第10話 夜の訪問者

 静まりかえったリビングには、鈴虫の鳴く声が響いていた。うるさく感じるほど盛大な声。音。夏を全力で終わらそうとしているかのようだ。


 季節はしっかりと廻り、例年どおり夏も終わりに近づいている。心なしか、日が傾く時間も早くなったように感じられる。けれども、蒸し暑さだけは相変わらずだった。


 惜しいことをした、とは思ったが、達哉たつやには妹の夏菜子かなこに頭を下げてまで、リンのことを教えてもらう気はさらさらない。それにしても、自分から煽ってきておいてあそこまで怒らなくてもいいのに、と声にならない愚痴を誰にともなくこぼす。


 苛立つ気持ちが、達哉の体温を上げた。体中から不快な汗が噴き出てきて、着ていたシャツが背中にへばり付く。


 ——それにしても、暑すぎないか?


 シャツの裾を扇いで身体に風を送りながら、ふと、そんなことを思った。


 みっともないくらい噴き出ている汗は、そのほとんどが夏菜子との喧嘩で高揚した結果出たものだろう。しかし、それ以前から達哉のいるリビングは暑かった。

 エアコンを入れているのにこの暑さ。異常気象による地球温暖化の影響だろうか。そんなことを考えながら、なんの気なしに窓のほうに目を向けると、カーテンが微かに動くのが見えた。

 近寄って確認すると、窓が少しだけ開いている。カーテンは、窓から吹き込む微風に煽られ静かに揺れていた。


「なんだよ、開けっ放しかよ」


 どうやら、うるさいほどの鈴虫の声も、うんざりするような蒸し暑さも、少しだけ開いている窓が原因らしい。どうりでエアコンが効かないわけだ、と一人納得してサッシに手を伸ばす。


「たっちゃん。閉めちゃダメよ」


 突然、母親の声がした。達哉は驚いて、伸ばした手を引っ込める。


「母さん。びっくりするじゃん。いるならいるって言ってよ」


「だって、今来たところだもん。また、『母さん』だって。たっちゃん、最近急に大人ぶっちゃって。どうしたの?」


 小学生の頃は『お母さん』と呼んでいた。だから、中身が大人だとはいえ、本当は当時のまま『お母さん』と呼ぶべきなのだろう。しかし、達哉は何ともいえない気恥ずかしさから『母さん』と呼んでいる。

 母親の方は特にそれを怪しむ様子はなく、面白がっているようだった。


「窓、開けっ放しだよ? なんで閉めちゃダメなの?」


 都合が悪い話題には触れずに、疑問を口にする。


「あら? そうね……。なんでだったかしら……」


 よく言えばおおらか、悪く言えばとぼけたところのある母親は、悪びれもせずそう言った。


「えつ? なんだよ、それ。じゃあ閉めてもいいよね?」


「うん。エアコンもったいないもんね」


 正式に許可を得て、ゆっくりと窓を閉める。たったそれだけのことなのに、部屋の温度が下がったのを感じた。


「かなちゃんは? いたんじゃなかったの?」


 あまり聞かれたくないことを尋ねられた達哉は、分かりやすく口ごもる。おおらかな母親ではあるが、兄妹喧嘩には声を荒げて叱ることがあった。

 中身が大人でも、母親に叱られるのは避けたい。中身が大人だからこそ、余計に避けたいのかもしれない。


「まさか……。あなたたち、また、喧嘩したの?」


 口ごもる達哉の様子を見て、その裏にあるものを敏感に察知する。さすがは母親だ。そのまま追及が始まろうというとき、インターホンが鳴った。


「あら? こんな時間に誰かしら」


 達哉と母親は顔を見合わせる。時間はもう十九時を回っている。いつも帰りの遅い父親が、珍しく早い帰宅をしたのだとしても、鍵を持っているのだからわざわざインターホンを鳴らしたりはしない。

 ぐずぐずしている二人を急かすように、再度インターホンが鳴る。それで、ようやく母親がモニターに向かった。


「夜遅くにごめんなさい。たっちゃんに大事な話があって来ました」


 モニターに映ったのは、リンの姿だった。

 達哉の心臓がドキンッと一度大きく跳ねる。告白されたらしいことが理由なのか、リンに対する漠然とした恐怖のような不安感からくるものなのか、達哉本人にも分からなかった。


「あ~、リンちゃんね!! いらっしゃい。今開けるからちょっと待っててね」


 母親の反応を見て、達哉は目を大きく見開いた。そのまま小走りで玄関に向かう母親を開いたままの目で追う。


 ——母さんは、リンを知っている……?


 少しして、母親とリンの騒々しい声が聞こえた。


「たっちゃん!! こっち、いらっしゃい!!」


 大声で呼ばれた達哉は、しぶしぶ玄関に向かう。


「あ、たっちゃん!! ごめんね。遅い時間に」


「いや、それは全然かまわないけど……。大事な話ってなに?」


 リンの謝罪を軽く流して本題に入る。


「うん。……あれ? えっと……。なんだっけ……?」


「おいおい。なんだよ。まさか忘れたとか言うんじゃないだろうな?」


「う~ん……。その、まさかみたい」


 呆れる達哉の前で、リンはテヘッと頭に手を当てて舌を出す。


「おい、ふざけるなよ。こんな時間に急に訪ねてきて、その用件を忘れたなんて、そんな馬鹿なことがあるか?」


「だってぇ~……。あ~……じゃあ、なぎささんの顔が見たくなっちゃったからってことで! だから来ちゃった」


 それを聞いて達哉は息を呑んだ。渚は達哉の母親の名前だ。それを知っているリンに、やはり得体のしれないものを感じる。


「あら、そういう理由ならいつ来てくれてもいいのよ!」


 渚は達哉の様子の変化に気が付かないまま嬉しそうに答える。


「本当は、かなちゃんの顔も見たかったんだけど……。今日はもう帰ります」


 リンはそう告げると、挨拶もそこそこに背中を向けて歩き出した。


「たっちゃん。送ってあげたら? 女の子をこんな時間に一人で歩かせるわけにはいかないでしょ?」


「大丈夫です! 一人で帰れますから」


 リンは達哉が何かを答える前に渚の提案をはっきりと断った。その有無言わさない口調に、渚は折れざるを得ない。


「そ、そう? それなら本当に気を付けて帰るのよ。今度はもう少し明るい時間にいらっしゃいね」


 戸惑いながらも、そう言ってリンの背中を見送る。達哉は一言も発することができなかった。


「母さん。リンのこと知ってるの?」


 リンの姿が見えなくなってから、達哉は、やっとの思いでそれだけ口にする。


「えっ? あら? そういえば……。あの子、初めて見る子ね……」


 続く渚の言葉に達哉は、再度言葉を失った。


「そんなことより、たっちゃん。明日から学校でしょ? 宿題は全部終わったの?」


 切り替えの早い渚の言葉が、達哉の頭の上を通り過ぎていった。

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