第一章 有森千聖 前編

 7月22日。夏真っ盛り、今学期最後の授業は体育、その中でも水泳の授業だった。私は更衣室へ移動する最中奏多を見つけたので、最近ずっと聞きたかったことを聞いてみた。

「奏多ぁ、あのプレハブ小屋、最近行ってる?」

 奏多は一瞬とても驚いた顔をして、しかしそれから素っ気ない素振りをして見せた。

「ゴールデンウィークに行ったけど、それから行ってない」

 本当は久しぶりだし、もう少し奏多と話したい気もしたけれど、奏多はそういう感じではなさそうだったら、私は「そっか、ありがと」とだけ残して奏多から離れた。背中に小さな視線が刺さるのを感じた。

 奏多は本当にいい子だと思う。それはもう、16年一緒に生きてきた私が保証できる、唯一のことだった。ただ、私に兼田君という彼氏が出来てから明らかに態度が変わってしまって、正直こちらから話しかけるのも憚られるようになってしまった。

 嫌われてしまったんだと思う。

 何となく、奏多は私の中にどこか、姉ではないけどそれに近い、いやそれよりも母に抱くようなものに近い、神聖性みたいなものを求めている気がした。それが彼氏ができたいうことで壊れてしまったんじゃないか、私は勝手にそう思っている。合っているかも知れないし、全くの勘違いかも知れない。でも確かに言えることは、奏多の態度は私以外のその他大勢に向けられるものになってしまったという事だった。

 それはどういう事か。つまり。

 奏多の心は今、一人ぼっち。

 私には、その救い方も最早わからないし、この件に関しては少し歯痒いけれど奏多自身の問題である側面が強いから諦め気味だった。

 今日奏多にプレハブ小屋の事を聞いたのには理由があった。それは今日兼田君にあのプレハブ小屋を紹介するという催しをしようと思ったから。何も、何もないのに私と奏多の大事な基地を紹介しようとしているわけではない。

 今日は兼田君と付き合って3ヶ月記念日で、更に兼田君の誕生日だ。そんな日に兼田君は、誕生日プレゼントは何もいらないから、代わりに私の秘密を一つ知りたいと言ってくれたのだ。

 本当はそういう話を全部奏多に話した上で兼田君を連れて行くべきだったんだろうけど、奏多はもう私の事なんか興味なさそうだから、強行することにしてしまった。でも、あそこを兼田君に紹介する事にしたのは、あのプレハブ小屋は、私にとってずっと大事な、可愛い奏多との思い出の場所だからであった。

 放課後が近づくにつれて、どこか緊張というかドキドキというか、妙な気持ちがふわふわと湧き始めて帰りのHRはあまり内容が頭に入って来なかった。兼田君はあのプレハブ小屋を見てなんて言うかな。楽しんでくれると良いんだけど。

 昇降口で兼田君と待ち合わせる。彼はいつも通りの穏やかな雰囲気で、私を見つけるとへにゃっと目尻を垂らして「お疲れ様、千聖」と迎えてくれた。この表情、好きだなぁ。合流するなり私達は歩き始める。それがとても自然であるように。心の中は少し、いや結構高鳴っていて騒がしいけれど、それはなるべく出さないように努めながら、兼田君の隣を歩く。

 私の住む地域は学区内でも相当な田舎だから、結構な距離を歩く。ギリギリ歩いて行ける範囲と言っても過言ではない感じ。だから少し歩くと周囲の生徒はまばらになり、ついには私と兼田君だけになった。まぁ、今私の地域から通っているのは私と奏多だけだからね、当然なんだけど。

 二人きりになると兼田君が少し落ち着かない様子を見せ始めた。私はその意味を察したので、右手の甲を軽く彼の左の手首にぶつけてみた。兼田君は「あ」と一言漏らし、それから右手で少し頭を掻くと、「手、繋いでもいい?」と切り出した。私は自分から仕掛けたくせに照れ臭くなりながら「いいよ」と返した。だって、本当に照れ臭かったんだよ。

 手を繋ぎながら、兼田君を上弦塚の秘密基地へ案内する。

「あのすっごい大きい木の所だよ」

 私がそう指を差すと、兼田君は驚いた様子を見せた。

「え、すご。あれ樹齢何年なんだろう」

「さぁ、300年くらいはいってるらしいよ」

 ドキドキと緊張は、物珍しそうに目を輝かせる兼田君と一緒にいたら徐々にワクワクのような高鳴りに姿を変えた。

 プレハブ小屋に到着すると、早速中へ入ってみる。ゴールデンウィークに奏多が来たと言っていたから、そのお陰だろうか。4月に奏多と来た以来だけど、思ったよりも埃の臭いはしないし、綺麗になっている。室内の折り畳みの机、パイプ椅子、朽ちた箒。奏多と二人で持ち込んだランタンとマッチが机の上に無造作に置かれていた。

 この殺風景な部屋で、二人で色々な話をしていた。小学生の頃はぬいぐるみやおもちゃも持ち込んでいたけれど、中学生になってからはそれが漫画になって、やがて私達はここから離れていった。確かきっかけは奏多の家が新築になって、奏多の部屋にエアコンが入ったことだった。快適な方を自然に選んだ。でも、どこかで二人ともこのプレハブ小屋のことは気にしていて、それこそがゴールデンウィークの奏多の行動だったり、今日の私の行動に繋がっている事は言うまでもなかった。

 向かい合ってパイプ椅子に座った私と兼田君。コンビニで買ったお菓子を広げながら、なんだかこの空間に兼田君がいるなんて不思議だな、なんて思った。

「ここは友達と一緒に使っていたんだっけ?」

「うん、尾上奏多っていう二つ隣のクラスの子、知ってるかな?」

「ああ、尾上さん……って、あの尾上さん?」

 目を丸くする兼田君。

 兼田君がこういう反応をするのも無理はない。奏多は不思議な意味で、学年内の有名人だからだ。友達が一人もいなくて、だけどいつも堂々としていて、更にスラッとしていて、長い髪をなびかせながら歩く美しい姿や、容姿が端麗なことから一部の男子の間では奏多は『氷の女王』などと呼ばれているらしい。

「千聖と尾上さんって幼馴染みだったんだ……知らなかった」

「うん、学校の誰も知らないと思う」

 入学してすぐ兼田君と付き合い始めて、それからすぐ奏多が素っ気なくなったから学校中の誰も知らなくても当然だろう。その経緯を思い出して、私は少し俯く。

「まぁ、なんか私嫌われちゃったみたいなんだけどね。でも奏多はとってもいい子だよ」

「そっか、意外っちゃ意外だけど、尾上さんの横に千聖がいるとなんかしっくりくるかもね。いや、あんま適当なこと言えないけど」

「ふふ、ありがとうね、兼田君」

 それからは何気ない日常の会話をした。兼田君と話していると楽しくてついつい時間を忘れてしまう。何気なくランタンを点けて、「ランタンの灯りってなんとなく落ち着くね」なんて言いながら、暗くなってもお喋りをしていた。どこかで、帰らなきゃなとか考えたけど、この楽しい時間が終わって欲しくなくて、ついつい二人とも口を止めることをしなかった。

 でも、いよいよ19時を回った頃、沈黙ができた時。

 兼田君がランタンの灯りせいか、室内の暑さのせいか、真っ赤な顔をしながら、言った。

「千聖、隣に……おいで」

 本当は兼田君が真っ赤な顔をしている意味なんてわかっているけど。

 私は兼田君の横にパイプ椅子を持って行って、何も知らないふりをしながら。

「あはは、どしたの」

 と、シラを切って笑いかけた。

 兼田君の腕が背中に回ってきて、私はギュッと強く抱きしめられた。

「…………」

「……っ」

 私の呼吸を聞いてなのか、兼田君が腕を緩めた。

「ご、ごめん、苦しかった?」

「ううん、あついっていうか……あったかいなって」

「千聖」

 少し腕の力が強くなる。

「千聖の秘密。もう一つ……貰っても、いい?」

「その言い方は……本当によくわかんない」

 お互い、少し荒い呼吸なのは色々なことを察しているせいだ。

「カッコつけたつもりだったんだけどな」

「ふふっ」

 一度腕がほどかれ、私達は見つめ合う。

「千聖、触ってもいい?」

「……うん、いいよ」

 私は俯くように頷いた。

 この私の決断がこの先に何をもたらすかも知らなかったし、知る由も無かった。ただ、なんとなくそうなるのが自然で、私はこの決断を後悔する事は無いだろう。そういった漠然とした自信だけがあった。


*****


 兼田君との初めての情事が終わり、しばらく微睡み、幸福感を体いっぱいに溜め込んだ。多少の痛みはあったけれど、彼とのこれからの事を思えば私は簡単に多幸感に包まれる事ができた。

 そしてコンビニの袋に、隠すようにティシュに包んだ使用済みの避妊具を突っ込み、着衣を整えた私達はプレハブを後にした。

 帰り道を手を繋いで歩く。そして最後にバス停で。

「ここからバスが出るから、それで家の近くまで帰れると思う」

 私がそう案内すると、兼田君は静かに私の目を見つめてきた。

「千聖。今日は本当にありがとう。最高の誕生日だったよ」

「ううん、感謝するのはこっちの方。これからも隣にいさせて」

「勿論、大事にする。絶対」

 そんな歯の浮くような甘い会話を終えようとしていた時、着信がきた。お母さんだった。

「もしもし、今バス停。もうすぐ着くよ」

 心配しての電話だろうと先回りして回答をする。しかし、お母さんは少し様子が違った。

『千聖、いい? 落ち着いて聞いて。そして、この電話が終わったらまっすぐ家に帰って来なさい』

「ちょっと、どうしたの?」

 兼田君が心配そうにこちらを見ている。それを横目に見ながら、お母さんの次の言葉を待つ。

『いい、奏多ちゃんがコンビニに行くって言っていなくなった。千聖、いい? まっすぐ帰って来なさい。何があるかわからないから友達と一緒なら一緒に帰って来なさい。お母さんが友達は送ってあげるから』

「え?」

『いい、絶対まっすぐ帰って来るのよ。お母さん、家の前で待っているから』

 電話は切れた。

 動揺しながら、なんとか兼田君に説明すると、彼は私の手を握って落ち着いた様子で「帰ろう。送るよ」と言ってくれた。

 奏多が? 奏多がこんな時間にコンビニ行く時点で信じがたい事だった。あの子は家にいればずっとギターばかり弾いているような子だ。何が起こってしまったんだろう。

 涙が溢れそうになりながら、兼田君に手を引かれる。

 足元の視界が、見上げると遠くの街灯がゆらゆらと歪む。涙が目に溜まっていたことに気付いて慌てて手首で目を拭う。

 家に着くと、お母さんが私を抱きしめてくれた。

 そしてお母さんは居心地悪そうにしている兼田君に「ありがとうね、千聖を守ってくれて」とニッコリ笑った。兼田君はやけにかしこまった様子でお母さんに頭を下げた。

「奏多は?」

 私がお母さんに食いつくように問うと、お母さんは「今奏多ちゃんの両親が警察に相談してる。”大丈夫”って、祈ってましょう」と言った。

 兼田君も連れて家に入って、冷たい麦茶を飲んでひとまず落ち着く。お母さんがリビングの椅子に並んで座る私と兼田君を交互に見た。

「今日は二人一緒にいたのね。その様子だと奏多ちゃんのことは……」

「うん……奏多とは今日は一緒じゃない」

 お母さんが優しい表情で頷いた。

「私もね、ビックリしたのよ。いきなり加奈子さんから電話が来て、うちの店に奏多ちゃんが来ていないかって聞かれてね」

 加奈子さんとは奏多のお母さんのことだ。お母さんは続ける。

「でね、加奈子さんったらその後に『千聖ちゃんは大丈夫?』なんて言って、うちの子の心配してくれるのよ。本当、どこまでも人がいいんだから」

 奏多ママはそういう人だ。とても強い人。

「で、不審者の線も捨て切れないからあなた達二人を早く帰らせたってわけ。そっちの兼田君はお家どこかな? もうバスの最終も終わってるし送っていくわよ」

 兼田君はまた深々と頭を下げた。

 兼田君とお母さん二人きりというのもどうも妙なので、私も兼田君を送る車に同乗することにした。車内は奏多の事件の最中ということもあり、変な緊張感が漂っていた。お母さんはそんな空気をなんとかしようと思っているのか、本当に聞きたいのかよくわからないことを言い出した。

「二人はいつから付き合ってるの?」

「お母さん、ごめん。本当はこんな形で会わせるつもりじゃなかったんだけど」

「い、つ、か、ら?」

「……3ヶ月前」

「3ヶ月」とオウム返しし、お母さんは何かを思う風に口を曲げている。こういう時のお母さんは何かを言おうとして我慢している。私は知っている。

 でも、今日は聞かないでおくことにした。聞いても私にはどうしようもない話のように思われた。

 そのまま、何を言えばいいのかわからず口を噤んでいる兼田君の家に到着した。彼は降りる前に「尾上さんのこと、俺も”大丈夫”だって祈ってます。俺にできる事があったらなんでも言ってください」とやっと発言した。彼の精一杯をふんわりと受け取るように、お母さんは優しく微笑んだ。

 兼田君を降ろして家に帰る道中、お母さんは「いい子で安心した」と漏らした。


 そして次の日の朝。終業式の日。7月23日。

 本来なら明日から始まる夏休みに浮き足立つのが自然なんだろうけど、とてもそういう気分ではいられなかった。奏多は……大丈夫なんだろうか。カーテンを開いて朝の光を浴びる。今日もとても暑くなりそうな予感がするような強い日差しが、寝巻きのTシャツから伸びた腕に刺さる。今はそれすらも私の気分を落ち込ませた。

 すると窓から、普段は誰も通らない朝の田舎道を自転車に乗った誰かが通って来るのが見えた。あのスラッとしたシルエットと長い黒髪は……間違いない。奏多だ。私は慌てて、寝巻きのまま家の外に飛び出した。

「奏多!」

 私は叫びながら奏多の元へ走って行った。

 奏多はキョトンとした顔で自転車を停め、随分久しぶりであるような感じで私の顔を見た。

「え、千聖?」

「え、じゃない! めっちゃめっちゃ、心配したんだから!」

 思わずこみ上げる涙が止められなくなった私は、そのまま奏多を抱きしめた。

「怖かった、奏多がいなくなったらどうしようって……うぅ」

「千聖……」

 奏多はやっと帰ってきたという実感が湧いたのか、少し涙声になりながら私の背中に腕を回してきた。

「詳しくは話したくなったら話せばいいから、今は家に帰ろ、奏多。加奈子さんもすごい心配してたんだよ」

「うん。ありがとね、千聖」

 何があったかは知らないけれど、狐に包まれたようにずっとポカンとしている奏多は少し危なっかしかったので、家まで送ることにした。徒歩3分もかからないところだけれど。

「小学校から続いてる奏多の皆勤賞も、1学期の終業式で途切れるかな?」

「あーそっかぁ! ヤバいー。今からでも学校行こうかな」

 最近の素っ気なさは何だったのか、あまりにもいつも通りの奏多の返答に私は内心驚いていた。

「今は無理しないで休んだ方がいいよ。まぁ私が代わりに出ておくよ」

「クラス別じゃ影武者もできないじゃん」

「そういう方向性かよ。気持ち的なものだって」

 久しぶりに二人で笑い合うと、これまでのギクシャクした空気は何だったんだろうと、不思議な気持ちになった。結局タイミングと、お互いの少しの勇気の問題だったのかな。今は奏多もイレギュラーな状況だからまだ何とも言えない部分が大きいか。

 家まで奏多を送り届け、私も自分の家に帰って兼田君やお母さんに奏多のことを報告しておいた。兼田君はとても喜んでいたし、お母さんも言わずもがな、とてもホっとした様子だった。

 学校に行くと、拍子抜けするほどいつも通りの日常が待っていた。

 そうか、ここにいる人達は誰一人奏多の事件のことも、奏多がどんな子も知らないんだ。

 終業式を午前で終えて、同級生といつもよりちょっといいカフェで1学期お疲れ様会と、夏休みの予定を組む相談をしてから帰った。まだ14時半。少し早く離脱して帰ってきたのには理由があった。私は鞄を部屋に置いてTシャツとショートパンツに着替えると、カフェでテイクアウトしたデザートを持って奏多の家に行った。

 セミの大合唱が響き渡る集落の神社を通り過ぎて、村の外れにある奏多の大きな家に着くと、インターホンを押し応答を待った。

 加奈子さんが出てくるかな、と思っていたら、意外にも奏多がケロっとした顔で出てきた。

「あ、千聖。どしたのさ」

「ちょっと奏多、起きてて大丈夫なの?」

「いやぁ、なんか目が冴えちゃってさ。ギター弾いてた」

 あまりにも普通な調子でそう言うと、奏多はギターを弾くそぶりをして見せた。

「そっか。まぁ大丈夫ならいいけどさぁ。あ、これお見舞い。冷蔵庫で冷やして食べて」

「カフェスイーツ!? すごー千聖、お洒落な女子高生って感じだ」

「私も初めて行ったんだけどね。今度奏多も一緒に行こうよ」

「え、カフェって怖くない?」

 『怖い』と言う奏多の気持ちはわからなくはなかった。なんだかんだわからない環境、知らないところは行くのに勇気が要る。それもカフェなんてお洒落空間、田舎出身の私達はこれまでの人生で行ったこともないし縁もないところだ。

「案外大丈夫。聞けば店員さん色々教えてくれるし」

「んー、じゃあ行く」

 私達は笑い合って、「家に寄ってく?」と言う奏多に対し「いや休むの邪魔するわけにはいかないし」と言って奏多の家を出た。「ちゃんと休むんだよ!?」と念を押して。


*****


 それからの数日は主に両親が経営しているコンビニのバイトをして暮らしていた。その他には早速だけど一回だけ兼田君と電車に乗って繁華街に遊びに行った。そこで奏多とのことを話すと、彼はとても安心した様子で「2学期には尾上さんと普通に一緒にいられるといいね」と言ってくれた。

 だが、そんな日々は長くは続かなかった。7月26日。夏休みが始まってほんの数日。奏多から着信が入る。彼女はやけに落ち着いた声で「家に来て欲しい」と言った。不思議に思いながら奏多の家に行くと、部屋の様子は変わらず、ギターがアコギとエレキ1本ずつ置いてあって、それを囲むように楽譜が転がり、奏多の部屋だなぁという感じだった。

「今日もデラデラ暑いね〜。で、どうしたのさ、奏多」

 お茶を持ってきた奏多にそう問いかけると、奏多はこの間の元気そうな感じはどこへやら、神妙な面持ちをしていた。

「千聖。これから私が言うことを茶化さずに聞いて欲しい」

「うん」

 冷たい水出し緑茶に口を付けながら少し緊張して奏多の言葉を待つ。

「千聖。貴女はあと三日で……7月29日に死ぬ。地震被害で」

 思った以上に壮大な話に、私は目を丸くした。

「え」

 奏多はあくまで冷静な調子だった。それが逆に奇妙さを助長していて、私はいまいち話が入って来なかった。奏多は続ける。

「信じられないのも無理ないよね。だから私がこう言う根拠を話すから、どうか、千聖は私の言うことを信じて、私の言う通りにして欲しい」

 頷くと、奏多は静かに語り始めた。

「私、死んだの。行方不明になったあの夜に、深い側溝に落ちて頭をぶつけて。そこで死神に出会って、半死神として生き返った。半死神っていうのは死神の見習いみたいなもので……」

 私の頭の中で奏多の言葉がグルグル回る。奏多が、死んでる? それじゃあ今の奏多は何? 半死神って、何のことを言っているの? ゲームや漫画の話じゃないよね。現実……嘘でしょう?

「1週間死神としての仕事をして、一人の魂を回収すれば、人間もしくは死神として蘇ることができるっていう仕組みの救済措置で……千聖、大丈夫?」

「だ、大丈夫かもしれない。多分。だから続けて」

 本当は全然大丈夫なんかじゃない。

「そう、それで半死神として生き返ったんだけど、私の担当官の死神が教えてくれたの。千聖が死ぬって……その時の千聖の魂を回収すれば、私の魂が蘇ることを許されるって」

「え、ちょっと待ってちょっと待って。私が死ぬと、死んだはずの奏多が蘇る? の?」

「そう……なるね」

 奏多は話し終えたのか、嫌な沈黙が部屋に流れた。

 どこから信じればいいかわからないけれど、奏多の表情を察するに、全部信じて欲しいという様子なのは明らかだった。それはあまりにも現実離れしているし、こんなことは考えたくもいないけれど、奏多は行方不明になった日に何かがあって、少し錯乱してしまっているのかも知れない。それとも、いや、事実だなんて到底受け入れられない。様々な憶測や、願いに似た考えが頭の中を交錯する。

 ふと気づくと、私は自分の手がうっすら冷えているのを感じた。緊張しているんだ、とその時やっと気付いた。いつもと違う調子の真剣な奏多に、そのあまりにも突拍子の無い恐ろしい予言に、緊張しているんだ。手は冷えているのに汗をかいていて、やたら気持ち悪かった。でも、ここで私が取り乱してはいけない。どうにかこの突拍子も無い空間から、確かで正しい選択肢の糸を選び取って行動しなきゃ。大事にすべきは理性? それとも奏多との信頼? それとも……。

「ち、ちなみに……奏多は私がどうすればいいと思ってる、の?」

 そうだ、そこを聞いてからでないと、状況の冷静な判別なんてできない。正直今だって自分が冷静でいられているなんて思えないけど。それを装うことで見えるものもあるかも知れないから。フリでも、取り乱さずにいなきゃ。

 一方の奏多の方はもう覚悟を決めているのか、私の言葉を静かに噛み砕いて飲み込んだようだった。

「まず、この村は私の担当官の死神が管轄している地域なのね。死神は神様のルールに従って地域を分けて死者の魂の回収を行っているの。だから、逃げるしかないと思う。エ……っと、担当官の死神の目の届かないところまで。できれば地震の被害を受けないところまで」

「ほ、ほう……」

 顎に指をあててわかっているようなわかっていないような、曖昧なつぶやきを漏らした。まぁ、それで運命を回避できるなら……いいのか?

「ちなみに、私の魂を回収できなかったら、奏多はどうなっちゃうの?」

「私は死ぬ……ね」

「ま、まぁ私はもう失った命だから、別にいいんだよ」と奏多は手を顔の前でひらひらしているけれど、私はちょっとまた頭の中の情報処理が追いつかなくなって「え、え?」とか、「ちょっと待ってね」とか言いながら頭を抱えた。奏多はもう全てを話し終えたのか何も言わずスッと私の右肩辺りを見ている。気が付いたら奏多の話を信じるか信じないかとか、その次元の話を通り越していて、ひたすら頭の中で奏多が見聞きした物語めいた話を映像、もしくは紙芝居で、とにかく再生して理解しようと試みていた。

 そうして一通り事の運びが解った私は、奏多の目を見た。

「ひょっとしてこれ、究極の選択って、ヤツ?」

 奏多は頷いた。

「どっちかが助かったら、どのみちどっちかが死んじゃうって話?」

 肯定。

「二人で助かってハッピーエンドは……」

 否定。

 私は声とも言い難い唸りを上げながら頭を抱えて俯いた。

「奏多ぁ」

「うん、千聖」

 奏多の声は私の気持ちを察しようとしてくれているような、そんな優しいトーンだった。

「私は、そりゃ死にたくないよ。だって、彼氏できてこれから楽しいことがいっぱいいっぱい待ってて。やっと奏多とも仲直りっていうか、普通に話せるようになってさぁ。死にたくない。でも、でもさ……こんな形で私の運命を曲げて、奏多が死ぬことになっても、私は絶対この先の人生幸せに生きられないじゃん……! でも、それって、きっと奏多も同じこと思ってくれてると思うの。だから、だからっ……」

 私は頭を振って景色を揺らしてみた。でも目の前の景色は変わらないし、揺らした頭から何かしらの妙案がガラガラポンと出てくる訳でもなかった。

 いよいよ頭の処理が限界に達したのか、私は気が付くと嗚咽を漏らしていた。

 奏多は私の背中をさすりながら、「うん、私も同じ気持ちなんだよ」と言葉をかけてくれた。

「大丈夫、絶対に私が千聖を助ける。だから私の言う通りに逃げて欲しい。最悪私は消えちゃうかも知れない。でもお願いだから悔やまないで」

「どうしよう、奏多。私、どうしたら……」

「ついて来て、私に」

 奏多に手を引かれて、私は立ち上がった。奏多の目を見ると、これまで感じたこともないほど強い眼差しで、彼女は私の目を捉えていた。

「千聖は絶対に、私が助ける」


 家に帰って、奏多と相談した内容を掻い摘んでお母さんに話し、三泊四日の旅の許可をもらった。その時、お母さんはとても安堵した様子だった。

「よかった、奏多ちゃんと仲直りできたのね」

「別に喧嘩もしてないけど?」

「いやさ、なんか奏多ちゃんが元気無いって、加奈子さんに相談されてたから。4月くらいから」

「そう……だったんだ」と私は漏らし、奏多がいかに今頑張って私との関係を繋いでいるのかを実感した。


*****


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