5-6

 一つの部屋に入ると、そこには複数台の心電図が並べられていた。しかし、ほとんどが心停止を告げる単調な電子音を鳴らしている。そんな中、ただ一つだけが未だに生命の息吹を上げていた。

 その前には一人の青年がベッドに横たわっている。すでに内部被曝が進んでいて、彼の皮膚はただれ、所々で骨が浮き出て見えた。本来ならそれを隠すように包帯を巻くのだが、今やそれをしてくれる看護師もいない。きっと綾子のすぐ側で倒れてる彼女が最後の看護師だったのだろう。


「戻れたんですね」


 青年が弱々しい声で言う。


「ええ、何とかね」


 綾子は優しい声で言うと、彼の側にあった椅子に腰掛けた。青年、クリシャとはこのシェルターで初めて出会った。彼は最初、物資確保班として活動していたが、間も無く規定値以上の放射線を浴びたとして隔離入院させられた。

 しばらくして、シェルターの機能が無効であることが分かると、人々は次々と倒れていった。そして、クリシャと綾子だけが最後までこのシェルターに残った。きっと二人ともシェルターのメンバーの中で一番体力があって健康だったからかもしれない。


 けれど、それももう長くは続かない。クリシャはこの通り風前の灯火だし、綾子自身も皮膚こそまだ大丈夫だが、時々意識が途切れる時がある。ほら、今だって、クリシャの呼びかけに応答しない。


「ごめんなさい、少し気を失ってたみたい」


 綾子の謝罪にクリシャは優しい笑みを浮かべると、彼女から目を逸らして言った。


「他のシェルターとは通信できましたか?」

「いいえ、数回コンタクトを取ろうとしたけど、どこも応答がなかったわ」


 きっともう……、綾子はそっとその言葉を飲み込んだ。クリシャも彼女の言わんとしていることが分かったのか、再び微笑を浮かべる。本当は笑みを浮かべるだけでも辛いはずなのに。


「アヤコさん。アヤコさんはガルーダ地方を知っていますか?」


 彼の問いかけに綾子は無言で頷いた。


「俺はそこの農村地出身でした。羊と馬を飼っていて、彼らは俺にすごく懐いてくれました。子供時代は毎日毎日、日が暮れるまで彼らと遊び続けました。とても楽しかった、とても、楽しかった」


 クリシェの目から涙が一筋流れた。その涙は血を含みながら次第に赤くなり、真っ赤になったシーツの中に溶け込んでいく。


「ある日、あなたが殺した町田郁奈って人が産むはずだった子供が起こした殺人事件の被害者の親族の子孫が核弾頭を発射しました。その瞬間から、俺はガルーダ地方に住めなくなりました。放射能に被曝して、血だらけになる羊と馬を置いて退避するのが本当に辛くて、今でも目をつぶると彼らの悲しそうな表情が浮かび上がってくるんですよ」


 彼の涙が絶え間なく流れ出した。そんな彼に綾子はただただ何も言えず、俯いていた。いや違う、正確には意識を失っていたのだ。彼の嗚咽に綾子はハッと意識を取り戻した。


「アヤコさん。俺はここまで来た以上、あなたを責めるつもりはありません。けれども、けれども、時々思ってしまうんです。もし、あなたが町田郁奈を殺していなかったら、彼女の子供はもう少しまともな教育を受けられて、殺人なんて犯さずに済んだんじゃないかって。


 知ってます、知ってます、これが言い訳だって。これを言ったところで、核戦争がなかった事になって、ガルーダに再び戻れるなんて思っていません。けれども、そう思わずにはいられないんですよ」


 綾子は何も言わずに骨が一部剥き出しになったクリシェの手を握った。それはぬめっていて、少しでも力を加えれば粉々になってしまうんじゃないかと思えるほどだった。なんて人間の体は脆くて尊いのだろう。綾子は薄れゆく意識の中、そう思った。


 やがて、クリシェの心電図がピーッと鳴り出した。彼は最後の一息を吸うと、それを一ミリリットルも無駄にせず、今際の言葉を発した。


「あと……、もう少し……、生きて……いた……か……っ……た……」






 気がつくと、綾子の目の前にはぐったりと椅子にもたれかかる彼女自身がいた。ああ、私は死んだのね。ようやく、これでようやく、私は自由になれたのね。


 見ると、綾子の遺体の目の前にあの少女が立っていた。この時代には不似合いなお下げと丸メガネ、そして制服を見て綾子は思い出した。自分の頭の中に流れ続けている、あの趣味の悪い音楽が彼女を綾子にした。


『どうだったかしら、自分が殺人を犯した後の世界は』


 クミ子さんは相変わらずな調子で尋ねる。どうして私にこんな業を背負わせたの? 綾子は傷心した声で問い返す。自分は死んでいるのだから、声も本当の声なのか分からない。


『それは、あなたに体感して欲しいからよ。どうして人は人を殺してはダメなのか。法律で決められているからではないわ。そしたら、法律がないと人々は殺し合いするはずだもの。

 けど、きっとそうはならない。それは、人を殺す事は、その人の人生を背負って生きていくことになるからなの。だから、衝動的なものであっても、己の性癖だとか、興味本位であっても、殺す事は何人たりとも決して許されるべきものじゃないのよ』


 珍しく、クミ子さんは語気を強めた言葉を綾子に投げかける。それが本心だったかどうかは分からない。なぜなら、彼女の心はあってないようなものだから。


 綾子は自分の心に向き合ってこれまでの世界を思い出した。何日経っても終わらない一日分の宿題、仕事。何十、何百もの人とのセックス。そして、自分の不出来さで導いたいくつもの国と文明の没落。


 分からない、分からない。これが、私が百何十人殺した結末だって言うの? 百何十人と殺すから人類は滅んだって言うの? 私以外にも人類を滅びに導いた人はたくさんいたはずだ。旧自由主義同盟のロナンプだって、旧社会主義帝国のゴルバーチンだって、いくつもの失策や圧政を強いてきた。なのに、なんで私だけ?


 私が殺しすぎたから? じゃあ、どれくらい殺したら私は責められずに済むの? ふと、綾子の心の隅にそんな考えが浮かんだ。それは、彼女の本心とは少し異なるものかもしれない。

 しかし、心に浮かんだ以上は彼女の意見であることに相違なかった。そして、毛玉にできた糸くずくらいの存在でしかないその考えをは見逃さない。


 綾子は鋭い視線を感じて顔をあげた。自分が矮小な草食動物だとしたら、今まさに百獣の王に狙われているところだろう。彼女の目の前にはクミ子さんが恍惚とした表情で立っていた。まるで自分の思い通りに動いてくれた事に喜びを得る子供みたいに。


 やめて、違う。違うの!


『そう、そう、そう。どれくらい人を殺したら、人々が許してくれるのか知りたいのね』


 違う! そうじゃないわ。これは、ふと出てきた可能性の一部であって。


『可能性の一部であっても、あなたの心から浮かんできたのであれば、それはあなたの考えよね。あなたがまだ、殺人が許されると思っている証拠よね』


 違うの、違うの、違うの、違うの、違うの、違うの、違うの、違うの、違うの、違うの、


 クミ子さんは一歩踏み出して、綾子の顔に自分の顔を近づけた。そして不気味に右人差し指を上げて言う。


『突然ですが問題です。テデンッ! ある箱に三十一個のAと三十個のBと二十九個のCと二十六個のDと三十個のEとあと一つずつのF、G、H、Iと書かれた玉が入っていました。そこから好きな数の玉を一回だけ、取り出せるとしたら、取り出せる玉の組み合わせは全部で何通りでしょうか?』


 綾子にはその問題の答えを求めるための数式はすぐに出てきた。腐っても千年間生き続けたのだ。それくらいは容易に求められる。しかし、彼女は答えなかった。答えたくなかった。その問題の答えが膨大だと知っていたから。そして、その問いの真意にも気づいていたから。


『チクタク、チクタク、針は進むよ。チクタク、チクタク……』


 クミ子さんは鼻歌混じりで楽しそうに時を刻む。


『ブッブー。残念ながら時間切れ。あなたも知ってるでしょ。同じものが入っている時の組み合わせの求め方。選ぶか選ばないかをそれぞれのボールごとに場合分けして掛け合わせればいいのよ。正解は(31+1)×(30+1)×(29+1)×(26+1)×(30+1)×(1+1)×(1+1)×(1+1)×(1+1)=398545920通り。さあ、ここからさらに問題です』


 こう言って、クミ子さんは目の前で首を大きく降り続ける綾子を見た。


『あらあら、そんなに首を振ってては私の御尊顔が拝めないわよ』


 クミ子さんは無理やり綾子の顔をわし摑みにすると、自分の目と合わせるように向かせた。その華奢な体からは想像できないほどクミ子さんの力は強く、数十人の男に襲われた日のことが綾子の脳裏をよぎる。


『私はこれから何をしようとしているでしょうか』

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