1-20 ティアナとモフ子、2人でお留守番をする

 ガチャリという玄関ドアの独特な音を耳にした後、私は1人小さくため息を吐いた。


 理由は単純。ここの家主である茨が、随分と不用心だからだ。


 初対面の異世界人である私に、あろう事か留守を任せる。それも私が異世界に来た目的である、モフ子様を残してである。


 ──少なくとも、向こうの世界ではありえない。


 そんな事をすれば、あっと言う間に家を荒らされ、金目の物を盗られる事になるだろうし、例えば今回のモフ子様のように、幼子やか弱い女性、ペットがその場に居れば、襲われるか攫われる事になるだろう。


 勿論全員が全員そうするとは言わないが、そうなる確率は極めて高く、故に初対面の人に留守を任せるなんて無謀な行動は、絶対に取らないと断言できる。


 ……それだけこの国が安全ということ?


 聞いた所によると、今私のいる日本という国では、ここ数十年は戦争が起きていないらしい。

 魔物のような常に命を脅かす生物も存在せず、基本的に国民の多くが平和ボケしているという。


「……そんな国があるなんてね」


 私は感慨深げにポツリと呟く。


 周囲に魔物が跋扈し、いつ誰に殺されてもおかしくない世界にいたからだろう。

 そんな国が存在するなどあまりに荒唐無稽に思えるし、正直茨の話を聞いた今でさえ、どうも現実味が無い。


 しかし、あの茨という人族のほんわかとした笑顔、根幹にある暖かい感情、何よりも、初対面の私に留守を任せているという現状。


 その全てから、私は確信する。


 ──きっと彼のいう通り、この国はどうしようも無い程に平和なのだと。


「……良い世界ね」


 思わずポツリと呟きながらリビングに目を向ければ、そこには私たちエルフ族の守り神である神狼、モフ子様の姿がある。


 モフ子様は特に私の存在を気にするでも無く、ただ1匹で心の底から楽しげに走り回っている。


 フェンリルという種族は生まれてから僅か数日で精神的、そして能力的に大きく成長するという。

 故に今のモフ子様には間違い無くかなりの思考力がある筈である。


 そんなモフ子様が、未だ数日しか共に居ない茨の家で、何の警戒も無く遊んでいる。


 いや、寧ろ──


 今この場には、初対面である私という存在がいる。


 普通ならば、本能的に警戒してもおかしくないのだが、今のモフ子様にその様子はみられない。


 ──茨が滞在を許可した人だから大丈夫って、そう思っているのかしら。


 だとすれば、あまりにも強い信頼感だし、それを数日で獲得した茨は、一体どれほど人が良いのだろうか。


 ぼうっとモフ子様を見つめる。


 自身を脅かすもののない安全な世界と、安全な場所。

 そして、茨には少し申し訳無いが、同年代の異性である彼も居らず、私とモフ子様の2人だけという空間に、私はここ数年で初めて気を抜いた様に目を細める。


 しかし、私自身それをあまり意識せず、ただただじっとモフ子様の姿を見つめていると……ここで突然モフ子様がこちらに目を向けたかと思うと、お座りの体勢で「ワフッ」と吠えた。


「……モフ子様?」


 私を拒絶している訳では……なさそう。

 そういう負の感情なら、もう少し暗い色になる。


 なら、これは……?


 突然目が合った事に動揺する私に向け、モフ子様がもう一度吠える。


 その姿は、何やら私の事を呼んでいるように見える。


 緊張からか、ドキドキと鼓動が高鳴る。

 しかしそれを悟られる事が無いように何とか平静を装いつつ、モフ子様の元に近づく。


 すると、今度は可愛らしい右手でポンポンと床を2度叩く。まるで自身の前に座れとでも言うように。


 よくわからないが、それに従い、私は床に敷かれたかーぺっと? の上に腰を下ろす。


 緊張を困惑へと変えながら、そのままモフ子様の様子を伺う。


 モフ子様は特に何も言わず、ただただくりくりとした瞳でこちらをじっと見ている。


 訪れる静寂。耐えかね、私は口を開く。


「モフ子様、どうかなさいましたか?」


 私が尋ねるも、モフ子様は何も言わず、ゆっくりと私の方へと近づき……私の右手にふわふわの頭を擦り寄せてくる。


「……きゃっ」


 突然の事に驚き、私は思わず手を引っ込めてしまう。


 ……モ、モフ子様に、フェンリル様に触れちゃったわ!


 内心どきどきとし、同時に咄嗟の事とは言え手を引っ込めてしまった事を申し訳なく思っていると、モフ子様が今度は私の足に擦り寄ってくる。


「…………」


 と。ここで不意に、先程の茨の言葉が脳内に響いてくる。


『ここは地球だからね。異世界の常識とは無縁の世界な訳だし──』


「……そう、ここは異世界。なら──」


 私は恐る恐る、モフ子様の胴を撫でる。


 ……ふふっ。柔らかくて、ふわふわね。


 床に敷かれているかーぺっとというものも大概フワフワで気持ちの良い感触だが、モフ子様のこれは正直次元が違う。


 私はその感触に魅了されたかのように、ゆっくりゆっくりと撫でる。


 するとモフ子様が気持ち良さそうにし、私の頬が緩む。同時に、段々と心が落ち着いてきたのか、私は思わず声を漏らす。


「……モフ子様。私はどうすれば幸せになれるのでしょうか」


 言葉の後、一拍空け、


「……って、言ってもわからないですよね」


 と言い、私は小さく笑う。


 モフ子様はそんな私の姿をじっと見つめながら「ワフッ」と吠える。


 その姿は、まるで何かを伝えているように見えるが、


「ごめんなさい。私の言語理解はヒト限定なんです」


 残念ながら私のスキルではモフ子様の言葉は理解できない。

 けれど、モフ子様の感情の色は、随分と肯定的であった。


 ──つまり、道はあるのだろう。


 なら、それまでは、居心地の良いこの場所で──


 私は相変わらず擦り寄ってくるモフ子様を優しく撫で続けながら、心の中でそう思った。

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