断片的淡々短編集

真愛 凛

赤いシャツ

 たくさんの栄養を蓄えて育った彼岸花のような赤と、限りなく漆黒に近い鉛色の雲が空を支配していた頃に、僕たちはそれを見つけた。道端に捨てられたみたいに落ちていて、周りが暗いのもあり、最初はゴミだと見間違えてしまった。けれどよく見たら、それはとてもゴミとは言えない、いや言ってはいけないものだとすぐにわかった。

 それが何なのか確実にわかるくらい近付いたとき、僕は足を止めて顔を歪めた。加齢臭と牛小屋を混ぜたような鼻にくる匂いと、その周りに群がるやかましい虫たちの羽音は、僕を不愉快にさせるには過剰なくらいだった。それの正体が判明した時、失礼にあたる態度をとってしまったけれど、我慢ができなかったので許してほしい。僕は自省の念に駆られた。

「猫、死んでるね」

 僕と一緒に歩いていた友人が、ポツリと呟いた。僕はその呟きを無視した。

 猫は目を瞑っており眠っているようだった。真っ直ぐで白い毛並みから、人間から大事にされていた猫だとすぐにわかる。けれど猫がいる中心から大きな大きな血溜まりが発生していて、もう手遅れなのは明らかだった。遠くで発見してから一度も動いていないどころか、呼吸している様子さえない。生気が全くないから、それがすぐに猫の死骸だと理解した。

 僕はここから早く逃げたくて、無視して通り過ぎようとした。けれど身体中が金縛りにあったかのように動けなかった。これ以上見たくないのに、目が離せない。走り去りたいのに、足が命令を聞かない。叫びたいのに、舌が重い。自分の呼吸がどんどん浅くなっていく。吐きそうだ。どうにかしてこの場から消えたい。誰でも良いから助けてくれ。そう祈ることしか僕にはできなかった。

「かわいそう」

 友人がそう言って、猫の死骸に向かってゆっくり猫の方へ歩き始めた。ぴちゃぴちゃと血溜まりを踏む音が僕の耳に響く。そしてそのまま、さも当たり前かのように猫を抱き抱えた。僕は見ることしかできなかった。抱き抱える際に付いた血が、友人の袖に染みる。

「ほら、行くよ」

 ぽたぽたと袖から血を垂らしながら、友人は猫を抱き抱えて歩く。その様子をぼうっと見ていたら、いつのまにか身体が動くようになった。自由になったことを認知したのと同時に、身体中から脂汗が吹き出し、心臓がはち切れんばかりに激しく動き始めた。僕は崩れかけた身体のバランスを整え、深呼吸をして自分を落ち着かせる。

 友人は僕のほうに顔だけ向けて、ちょっと歩いた先に山があるからそこに埋めよう、と言った。僕は頷いてから、友人の近くまで小走りで向かった。

 友人は平然とした顔で、猫の死骸を抱きかかえながら歩いていた。それは僕に畏怖の念を与えた。とても僕にはできない行為だ。たしかにそのまま放置していたら、猫が可哀想だと思う。恐らく大多数の人が同情するだろう。しかし死骸に触れて、さらに持ち運ぶとなると、かなりの精神的強さを持っていないと無理だ。それができるのは、世の中には一握りの人々しかいない。

 思いやりだけではどうにもならないことが、世の中にはある。問題に立ち向かう勇気も持ってこそ、本当の優しさなのだ。僕はこの友人を持てて、幸せ者なのかもしれない。僕が友人のようになるのはまだ時間がかかるけれど、諦めなければいつかなれるはずだ。そのために、まずはこの状況から逃げずに見届けることから始めたい。友人の行動をこの目に焼き付けるのだ。さっきはそのまま逃げようとしたけれど、友人からもらった勇気のおかげで立ち向かえる。

「この猫、不思議だね」

 歩いていたら、ふいに友人がそう言った。たしかに道端で死んでいるのは不思議だ。大体の猫は人の気配がない場所で死ぬものだ。しかし、それを君が言うのは何か間違っている気がする。君のが不思議だよ。

「身体にケガが全くないんだよ。あんなに血が流れてたのに」

 そう言って猫を僕に寄せてきた。僕は嫌な顔をしながら、薄目で猫を大雑把に観察した。友人と猫を最後まで見届けると決めた以上、僕には猫の死骸を見なくてはいけない義務がある。

 言われた通り、傷が一切なかった。というか、毛に血が一滴も付いてない。気になって友人に猫の体勢を変えてもらって全身を見たけれど、その身体は全く異常がなかった。

 もしかしてあの血溜まりは僕の幻覚で、実は猫も死んでおらずただ寝ているだけではないのか、という考えがよぎった。動いている様子が伺えなかったのは、とても浅い呼吸で眠っていただけで、今も生きているのではないか。

 しかしそう思った矢先、猫は冷たいよと友人が言った。それに加え、変な臭いは猫からしているし、虫たちが周りをブンブンと飛んでいるから、間違いなく死んでるよと続けた。僕の淡い期待は見事に打ち砕かれた。実際に今、見つけた場所から多少離れているけれど、臭いや虫は一向に収まらない。触る勇気がないので確証がないけれど、猫には体温がないから、もう命を失っている。なにより、友人が着ている白いシャツは赤く染まっていた。僕は嫌々ながら現実を受け入れた。

 道路には羽虫の死骸がたくさん転がっていた。

 山の中腹あたりで、友人は猫を埋めるための穴を掘りはじめた。猫の死骸をそばに置いて、素手で掘っていた。もちろん僕は手伝おうとしたけれど、友人に止められてしまったのだ。汚れるし、これは自分だけでやりたいことだから。それに猫を埋める程度の小さい穴なら一人で掘ったほうが効率良いよ、と言われたら僕は退かざるを得ない。無理を言っても迷惑になるだけだ。

 穴に猫を埋める作業はすぐに終わった。埋めた僕らでも猫の正確な場所がわからなくなってしまったほどに、元の自然を崩さず埋められた。

 友人は後のことなどを一切気にせず作業をしていたので、服がより汚れた上に、爪の間に土がこれでもかと詰まっている。僕は鞄からウエットティッシュが入っているパックを取り出して、彼女のほうへ差し出したけれど、返ってきた反応はありがとう、気持ちだけ受け取るよ、という言葉のみだった。

 猫を埋め終えた時の友人は、どこか悲しそうで、けれど満足していて、しかし怒りを隠しているような表情をしていた。感情が豊かで色々な表情をする人物ではあるけれど、こんな顔を見たのは初めてだ。友人は今何を思っているのだろう。僕には理解できなかった。

 空を見上げると、夕日の代わりに月と星が輝いていた。周りに人工的な明かりがないので、普段だと見えない弱い光の星々が見える。いつもと違う光景を前にして僕は息を呑んだ。僕は星座に関しての知識が殆どないので、残念ながらオリオン座ぐらいしかわからなかった。夏の大三角は知っているけれど、今は秋だ。この空にはない。

 猫の死骸を埋めるという目的で来ていなければ、この光景を見て、もっと心が踊っていただろうに。僕はあまり切り替えが早いほうではないのだ。

「さて、帰ろうか」

 いつのまにか帰る準備を終わらせていた友人が、空に見惚れていた僕を呼んだ。別世界から解放された僕は慌てて支度を終わらせる。そして気持ちを整理させるため、猫が埋まっている場所を少し見つめてから、友人と山を下りた。

 僕は下山の最中、友人のシャツが血と土でそこらじゅう汚れている事を指摘した。そのままだと帰り道に悪目立ちするから、僕の上着を貸そうと提案したのだ。次会ったときに返してくれれば、それで良い。

「私のシャツはさ、しらけてるから、ちょうどいい位の模様さ」

 友人はそう言って屈託のない笑顔を見せる。僕はつられて笑った。上着は要らないようだ。

 僕は友人と別れるまで、他愛のない話を一度も止めなかった。多少無理矢理でも構わない。話をやめてしまったら、沈黙が訪れたら、そこで僕たちは終わりだ。その時は何故か、そんな強迫観念にかられていた。後に思えば、その考えは正しかった。

 この日、僕は知らないうちに友人を裏切っていたのだ。とりかえしがつかなくて、到底許されない行為をしていた。ひょっとしたら、友人は最初から全てを知っていたのかもしれない。僕に見捨てられるのをわかっていて、僕と一緒に行動していた可能性もある。もしそうだとしたら、友人は何を感じ、どう思い、どんな結論を出したのだろうか。今となってはもう、知るすべがない。

 なぜならその翌日、友人は行方不明になったのだから。

 友人の名前は東照とうしょう 子夢ねむ。彼女は僕にとって自慢の友人であり、心の癌だ。

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