第1章 勝海舟の話

それは、慶応4年3月14日の夜のことであった。土方歳三は、幕臣で軍事総裁の勝海舟の屋敷にいた。これから、五兵衛新田に向かうのだ。

「じゃあ、俺は行く。近藤はすでに向こうに着いているらしいからな」

歳三が言うと、勝は苦い顔をして言った。

「土方、重ねて言うが、大人しくしておけよ。下手に動くんじゃねぇぞ」

勝は、この二日間の努力を、新選組を母体とする『鎮撫隊』に潰されては困るのだ。新政府軍の代表たる西郷隆盛との会談で、江戸総攻撃の中止と、江戸城無血開城を約束したのである。江戸城の明け渡しは約ひと月後の4月11日と決められていた。

「わかっている。俺たちの任務は、あくまでも脱走歩兵の取り締まりだろ」

「軍事行動はするなよ」

勝の矛盾する話に、歳三はあきれて出ようとしたそのとき、また勝が歳三を止めた。

「土方よ、お前さん、薩摩の中村半次郎を知ってるかい?」

勝が聞くと、歳三は、

「中村半次郎?……ああ、名前だけはな。顔は知らねぇよ」

と答えた。歳三は、その名を覚えていた。それは、近藤が狙撃された墨染事件の時のことだ。御陵衛士が伏見の薩摩屋敷に匿われているという噂を聞き、狙撃犯の引き渡しを要求したとき、断固として応じなかったのが、薩摩浪人、中村半次郎だったのだ。

「そいつがどうかしたのか?」

一応、聞いてみる。

「刀をな、探しているんだとさ。これは、西郷から聞いたんだがな。お前さんも持っているだろう?あの、『千両兼定』……あれと同じもんをな。どうやら、中村も『之定』が欲しいらしいぞ」

勝の言葉に、歳三は顔をしかめて、

「勝さん、まさか、俺の刀を担保に、西郷と交渉しようってんじゃねぇだろうな?あれは渡さねぇぞ!」

歳三が言うと、勝はカラカラと笑った。

「まさか。いくら俺でも、他人の刀を取るようなことはしねぇよ。西郷の話を聞くとな、そいつも、お前さんと同じように、今の武士には無くなっちまったような、侍の誇りを持つおとこらしいぞ。西郷はそうとう、中村を買ってるな。お前さんと似たところがあるんじゃねぇか?」

「ふん、薩長と似たところがあるなんて、迷惑だぜ」

歳三はそう言って出ていった。勝はその後ろ姿を見送りつぶやいた。

「お前さんたちみたいのが、一番厄介なんだよ。その誇りのために、自分の命さえも賭けちまうからな……」


夜風に混じって花の香りがした。季節はすっかり春になったのだ、と歳三は思った。

「『之定』を求める、薩摩の侍か……」

歳三は、一年半ほど前の、京の頃を思い出していた。


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