5-4

 もうこれ以上は耐えられない。いっそ、死んでしまった方がましよ。だってそうでしょ。七つ目の噂に願い事を叶えさせてもらって、思う存分人を殺すことができたんだもの。

 一時でも自分の願いが実現できたのだから、私はまだ幸せな方だ。世の中には自分の願いを一つも叶えられずに死んでいく人だっているのに、それに比べれば私は幸福よ。大往生だわ!


 綾子はその日の夜中、誰にも気付かれないように家を出ると、どこでもいいから飛び降りることができる場所を探した。下に線路が通った高架橋を見つけると、そこに登って電車が来るのを待つ。

 高架橋からはナナオ市の夜景を一望することができ、夜風も当たって心地よい。死に場所にしては贅沢すぎるわね。綾子はポツリとそう呟いた。


 やがて、電車が自ら来たことを知らせるかのように、警笛を鳴らしてやって来た。綾子は大きく息を吸うと、電車が彼女の下を通過する数秒前に飛び降りる。

 降下するに連れて彼女の脳裏を思い出が駆け巡った。けれども、それは不思議と中学校生活以前のものばかりで、ここ最近の記憶はなかったことかのように一つも出てこない。


 やがて彼女は線路に頭をぶつけた。突如に電車が彼女の体を引き裂く。二つの衝撃は彼女の体を貫いて、綾子は意識を失った。




 しかし、目覚めてみればどうだろう。綾子は病院のベッドの上にいた。消毒液の匂いが漂う病院の一室で、彼女は三十人の旦那と、三十一人の編集者に囲まれて眠っていたのだ。病室に六つある白い蛍光灯のうち一つが軽く明滅する。それが綾子が未だに生を保っていることを実感させてくれた。


「良かったな、危うく大惨事になるところだった、ってお医者さんが言ってたぞ」


 旦那の一人が言う。


 綾子は混乱した。電車との衝突で確実に死を捕まえたはずだった。なのに何故、私は生きてるの? バラバラになっていないの?


 旦那と編集者は口々に綾子に声をかけながら部屋を出て行った。編集者たちは仕事は期限通り頼みますね、と恐ろしい一言も忘れずに。


 誰もいなくなった病室で綾子は思考した。どうして私は死ぬことができなかったのか。もしかしたら、衝突前に電車が急ブレーキをかけて、それほど強く激突しなかったからかもしれない。そうなると、傷が一つもない今の体にも頷ける。じゃあ、今度はもっと確実に死のう。どんなに体が頑丈でも死ねるように。


 その時、病室の扉が開いてがスキップしながら入って来た。黒髪のお下げに一昔前の紺色の制服、そして丸ぶちメガネ。トイレのクミ子さんだ。彼女はとても楽しそうに綾子の元まで来ると、口を開いた。


『お久しぶり。随分お疲れのようね、調子はどうかしら』


 その無頓着な発言に綾子はムッとした。


「随分な言い草ね。あなたのせいでこうなったんじゃない」


 綾子の言葉にもクミ子さんはお茶目に、『そうよ、だから何?』と質問してくる。さらに憤った綾子はベットから起き上がって、彼女の目を直接見て言い放った。


「私はこんな世界を作ってくれと願った覚えはないわ。今すぐ全て元に戻して!」


 すると、クミ子さんはおかしげに笑みを浮かべたままキョトンとして『どうしてかしら』と尋ねた。


「どうもこうもないわ。私の願いを実現してくれたのはありがたいけど、百何十人の人生を背追い込むなんて聞いてないわ」


 そう反論すると、クミ子さんはウフフ、アハハハと笑い出した。


『あなたの願い? 何か勘違いしてるようね。これはあなたの願いじゃないわ。この世から殺人をなくして欲しいと願った郁奈の願いよ。あなたは今、郁奈の願いが叶った世界にいるの。

 あら、どうして、と聞きたげな顔ね。何も間違っていないわ。私は最初から郁奈の願いを叶えるために動いていただけよ。「七不思議探し」も、あなたが殺戮の限りを尽くしたあの一夜も、あなたが飽きたから止めにさせたのも、全部郁奈の願いを叶えるため。

 あなたはこれまでも、そしてこれからも自らの手で奪った百四十八人の人生を背負いながら生きていくの』


 そこまで言うと、クミ子さんは明後日の方向をむいて思案したのち、『あら、間違ったわ。人になったんだわね』と笑みを浮かべた。


「どうして二人増えてるの?」

『簡単なことよ。一人はあの夜、縛りつけたままにした桑原家の娘、莉子。そして、あと一人は今殺したじゃない、あなた自身をあなた自身の手で』

「……そんな。だって、私はただ辛いからこの人生を終わりにしようと思っただけなのに——」


『あら、あらあらあら、かわいそうに。死ねば全て許されると思ってるの? 死が全てを解決してくれると——。確かに現実世界ではそうかもしれないわね。

 でも、あなたは今、郁奈が願った世界にいるの。そこではあなたが消えることの一切を否定するわ。ただし、自殺する前によく考えてね。自殺は自分を殺すこと。だから、あなたの人を殺した数が一つ増える事になるわ。


 さあ、その目に焼き付けて行きなさい。あなたが起こした殺戮劇のその末路を』


 クミ子さんは高笑いしながら部屋を出て行った。衝撃的、という言葉では収まらないほどの戦慄をは残していった。桑原莉子が死んでしまった、という事実よりも(この生活が始まってから五日目くらいから彼女の生活も強いられるようになっていたから何となく想像がついていた)、楽になることさえ叶わないという絶望に。


 死はある意味で救済だ。これ以上の痛み、苦しみから回避するために人間がとる最終手段だ。けど、彼女はそれが没収されてしまった。

 逃げるな、と言われてしまったのだ。これから待ち受ける痛み、苦しみに。残された綾子は目から涙を溢れ出しそうになりながら、この後やって来た高利貸しの暴虐に耐えた。




 十年目。


 この年から森島元紀の名義で綾子は三十一回連続で曲枝賞を受賞する事になる。しかし、作品は全く出せないまま、ネットには「売れない曲枝賞作家ワースト一位」と罵られ続けた。

 一つ、奴らを見返してやろうと、彼女は自分の半生を書き記した本を出すが、自分の罪を美化した不届きものだ、と余計批判を浴びてしまう。


 ラムジーの名義で先生たちの(しなくてもいい)協力の元、大学院を卒業して技術職として三十社に入社する。全く大学で学んでこず、かつ仕事にすらまともに行けなかった綾子は一部の性格が悪い上司からパワハラを受けた。


 一方、稗島名義で受け取っていた借金は日に日に返せなくなる。一度詐欺に手を染めようとして逮捕されたが、執行猶予で釈放された。保釈金は闇金業者が勝手に払っていたらしい。

 綾子はまとめてお金を返そうと他の名義で稼いだ分を当てようとしたら、お前は闇金に手を出したやつから金をくれとせがまれて渡すか、と言って、受け取ってくれなかった。その日から一日一時間でもたちの悪い風俗店で働かなければならなくなくなってしまう。


 悠里の名義では同性カップルとの間に養子を二十八人迎える。彼女のまさかのカミングアウトに最初は驚いたが、よくよく思い返してみると、たまに綾子の裸を何かとジロジロ見つめていた気がする。そう言えば、あの夜ももしかしたら……、なんて考える余裕は今の彼女には微塵もなかった。

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