坂の上の人魚姫

泣村健汰

第一話

 妃夜ちゃんの検査入院が長引く事になって唯一良かった事は、声変わり終了間際の一番中途半端な声を、聞かれなくて済んだ事だろう。

「あーあ、いっちゃんがすっかり大人の声になっちゃった」

「嫌そうだね」

「嫌って訳じゃないんだけど、あの可愛かったボーイソプラノはもう聞けないんだなって思うと、お姉ちゃん寂しいな」

 久しぶりに顔を突き合わせた幼馴染は、病室のベッドの上で大仰に悲しんでみせた。

 傍らの椅子に腰を掛ける。個室の為、今は僕と妃夜ちゃんの二人きりだ。

「調子はどう?」

「ん~、ばっちりって訳にはいかないけど、思ったよりも調子はいいわね。今日は痛みも落ち着いてるし。でも、あれから大分足はヤバい事になってるよ。見てみる?」

 悪戯っ子のように唇の端を上げて、彼女はぴらりと、シーツの足元を捲って見せた。

 改めて実物を見て、その様子に驚く。

「ね、ね? グロくない?」

「別にグロくは無いでしょ? って言うか、なんでそんなに楽しそうなのさ?」

「ふっふっふ、久々にいっちゃんの顔が見れて、テンションが上がっているのですよ」

「ったく……」

「まぁ今はまだ軽いらしいから。これからどんどん凄い事になってくらしいんだけどね~」

 自らの足をさすりながら、妃夜ちゃんは何とも言えない表情を浮かべる。笑っているような、困っているような。

 僕ももう一度、妃夜ちゃんの足を眺める。

 それはくるぶしの辺りから膝の少し下まで、つまり僕の目から見えている足の部分ほぼ全てに、まるで内側から外に飛び出そうとするように、細かい突起物が生え揃っていた。

 症状を知った後、自分なりに調べてもみた。それは、生物学的に言えば、鱗に近いらしい。

「今は痛くないの?」

「今はね。たまに、ぎゅーっと刺されるみたいに痛くなる時もあるけど、まぁなっちゃったもんはしょうがないよね。触ってみる?」

「いや、いいよ」

 興味が無いわけでは無かったが、たまに痛くなる、と言われてしまうと、なんだか触れるのが怖くなった。

「触ってよ。早く良くなりますようにって」

 そう微笑まれると、無下には出来ない。いや、僕は昔から、妃夜ちゃんの笑顔には勝てないのだ。

 恐る恐る、指先で脛の辺りを触ってみる。先端は思っていたよりも滑らかで、少し押すと形が変わるくらい柔らかかった。

「病院でとりあえずの説明は聞いたんだけど、よく分かんなくてさ。あ、よく分かんないってのは、病院側も病気についてよく分かんなかったって事ね。そんで、とりあえず大きな病院に行かないといけないらしいんだけど、そしたら検査やら治療やらで、結構な間戻って来れなくなっちゃうらしいからさ、そりゃまずいな~って思ってね~」

 妃夜ちゃんの目が、悪戯っ子のように僕を見つめる。

「まずいって?」

「大会が近いじゃない。もしかしたら、私にとって最後の大会になっちゃうかもしんないし、それだけは出させてくれって、お願いして来たんだ」

「……本気?」

「そう言わないでよ」

「その足で?」

「……うん、出るよ。みんなに見せつけてやるんだから」

 窓から差し込んだ夕闇の茜が、妃夜ちゃんの足に手を添える。

 笑顔を見せる幼馴染に、僕はなんて声をかけていいか分からなかった。

 彼女は高らかに宣言をしたのだ。今から約二週間後、その鱗の生え始めた足で、所属している陸上部の競技大会において、選手として、400メートルを走るのだと……。

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