息子思いの母



 玄関の扉を開けて家の中に入る。まだ扉が閉まりきる前に,リビングから大きな音を立ててエプロン姿のおばさんがリニア新幹線のような速度で飛び出してきた。


「おかえりなさい。今日,どうだった? 疲れたでしょう。ゆっくりと休みなさい」


 ほらほら,と学生カバンを預かり急かすようにリビングに促す。「そうか,こいつが母親だった」と疲れた身体にさらに疲労がのしかかる。せめて綺麗な若奥さんだったらよかったのに,と淡い願望を抱いて肩を落とす。

見知らぬ母親の息が荒い。このおばさんはリビングで何をしていたのだろう。いくら急いでいたとはいえ,リビングから玄関に移動するまでの間でこんなにぜえぜえと息が上がることがあるだろうか。

 不思議に思いながらも,急かされるままにリビングへと移動した。「すぐお茶を持ってくるからね? ジュースがいい?」とせかせかして返事も聞かずにキッチンへと姿を消した。

 一人残されたリビングで部屋の中を見渡した。おそらく幼稚園で作ったのであろう乱雑な似顔絵や,小学校の工作で作った作品などが至る所に飾られていた。


「誰だこれは」


 手に取ったのは,おそらく幼い頃の大介と共に映っている四人の写真だ。きっと家族で出かけたときに取ったのだろうが,大介と母親以外に見知らぬ顔が二人いた。きっと,父親と兄弟に違いない。同じような背丈だが,少しだけ大人びて見える。もしかしたら,何歳か年上の兄貴がいるのかも知れない。


「病室には兄貴のようなやつも親父のような男もいなかったな」


 「久しぶりに見ると懐かしいでしょ」と後ろからジュースを持ったおばさんが現れた。コースターをテーブルに二人分置いて,ソファに腰掛けた。


「もうあれからずいぶん経ったわね」と遠くを見るような目をして言った。

オレンジジュースの入ったグラスに手を伸ばす。この家族は何かしら抱えている。そう察したが,別に自分に関わりのあることでもない。グラスを垂直にして一気に飲み干した。



「約束を守ってくれたね。あとはもう少し勉強を頑張ってくれたら良いかな。仁にそんなことを言うのも無茶かも知れないけど」


 気付くとまた宇宙空間のような世界に入り込んでいた。スポットライトを当てられたみたいに明るいポイントに例のキノコのような頭をした大介が浮かんでいる。風呂に入って身体を流すとどっと疲れがやってきたのでベッドで横になって眠ったはずだった。眠りにつくと必ずここに連れてこられるのだろうか。いつ休めることが出来るのかと憂鬱な気分になる。


「約束は守っただろ。これ以上のことを求めるな。それに,今日は疲れているんだ。休ませろ」

「しんどそうだね。もうやめるかい?」

「お前の身体が貧弱なせいだ。それより,いつまで続けさせるんだ。学校に行って,ノートだって取ったぞ。このままだと終わりが見えないじゃないか。せめてゴールぐらい示しやがれ」


 そうだね,と目尻にしわを寄せて,大介は笑った。


「仁に伝えたいことがあるんだ。聞いてくれるかな?」

「もったいぶらずにさっさと言えよ。どうせやらないと身体を返さないとか言うんだろ。その代わり、もう後出しで注文付けるのは無しにしろよな」


 うんざりしながら大介に言うと胸をなで下ろしてほっとしたような表情を見せた。


「断られたらどうしようと思って安心したよ」

「おれに拒否権があるのかよ」

「まあまあそう言わないでよ。結果としてぼくに無理矢理押しつけられたからではなく,自分で選択して受け入れることにしたわけだ」

「何をするのかを先に聞かせろ」


 なんだかいいように舵取りをされているような気もするが,さっさとこの身体とあの閉鎖的な環境とおさらばするためには,役割を果たすのが一番手っ取り早そうだ。


「生徒会長に立候補して,当選して欲しい。それがぼくが提示するたった一つの条件だ。それ以外のことは求めない」

「・・・・・・は?」


 かろうじてのどから音が出た。おれが生徒会長? 言っている意味がさっぱり理解が出来ない。


「おれの頭ではお前が何を言っているのかが理解できない」

「簡単なことだよ」


 あっけらかんとした表情で大介は言った。


「来週,生徒会の立候補受付が始まる。それに名乗り出て,生徒会長という役職をつかみとれば良いんだ」

「なんでおれがそんなめんどくせえことを・・・・・・」

「ずっとその身体で良いの? じゃあ,悪いけどお母さんをよろしくね。身体がよくないから」


 うっ,息が詰まるような気分になった。足下を見るようにものを言いやがって。


「だいたい,なんで自分でしないんだよ。自分の事は自分でしなさいって言われなかったのかよ」

「宿題を人にやらせるような人には言われたくないね」


 ぐうの音も出ない。どうしてそんなことまで知っているんだ。おれが大介のことを少しずつ理解できるように,大介もおれのことを把握しつつあるということか。


「それに,今は身体を元に戻せないようなんだ。いろいろとあるんだろうね。・・・・・・それに,宿題を自分でやっていないというのは完全な勘だよ。やっぱり合っていたんだ」


 この野郎,と掴みかかろうとしたが,無重力に近い空間で身体がうまく操作できない。大介は水の中のように自由に動き回るのに,自分にはそれが出来ないというのが歯がゆかった。


「じゃあ,来週頼むね」


 そう言って大介は消えていった。待て,と追いかけようとしたが,自らの意思で動けない風に揺られた風船のようにその場で旋回することしか出来なかった。

 分からないことだらけだ。聞きたいこともあったのに。大介の言い方から想像するに,身体を戻すのには時間的な間隔が必要なのだろうか。それならこの身体でしばらく生活するしかない。受け入れるとか受け入れないとかの選択は出来ないのだから。まず直近の課題として,生徒会長にならないといけない。あの偉そうで訳の分からない無駄話を全校生徒の前でする一番嫌いなタイプだ。どうやってなるのか,何をしたらよいのか,あらゆる謎を残したまま一人取り残されていた。

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