第25話 嫉妬から生まれたもの(1)
慌てるお父様の姿に、後ろにいるお義母様とジゼルにも緊張が走ったのが分かる。
「俺は自分のお気に入りを他人に弄ばれるのが嫌いなんだ」
そう言いながらクロヴィス殿下は馬車の外へと姿を現した。顔の左半分は真っ黒な仮面がつけられ、肩には上質なジャケットを羽織っていた。サラリとした淡い色の金の髪を靡かせ、冷え冷えとしたエメラルドの瞳で地に降り立ち、彼は深く腰を折ったお父様を見下ろした。
「なぁ?」
「申し訳ございません。殿下だとは露にも思わず……娘も年頃なので、アスラン少子爵のような好青年と縁があればと親心で言ったまでです。ど、どうかご容赦を」
「は!? よく言う。俺の周りを乱すようなことしてみろ。次はマスカール伯爵――お前を餌にしようか?」
頭を下げたままのお父様の肩がビクッと動いた。あのお父様が今は小さく見えた。
傲慢な口調に、横暴な態度、それが許される権力と実力……これがクロヴィス殿下が狂犬王子と呼ばれる由来。
けれどもアスラン卿が「まだ五割です。牽制のためですから、嫌いにならないでくださいね」と耳打ちしてくれくれたことから、まだ本気じゃないらしい。
クロヴィス殿下は「俺の周りを乱すな」と言ってくれた。それには私も含まれているはずで。
お義母様とジゼルがこの機会に今後私に関わらなければいいと期待し、お父様の後ろに視線を向けて、目を疑った。
そこには頭を垂れることなくすみれ色の大きな瞳を輝かせ、うっとりと熱をあげたような顔でクロヴィス殿下を見つめるジゼルの姿があった。
人が恋に落ちる瞬間とはこれほどまでに、簡単に目に見えるものなのだろうか。
指先から冷たくなっていくのを感じた。
「まぁ、今回はもういい」
「寛大な殿下に感謝いたします」
これで終わると安堵したのも束の間、やはり再び可憐な声が空気を変えんと響いた。
「クロヴィス殿下におかれましては、本来は私が行くべきところでしたのに、お義姉様を受け入れて下さり感謝申し上げます」
「で、なんだ?」
「私も侍女として召し抱えてくださいませんか? お義姉様がお世話になっている感謝の印として私も殿下のお役に立てればと思ったのですが」
元から美しい
クロヴィス殿下が興味を持ったようにジゼルを見下ろした。
「ほう?」
「どうでしょうか?」
「クロヴィス殿下、ジゼルの急な願いに申し訳ございませんわ。しかしながら、わたくしの自慢の娘であるジゼルはこのように美しく気立てが良い娘です。どうかご検討くださいませんか?」
「オ、オルガッ……」
怯えながらもジゼルを推すお義母様と視線を泳がすお父様とは対称的に、ジゼルの瞳はクロヴィス殿下に釘付けで輝いていた。
やめて。そのような目で彼を見ないで。誘惑して盗ろうとしないで――と胸の奥にあった火種が小さな火花を散らした。
これが嫉妬だとすぐに気が付いたけれども、想像と違って燃え盛ることはない。思考はむしろ冴えたように落ち着きを取り戻していた。
燦々と輝くジゼルの瞳が私に向いた。
「ねぇ、お義姉様。ひとりでは手が行き届かないところはありませんか? 掃除が上手なお義姉様は掃除に専念してもらって、私が殿下の身の回りのお手伝いをして役割分担しましょうよ。私、殿下だけでなくお義姉様の助けにもなりたいと思っているのよ」
「私はひとりで大丈夫です。社交界シーズンはこれから。私と違ってジゼルには多くの招待状が来ているはず。忙しくなるでしょうから、そちらを優先してくださいな。私のせいでジゼルがパーティに出られなくなり、皆さまに寂しい思いをさせてしまうのは心苦しいですわ」
ジゼルは当然賛同してくれると思っていたのか、私の言葉を聞いたジゼルの表情から一瞬だけ天使の皮が剥がれた。
「お義姉様は、私の気持ちを汲んでくれないの?」
慌てて隠すようにお父様とお義母様が「ナディアとジゼルはお互いに姉妹思いだな」や「人手が足りなければ遠慮なくジゼルを使ってください」とフォローを入れるが、クロヴィス殿下は鼻で笑って一蹴した。
「何を言い出すかと思って聞いてみれば、時間の無駄だったな。ジゼル嬢のような出来の悪いやつは不要だ」
「――?」
三人は言われた意味が分からず、揃って呆けた表情を浮かべた。
「俺の意向を確認もせず、勝手にナディア嬢に要求を押し付け、話を押し通すような真似をするとは。こっちの領分に踏み込んで、仕事を割り振りしようとするとは随分と厚かましい小娘だ。俺の周りを乱すなと言ったはずなんだが……なぁ!?」
気迫に押されたジゼルはクロヴィス殿下を見上げたまま息を飲み、固まってしまった。
彼は矛先をお父様に変え、うっすら笑った。
「ナディア嬢は他と違って主である俺の気持ちを汲んで動ける優秀な侍女だ。他はいらない。いいか、伯爵……」
クロヴィス殿下は言葉を区切り、顔を伏せているお父様の肩に手を乗せ耳元で静かに告げた。
「俺から貴重な侍女を遠ざけるようなことをしてみろ……分かるだろ?」
これまでの中で一番穏やかな口調にもかかわらず、お父様の額には一気に汗が浮かんだ。
「失せろ」
「かしこまりました。本日はご挨拶出来て光栄です。失礼いたします」
もう一度深々と頭を下げてからお義母様とジゼルを連れて、正門へと馬車を走らせた。
「これだけ脅せば、伯爵は今までのように見て見ぬふりせず、夫人や義妹からナディア嬢を守るしかなくなるだろう」
そこには狂犬ではなく、いつもの少し気怠そうな表情に戻ったクロヴィス殿下の姿があった。
「ありがとうございます。助かりました」
「新しい型でクッキーでも作ってくれれば、それで良い」
「はい」
たいしたことはない――というように、クロヴィス殿下は馬車の中に戻られた。
「しっかり休めよ」
「はい。クロヴィス殿下もしっかりお休みになってください」
「ナディア嬢、明日も僕がいつもの時間にお迎えにあがりますね」
「アスラン卿もお疲れさまでした。明日からも宜しくお願い致します」
私は笑顔を浮かべてふたりが乗る馬車を見送った。
クロヴィス様は本当に靡くことはなかった。一切の隙を見せることなく家族を突き放した姿は痛快とも言え、胸のすく思いとはこのことだろう。
つっかえが取れて芽吹いたのは、勇気の芽だ。彼が与えてくれる誠実な愛ならば溺れたとしても、嫉妬などで愚かに狂いはしないはず――
「好き……です」
言葉にすればすんなりと私の心は受け入れ、芽は蕾をつけた。
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