野良猫-2-

 太陽に声を投げ、体を伸ばす。ザァと風が吹き、小さな葉が空へ旅立った。顔を上へ向ければ、そこには青い空を泳ぐ雲が点々としている。そんな雲たちは互いに混ざり合いながら、ゆっくりとどこかへ進んでいく。


「僕達は風に乗って空を行く。それは雲も同じさ。君は、どうして風が吹くのか知っているかい?」いつの日か、ビルとビルの隙間で人間が捨てたゴミを漁っていた時に、同じようにゴミを漁りに来たカラスにそんな話をされた時のことを思い出す。


 どうして風が吹くのかなど俺が知る訳もない。そもそも、その時の俺にカラスの相手をする気など全くなかった。あいつらは、ずる賢いのだ。空から悠々とやって来ては食べ物を黒く光る嘴で挟み、悠々と空へ逃げて行く。俺は早く走ることが出来るが、空に逃げられてはどうしようもない。幾度かカラスに食べ物を奪われ空に逃げられたこともあった。


 だから、俺はカラスの質問に言葉を返すことなく黙々とゴミを漁っていたのだが、しかし、そのカラスは随分とおしゃべりな奴らしく、俺が返事をしようがしまいが、勝手に話を進めて行ったのだ。


「風っていうのは、地球が生きている証拠なんだ。地球が生きているから風が吹く。君は、海を見たことがあるかい?」


 海など、見たことがない。


「海は水で出来ている。そして、海の水は満ち引きを繰り返しているんだ。あれも、風と同じで地球が生きている証拠なんだ。風も、海流も、地球の血液なんだ」


 それからも、カラスは好き勝手に話をし「お星さまと地球は似た者同士。ちょうど、君と僕と同じようなものさ」「僕等もまた、夜空に浮かぶ星の一部なんだよ」なんて満足そうな表情を浮かべながら嘴を動かし、それから最後に「空を飛ぶのは気持ちが良い。生きていると実感できるからね。それじゃあ、僕はこれで失礼するよ」と、黒い翼をバサバサとこれ見よがしに羽ばたかせ、ビルとビルの隙間を昇っていった。


 風は、地球が生きている証拠。カラスは、翼があるから生きていると実感することができる。ならば、俺が生きている証拠になるものは何なのだろうか。俺は風を吹かすことなど出来ぬ。俺は空を飛ぶことの出来る翼を持ち合わせてはおらぬ。俺が出来る事と言えば、この地を駆け抜けることと、ゴミを漁ること、鳴き声を上げることくらいだ。俺は、鳴いて地を駆け抜けることで、生きていると実感することができる。つまり、カラスにとっての翼とは、俺にとっての脚である。


 ただし、生きている証拠となると話が変わって来る。


 空を眺めながら、少しの間思案したが、地球にとっての風となるものが何なのか見当がつかない。こんなことなら、あのカラスに「お前にとっての風は何だ?」と尋ねておけばよかった。カラスはずる賢い。つまり、知恵が働くということだ。少なくとも、カラスは俺よりも知識がある。空を飛ぶことが出来る分、カラスは俺よりも多くのことを知っている。


 カラスに会おう。カラスに尋ねたいことが出来た。あの日、カラスと出会った薄暗いビルとビルの隙間に行けば、また会えるかもしれない。ちょうど腹も減って来たところであるし、俺は早速地を走った。


 ああ、やはり走るのは良い。空を飛ぶ自由には叶わぬが、与えられた場所で自由を享受し駆けまわることは、やはり良い。生きているのだと実感する。人目につかぬ狭い道を駆け、三、四の猫とすれ違い、塀の上に飛び乗る。人の騒がしさが耳ざわりで、何と息苦しいのかと声を上げる。その息苦しさから逃れるためにやはり駆け抜けるのだ。点々としていた雲は、刻々と形を変え、白色から灰色へと変わって行く。


 雲が太陽を隠した頃、俺はビルとビルの隙間に辿り着いたが、しかしそこにカラスの姿はなかった。カラスと言わず、俺以外に誰もいなかった。


 心臓が鳴いていた。バクバクと、鼓動している。一度立ち止まるのはいけない。立ち止まってしまうと、忘れていた何かを思い出してしまう。誰もいない、誰からも忘れ去られてしまったようなこの場所で、ただただこうして立ち止まっていると、俺自身も何もかもから忘れ去られてしまったかのような心地になる。誰か俺を見つけてくれと顔を上げて鳴いてみるが、誰にも届くことなく体を雨が叩く。まるで、黒い雲が脚を縛り付けるようだった。


 ああ、俺は独りなのだ。独りで生きている。生きているだけで素晴らしいというのなら、この苦悩は何だと言うのだろう。どうか、誰か教えてはくれないだろうか。この際カラスでも構わない。この雨の中、翼を羽ばたかせ、この忘れ去れた場所に飛んで来てはくれないだろうか。もしもそうしてくれると言うのであれば、飯を譲ろう。そんなこと、今後は絶対にしない。今だけだ、今だけ、誰か俺の元に来てくれたのであれば、飯を譲ろうと思う。


「ニャー」


 どれほど駆けようと孤独からは逃れられぬ。いや、むしろ駆ければ駆けるほど、孤独の沼に沈むのだ。


 しかし、だからと言って立ち止まる訳にもいかぬ。駆けるのだ。たとえ、さらに沼に沈もうとも、沼ごと忘却の底に沈めるために走るのだ。


「ニャー」


 雨に鳴き、雨を裂く。行く当てなどないが、走らずにはいられなかった。

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