その9 ふーちゃんとお買い物

 タクシーで一旦家に戻って、スーパーで買った荷物を置く。

 この際、卵は盛大に割れていたが気にしない。とりあえずパックの外に溢れた卵白を拭き取り、諸々を冷蔵庫に入れる。


「わん」


 ふわは新しい家を気に入ったようで、吠えながら走り回ってる。そんなふわを後ろで追いかける瑠璃川。ぶっちゃけ、そんな彼女に言いたいことはある。

 手伝え……


 まあ、無理な話だろうけどな。

 瑠璃川は料理以外も適度に家事をしてくれているが、マイペースというか、能天気というか、今みたいに明らかに手伝ってほしいときは、自分の世界に入っていることが多い。

 浴室の蛇口が壊れた日も、彼女が床に垂らした水は結局俺が拭き取ったし。




「おい、瑠璃川、お前が濡らした床は自分で拭いてよ」


 って言っても―――


「な~に? 今ラノベ読んでるから聞こえないー」


 ―――瑠璃川は布団の上で横になって、ラノベを読んでいてまったく取り合ってくれなかった。




「荷物置いたから、行くよ?」


「はーい」


 俺が声かけると、瑠璃川は元気よく返事してくれた。

 もちろん、瑠璃川がこんなに聞き分けがいいわけがない。これには理由があるのだ。

 そう、これから、俺たちはふわの身の回りの物を買いに行くのだから。




 夕方は昼ほど日差しが強くないから、買い物は徒歩で行くことにした。瑠璃川はカプリーヌを被って、この家にやってきたときに被っていた麦わらの帽子をふわの頭にかぶせた。そして、ショルダーバッグを肩にかけ、ゆっくりとふわを抱き上げて、玄関を出た。

 うん、どこのセレブだよってツッコミを入れたい気分だ。

 

 時折吹いている風が涼しく感じる。木の葉このはが擦れあってサーサーと音を立て、蝉の鳴き声と交じりあって、夏の協奏曲を紡ぐ。

 

「えっと、ご飯に、ベッドに、トイレ……」


 瑠璃川は指を折ったり伸ばしたりして、これから買わなきゃいけないものを数えていた。

 そんな瑠璃川を横目で見て、彼女の美しさにこっそりドキドキする俺。

 一緒に住んで随分と立つのに―――しかも裸まで見た―――いまだに彼女がそばにいる事実が信じられない。

 それほど、彼女の表情や仕草の一つ一つが新鮮で可愛くて、どうしても俺なんかが釣り合うわけがないと思ってしまう。


「あと首輪ね」


 彼女の買い物リストにそっと必要なものを追加する。


「あっ! そうだった! 伊桜くんって天才だね!」


 そんな大したこと言ってないのに、天才認定されちゃった俺。

 嬉しいような、空しいような、そんな摩訶不思議な気分になる。




 家から20分ほど歩いたところに、ペットショップがある。

 一人暮らしを始めたときは、最低限の生活ができるように、家の周辺を探索して、どこにどんな店があるのかあらかた把握した。


 まさか、絶対に縁がないと思っていたあのペットショップに俺が美少女と一緒に訪ねることになるなんて、果たして二年前の自分には予想できたのだろうか。

 多分、違う予想はしていたと思う。いつか自分も誰かと結婚して、普通な生活を送るだろうって。よく言えば、可もなく不可もなく、悪く言えば、どこか妥協した人生を送って、誰かがそばにいてくれさえすればいいんだって思いながら、と結婚して、親がそばにいなかった寂しさをその人に補ってもらう。そんな自堕落とも相手に失礼とも言える生活の中でペットを飼って、ペットショップに行くという想像はしていたと思う。


 でも、やっぱり、そんなのが無理になった。

 だって、瑠璃川が横にいる感覚を覚えてしまったら、もうと結婚することなんてできない。俺は……瑠璃川、お前が……


「どうしたの? 伊桜くん。ぼーっとしちゃって」


 もしかして熱中症? と瑠璃川は俺の顔を覗き込んでくる。


「や、やめろ。ね、熱中症じゃないから……」


 やばい、今の顔見られたらダメだ。それに、そんなに顔を近づけてくるな。


「顔赤いよ? やっぱり体調悪いの? 水飲む?」


 うん、心配してくれてありがとうね。顔が赤い理由はともかく、なんでお前はペット用の給水器を見つめながら聞いてくるんだ?

 まさか昨日、「ポチ」と呼んできたのは冗談とかじゃなくて、本気で俺の種族を間違えたんじゃ―――そんな疑念が頭の中をぐるぐると回る。

 瑠璃川なら、あるいは……

 

「給水器がダメなら、水槽もあるわよ?」


「俺は可愛い魚の住処を漁る気はないぞ?」


「一応淡水だから、飲めるはずだよ?」


「問題はそこじゃないだろう!」


「あはは、冗談だよ~」


 俺らのやり取りを聞いた店員さんがなぜか口元を手で隠してクスクスと笑った。

 微笑ましいのだろう? そうだろう? 俺も当事者じゃなかったらそう思うよ? 真剣な目で冗談を言ってくるやつがまじで怖いんだが……


「普通に君のバッグに入ってるペットボトルを渡してくれるという発想はないのか?」


「それじゃ……間接キスに……なっちゃうから……」


 ほんと、いまいち瑠璃川が恥ずかしがる基準が分からない。裸見られても堂々としてたのに、間接キスくらいで頬を赤らめる……いや、俺も間接キスは恥ずかしいよ。でもそういう問題じゃないから。


「いや、ごめん、俺が悪かった。言い直すね? 君のバッグに入ってるを渡してくれる?」


「あっ、そっち? てっきり私の水が欲しいと思ってた……」


「なわけないだろう……はあ」


 ため息を付いて、俺は瑠璃川が渡してくれた紅茶をあおった。

 ちらっと瑠璃川を見たら、彼女は顔が赤いまま固まっている。うん、初々しい。初々しい感じはするけど、家での瑠璃川を知ってるから、とてもそのまま「瑠璃川は初々しい」と結論付けられない。にしても、今まで色々大胆なことしてきたのに―――下着を買いに行ったときにいきなり手を繋いできたとか―――なぜ間接キスの話になるとこんなに動揺するのだろうか。


 あれか? スキンシップと粘膜接触は違うと思ってるやつか。


「わん!」


「ふーちゃんも喉乾いたの?」


 そう言って、瑠璃川はふわを俺に抱っこさせて、バッグから自分の水を取り出し、もう片方の手のひらで皿を作り、少しだけ注いだ。

 ふわはというと、瑠璃川が手をふわの口に近づけると、ぺろぺろと舐めだした。ふーちゃん、くすぐったいよって瑠璃川は嬉しい悲鳴を上げているのが、妙に艶めかしくて可愛かった。


 そして、そのまま、瑠璃川はふわを俺に託したまま、ペットショップの店内を回ってはしゃいだ。


「ねえ! 見てトーストみたいなベッドがある!」


「あっ、ふーちゃんのご飯は柔らかいやつがいいよね!」


「うーん、トイレはこっちで、シーツは吸水性のいいやつで……」


 そのはしゃぎようはのちに後世に語り継がれることになった……なんちゃって。

 でも、それくらい、瑠璃川は楽しそうに見えた。

 

「ねえ、ふーちゃんとパパ、布団はどれがいい?」


 瑠璃川はベッドのコーナーを指差したまま、振り向いてきた。


「わん!」


 俺が喋るよりも先に、ふわが返事の代わりに吠えた。


「なるほど……そういうのが好きか、ふーちゃんは」


「分かるのかよ!?」


「母親をなめないでちょうだい?」


「はあ」


 ため息はついたものの、なぜか嬉しい気持ちになった。

 ふわのおかげで、俺と瑠璃川の絆は深まったようなそんな気がした。上手く言語化できるかは分からないけど、これでも一応ラノベ作家だから、ちゃんと伝えようと思う。


「瑠璃川」


「うん?」


 俺に急に呼ばれて、瑠璃川はキョトンとしていた。


「俺、いいパパになるよ!」


 瑠璃川はくりっとした目をさらに大きく見開いて、事態が呑み込めない様子だった。

 正直、俺でも自分が何言ってるのか分からない。店員さんに至っては、「おめでとう」と言いたげな顔をしている。

 いや、そういうことじゃないんだけどね。


「ふわと出会って、まだ一日も経ってないのに、瑠璃川はちゃんといいお母さんになろうとしている……いや、もういいお母さんになってるから、それを見て、俺も……」


「俺も……?」


「俺もふわにとっていいお父さんになりたいと思った。だから、二人でふわを幸せにしよう!」


 結局、土壇場で伝えたい気持ちの一部をごまかしたけど、瑠璃川もふわも今の俺にとっては大事なんだってことは伝わったと思う。


「何言ってんの?」


「え?」


 やばい、きもかったかな……やはり本物の恋人でもないのに、まるで瑠璃川の夫にでもなったつもりの言い方だったね。

 胸がチクチクする。

 俺は浮かれていたのかもしれない。


 普通、同級生で、しかも学校一の美少女がいきなり「同棲しよう」って押しかけてこない。それは空から女の子が降ってきたり、曲がり角で食パンを咥えてる女の子とぶつかるくらいありえないことだから。


 だが、それは実際に起きた。

 そして、俺は瑠璃川と疑似恋愛するための疑似の恋人になった。

 彼女の言葉は俺に恋愛経験を積ませるためのものだと知っていても、期待しないようにしていても、やはり勘違いはするもの。


 気づいたら、目頭が少し潤んできた。

 

 最悪だ―――これじゃ、相手が自分のこと好きだと勘違いして告白したようなもんじゃないか。


「そんな当たり前のことをなんでわざわざいうの?」


「え?」


 俺はまた疑問の声を上げた。


「わたしは最初からそのつもりだけど、伊桜くんは違うの?」


「……はは、違くない」


 自嘲するように乾いた笑い声を漏らし、俺は答えた。


 そうだった。瑠璃川はこんな感じだった。

 彼女は本物か疑似かにこだわらない。彼女はいつも今過ごしている時間だけを見ている。そして、今というのは、俺との同棲生活なわけで―――


「ありがとうね」


 ―――だから、俺は彼女にお礼を言わなきゃいけなかった。


 いつか瑠璃川と離れる日が来ても、俺と瑠璃川が過ごした時間は本物だ。たとえ、肩書きがずっとだとしても。

 それだけで、俺は十分だ。




 諸々の荷物を俺が持って、瑠璃川がふわを抱っこしている帰り道。

 夕日に照らされているアスファルトはオレンジ色に光る。


「俺、今からでも幸せになってもいいのかな」


 思わずそうつぶやいた。

 もう、瑠璃川とはどんな関係なのか考えない。もしこんなことを考えているって瑠璃川に知られたら、絶対笑われるだろう。それほど、彼女は俺たちの関係に無頓着でいる。


 彼女が今の時間だけを考えているのなら、俺もいつか瑠璃川と離れるのではないかということを考えるのをやめる。

 そして、不思議なことに、そんなことを考えなくなったら、自然と今が幸せに思えた。


 瑠璃川がいる。ふわがいる。

 瑠璃川がママで、俺はパパ。

 瑠璃川がやってくるまでは想像もつかないような幸せ。


 そう、未来に目をつむって、今だけを見れば、幸せがそばにあると気づいた。

 両親が海外に行って、一人ぼっちになったときは、もう幸せになれないと思っていたのに。

 だから、これはだれかに向けた質問ではなく、ある意味感嘆に近い。

 「今が幸せです」という意味の。


「幸せになる権利に、有効期限はないと思うよ?」


「はは、ちげぇねー」


「変な人……」


 ジト目で見つめてくる瑠璃川はやっぱりとても可愛かった。

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