令和

 れいわ。

 2019年5月1日より使用されている元号。

 出典は万葉集。

 梅の花の歌、32首の序文にある「初春の令月にして、気く風やわらぎ、梅は鏡前の粉をひらき、蘭は珮後はいごの香をかおらす」から。


 出典を適当に訳すと、次のような感じか。

『時も初春のめでたい月。空気はきよらかで、風もおだやか。梅は鏡の前で装うように咲き、蘭は身につけた香りのように匂っている』



 元号に関する個人的な評価としては、制約が多いなかで、妥当な漢語が選ばれたと思う。

 響きも古臭くなく、よく勉強してきた学者の仕事であった。

 これからの日本のスローガンとして悪くないし、出典の文章も今回の譲位と重なる。



 今回の元号の特徴は、国書である万葉集から取られている点にある。

 漢籍から直接選ばれなかったのは、今回がはじめてらしい。

 無論、さかのぼれば漢籍にたどりつくが、立案者も決定者も理解したうえで選んでいる。


 良い意味を持つ二字の漢語などは、漢籍で出尽くしているから、国書のオリジナルから選ぶのは不可能だ。

 漢籍とのつながりのない和製漢語で、日本国の元号にふさわしい言葉などない。

 また、元号が漢籍から取られてきた伝統を考えても、まったく漢籍と関係のない言葉が選ばれるのは適切ではない。


 中国との関係で言えば、たとえば、毛沢東語録から元号を選べば問題だ。

 しかし、少なくとも漢代以前の漢籍について言えば、我々日本人が、ナショナリズム等の理由から、中国人に気兼ねをする必要はない。

 いま漢民族を名乗る人たちの直接の祖先が、いつ頃、中原と呼ばれた地に住み着き、民族としての自覚を持ったのかを考えれば。


 以上、いろいろと書いたが、それでも、国書から選ばれたことが喜ばしいのは、国民が由来を探ろうとしたときに、日本人によって書かれた本を手に取ることになるからだ。

(中国人という書き方と同じく、上の日本人という表現も問題があるな)

 平成の由来を探るために、支那の歴史が記されている史記や書経に当たらなければならないのは少しさみしい。



 加えて、元号は年数との組み合わせも気を使う必要があるが、令和は大きな問題はなさそうである。

 大火にみまわれた明和九めいわく年のようなことはない。



 元号の必要・不必要については、今回の改元の様子を見るに、あってもわるいものではないとは思った。

 心持ちを改めるための機会にする人が多そうだ。

 ただ、実生活が西暦を中心に動いている実情は、もっと考慮してほしい。



 あと、今回の元号にまつわる騒動の中で、自分なりに理解が進んだのは、教養という言葉についてだ。

 背景・経緯などを考慮できず、事物を見たままにしか受け取れないことを、「教養がない」と言う。

 令について「命令」の意味しか思い浮かばない人は、教養がないように見える。

 しかし、そういう方々の中には、そもそも教養に価値を見出していない人が少なくなさそうだ。



 最後に、改元について、多くの人が私案を考えていたようだが、私の場合は、古今和歌集の真名序や荘子から探していた。

 荘子の至楽篇の冒頭に至楽(絶対の楽しみ)という言葉があり、これなどはどうだろうかと考えていた。

 Sirakuなので、イニシャルが昭和とかぶるだけでなく、そんな名前の大統領がどこかにいたが。

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