第20話
僕が発するそれはまるで頭の中で散らばる思考そのものだ。あまりのショックでひとつのことを考えられなくなっている。その証拠に、言葉と行動があべこべだった。
アイスピックのような太く長い針を持ち、僕を見つめているカミオカに向かって何度もうなずきながら足を引きずりながら逃げようとしている。なのに「助けて」や「やめて」に混じって、「わかりました」や「落ち着きます」という状況にそぐわない言葉も発している。
僕はどこかでこれが架空の出来事だと思っていたのかもしれない。
「いいから座れよ。龍太郎」
カミオカはアイスピックを突きつけながら、顎でソファを差した。
僕は何度もうなずき、手をかざしながらそれに従いソファに腰を下ろす。
その時の衝撃で腹と太ももに激痛が走り、唾を飛ばした。
「フェラチオ、してもいい?」
「え? なに、フェラ……」
「舐めるんだよ。龍太郎のちんぽを」
「あ、いや。ううん、そういうのは僕、あの、いいっていうか。あれ?」
「ズボン脱げよ! てめえ!」
突然の怒号に僕は言葉を飲み込んだ。恐怖のプレッシャーを上ずる言葉で発散していたらしく、口を閉じた途端に全身に震えが襲う。
真冬に氷水のプールに放り込まれたような、自制の効かない烈しい震えだ。
そんな震える手で、ベルトを外せる器用さなどあるはずもなく、ズボンを脱ごうにもうまくいかない。
「なにやってるんだよ龍太郎。かわいいなあ」
カミオカがにんまりと笑いながら震えてベルトを外せない僕の手をどけて、代わりにズボンをずらす。恐怖と痛み、寒気で縮こまったペニスが露わになった。
「なんで勃ってないんだ! 死ね! 死ね!」
「ああああーー! ぎゃぅ、あがああ!」
叫びながらカミオカは狂ったようにアイスピックを何度も太ももに突き立てる。連続した痛みは、ちゃんとひとつひとつが独立した痛みで、刺されるたびに狂いそうになった。
「僕じゃ勃たないか。なあ、僕じゃだめなのか」
「そそそ、そんなこと……そんなこと」
乾いた唇から大量のよだれ。それだけでなく、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃになっていた。呼吸がうまくいかず、何度もしゃくりあげる。
「あ、モニカがいいんだっけ。あれじゃないと勃たたないってことか」
カミオカは僕のポケットをまさぐり、スマホを取りだすとそれを突きつける。顔は笑っていない。
「そんなにあれがいいなら、いいよ。使っても。写真くらいあるんだろ。おかずにして勃起させろ」
……無理だ。無理に決まってるじゃないか! こんな状況でそんなこと……。
心ではわかっていても、ここで勃起させなければ殺されてしまう。それだけは確実な予感としてあった。
「あ、あの……モ、モニカは……。モニカは、死んだんですか」
「さあ」
カミオカはそれ以上答えるつもりはないらしく、僕の股間に顔を近づけてしきりに鼻をひくつかせている。
「ああ、いいなあ。いい臭いだ。最高」
もう我慢できない、とばかりにカミオカはまだ硬くなっていないペニスを口に含んだ。絶望的な怖気で毛が逆立つ。
……どうなっている。いま、僕はどうなっているんだ。
予定通りだったのは、ここにカミオカがいた……ということのみ。目当てだったモニカの居所を聞き出すどころか、アイスピックで足を穴だらけにされ、中年男に無理矢理フェラチオされている。
自分自身の感情もひとつにまとまらず、正常な判断もできない。ただあるのは、片手に握ったスマホだけだ。
「…………っ!」
カミオカは反応しない僕のペニスを一心不乱に咥えこみ、じゅるじゅると音を立てて舐めている。カミオカがこれに専念している隙に、このスマホで助けを呼べるのではないか。
刺されてからここで初めて考えがひとつにまとまった。
助かるためには、誰かに来てもらうのが一番だ。だが誰に?
まさかこんな距離感で電話できるはずがない。本当なら警察に連絡するのが最も最善策だとは思うが、状況を伝えられないのでは意味がない。
となると、電話以外の連絡手段ということになる。現実的なのはメッセージアプリ。
誰に送信する? 家族か。友人か。
……くそっ! 悩んでる暇なんかない!
「龍太郎」
「は、はい!」
「君、あれだけ言ったのに」
心臓が止まる。外と連絡しようとしていたのがバレたのか。
白目がちに睨むカミオカはよだれを垂らしながらアイスピックをふりかざした。
「や、やめて!」
「全然、勃起しないじゃないか!」
カミオカは狂ったようにふとももに何度も繰り返しアイスピックを連続で突き刺す。
「ぃぎやあああおっ!」
気を失いそうになる激痛の連続に手からスマホが落ちる。精神が壊れる寸前だった。
「口を開けばモニカモニカって、あんなアバズレのことばかり。僕は君の声が好きなんだ。その声を一番近くで聞きたかっただけなのに、下心を出しやがって。それに君も『虫』が視えるんだろ」
「……む、虫ぃ?」
「そうだ。今さらしらを切らなくていい。ほら、ここにも、あそこにも、あんなところにも。視えるだろ、この夥しい数の閻魔蟲が!」
完全に目がイッている。カミオカがまともな状態ではないのは一目瞭然だ。それに虫が視えるなどと意味不明なことまで言っている。やはりこの男は最初から狂っていたのだ。
狂人が待ち構える巣にのこのことひとりで僕はやってきてしまった。モニカのことは大事だ。だがそれよりも今、僕自身の命が危険に晒されている。
どうにかして、ここから逃げ出さなければ。
そう思いつつ僕は何十か所も刺され、真っ赤に染まったふとももを見た。
泣きたくなるほど見るも無残な状態だ。これでは使い物にならない。
「お前、あの部屋に住んでんだろ? だったら視えるはずだよなぁ? 虫が……エンマ虫が。僕と……いや、龍太郎と同じように!」
「み、視えます! 視えます視えます! だからやめ……」
カミオカの意味不明の言葉に同意し、ひとまず刺激しないよう努めた。それはとても駆け引きと呼べるようなものではなかった。
なんとか逃げる隙を作れたとしても、こんな足では走ることもできず、歩くことだってままならないだろう。それでは仮にカミオカを気絶させることが出来たとしても、目を覚ませばすぐに追いつかれて報復される。
……殺すしかない。もう、殺すしか僕が助かる術は!
覚悟は決めた。なんの躊躇もなく、表情も変えず、人のふとももや腹を刺すことができる人間だ。人を殺すこともなんの躊躇もしないかもしれない。
だったら、やられる前にやるしかない。
……でも、こんななにもない部屋に武器になるものなんか。
部屋を見回す。物がなさすぎる殺風景な部屋にあるのはラジカセのデッキといま座っているソファ。それにテーブルとノートパソコンくらいだ。武器になりそうなものはない。その事実を前に、心が折れかける。
……もしも武器として使えるとすれば、あれくらいしかない。
折れかけた心を立て直すのに、武器と呼ぶには頼りないあるものを見た。あれをどうにか理想の状況下で入手出来れば、一縷の望みはある。
……でもどうやって。
焦る心。ジンジンと痺れるような痛みがなにもしていなくとも頭に響く。こんなの動けるわけがない。だがそんな悠長なことを言っている場合ではない。痛みは、歯を食いしばり、我慢さえすれば少しの間ならば精神力だけで動くことができるだろう。
ならば、次に肝心なのはカミオカからどう「隙」を作るかだ。その命題さえクリアできれば、なんとかなるかもしれない。
しかし、脳内でシミュレーションしてみるものの、どう考えても絶望的だ。少しでも誤れば、死に直結する。それでも僕にはやるしかない。やらなければ、死ぬ。
頭をフル回転させ、ひとつの策が降ってくるように沸いた。代替案が降ってくるのを待っている余裕はない。すぐに実行しなければ。
しかし、そのためには今すぐどうにかしなければならない問題があった。
「ふぅー……ふぅー……」
精神を集中させ、痛みを違う感情に変換するよう努める。そして、最大限に妄想力を高めた。今、これが出来なければ死ぬ。
「おお、龍太郎! やっとその気になってくれたんだな」
「ふぅー……ふぅー……」
僕は血にまみれた手で自身のペニスをしごく。痛みは快感。この痛みは快感によるものだと言い聞かす。そして、快感はどこから生まれたのか。この血は誰の、どこからの血か。
……痛くない。これは気持ちいいんだ。このぬるぬるした血はモニカが処女を捧げた血。あそこから出た血。
そんなこじつけのような妄想で血が滾るわけがない。しかし、今はそれに賭けるしかない。立ち上がる。ふとももに強烈な痛み。
幸い、刺されたのは片方のふとももだからもう片方の足は無傷だ。無理をすれば立つことくらいはできた。
その痛みをモニカの処女を貫いた痛みとシンクロしているのだと言い聞かす。「そんなわけない」という邪念が付け入る隙のないほどに必死に思い込んだ。
「おお、勃起した……勃起したぞ龍太郎!」
カミオカは硬く反り勃ったペニスを見て嬉々とした声を上げた。
真剣にこれを求めていたのだとわかると思わず萎えそうになる。慌てて集中力を保った。
「これだよ、これ! どれだけ夢に見たか」
飛びつくようにしてカミオカは再び咥え込んだ。
「これは僕のものだ! 誰にも渡すものか、血まみれチンポ!」
僕はそれを見届けてから、自分の頭のそばのラックにあるラジカセのデッキを手にした。そしてそれをふりかざすと、そのまま力いっぱいにカミオカの頭めがけ叩き落とした。
ガチャンッ、と重い音をあげてデッキがカミオカの頭にめりこむ。カミオカの口からペニスが抜け、体勢を崩した。カミオカの代わりにテープが悲鳴をあげ沈黙する。
間髪入れずにもう一度、デッキで殴る。さらにもう一発。まだもう一発。動かなくなるまで殴り続けた。
ラジカセの部品や破片があちこちに飛び、そこかしこに血しぶきが舞った。
ふと我に返ると、カミオカが僕の足元でうつ伏せで倒れている。ぴくりとも動かなかった。
「し、死んだ……?」
殺される危機に瀕していたのに、今は相手を殺してしまったという罪悪感で血の気が引く。心の中で必死にこれは正当防衛だった。仕方がなかったと弁明を重ねるが、聞く相手のいないそれはただ虚しいだけだった。
数分、数十分、体感的な時間は曖昧で実際にどれだけの時間、そこで呆然としていたのかわからない。ただ確実に僕は少しの間、放心状態だった。
強い衝撃を立て続けに受けたラジカセのデッキから、突然、「キュルキュル」と中のカセットが巻く音がした。そして、ラッパのジングルとともに岡村が喋り出した。
それに驚き、僕はようやく現実に戻った。露出したままのペニスはすっかりだらんと力を失い、慌ててそれをしまう。その間にも腹とふとももが痛んだ。
「そうだ……モニカ、モニカを捜さなくちゃ」
足を引きずり、外に出た。他の部屋にいるはずのモニカを探すため僕は二階に上がる。なんとなく、二階に居る気がした。それにもし二階に居なかったとしても、有事の際にまだ逃げようがあるかもしれないと思った。
一階の部屋でもしもカミオカが起き上がり、襲ってきたとしたら万事休す。だが二階ならベランダから飛び降りて大声で助けを呼べば、或いは誰かが気付くかもしれない。と思った。だからまず二階から捜す必要があった。
それにもしかすれば家まで逃げられるかもしれない。なぜならここは、僕の住むマンションと同じ町内だからだ。
外に出てくる途中、ゴミの山からまだ未開封のデミグラスソースの缶を拾った。全室、ガラス戸ということもあり、鍵がなくても割って入ろうという寸法だ。
それにいざという時に武器になるかもしれない。頼りないが、ないよりマシだ。
「あっ! うっ……」
歩くたびに激痛と共に声が漏れる。手で口を押えながら、錆びてザラザラした手すりに頼って階段を上がる。
逃げたい。ここから逃げたい。でも、僕がここから今逃げたことで、モニカが助からないのはもっと厭だ。心を奮い立たせる。
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