」


 憑りつかれたようにぶつぶつと唱える達哉は、別人になってしまったようだった。


「目の前の私のことを忘れないで。何があっても忘れないで。それだけが今の私の望み」


 どのくらいの時間、そうしていたのか分からない。

 リンは、達哉が抱えるリュックの中から、大野真凛と達哉の顔を何度も何度も見比べていた。けれど、どちらの表情も無表情で、どちらの感情もうかがい知ることはできなかった。

 重々しく、まとわりつくように不快なのに、妙に乾いた空気が充満した病室で、リンだけが正常に作動していた。目の前の達哉も、大野真凛も、よく知った人物のはずなのに、とてもそうは思えない。


 壊れてしまったのだ。なにもかも——。壊してしまったのだ。リンはそう思った。


「目の前の私のことを忘れないで。何があっても忘れないで。それだけが今の私の望み」


「目の前の私のことを忘れないで。何があっても忘れないで。それだけが今の私の望み」


「目の前の私のことを忘れないで。何があっても忘れないで。それだけが今の私の望み」


 ずっとその状態が続いてしまうのではないか。そう思い始めたとき、病室の扉が静かに開いた。


「あら? お友達がお見舞いに来てたの? ごめんね。検温の時間だから。ちょっとだけ、お邪魔するわね」


 看護師だった。やや年配で恰幅のいい女性の看護師は、にこやかに笑いながら、慣れた手つきで大野真凛の体温を測り始める。快活な看護師の声で、重々しくまとわりつくような空気は一瞬のうちに霧散した。


「あ、いえ。もう帰りますから。こちらこそ、お邪魔しました」


 空気が変わるのと同時に、達哉はリンのよく知るいつもの達哉に戻っていた。まるで、遊びに来た友達の家からいとまするかのように、軽々しく挨拶をすると、リュックを背負って病室を後にする。

 リンは、看護師に姿を見られないように慌ててリュックの中に身を隠した。

 その一瞬。ベッドの横に置かれたものが目についた。

 可愛らしい黒猫のキャラクターがあしらわれた何封もの封筒と、『タイムトラベル郵便』と書かれた一枚の用紙。もはや見慣れてしまった封筒と、町でよく見る赤いポストと同じようなマークが書かれた用紙。

 それが何を意味するのか、リンには分からなかったが、数日後、リンが一人で病室を訪れたときには、もうすでに無くなってしまっていた。

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