第2話

 彼女の名前は久川千秋といった。私と同じ高校二年生で、近くの高校に通っているという。そして彼女も私と同じく、学校の授業が終わるとすぐに図書館に来ているのだそうだ。

後ろめたさの欠片を微塵も感じさせずに「だってその方が楽しいじゃない?」と笑う彼女は素敵だった。

 初めはおどおどしていた私だったけれど、彼女の優しい表情と、柔らかく包み込むような口調のお陰で、少しずつ緊張を和らげることが出来ていった。そうすると私にとって彼女と話すのは非常に楽しい時間だった。久しぶりに会話に意志の糸が織り込まれていく快楽を感じた気分だった。「誰かと話す」ということは私の中では最早、重い鎖で繋がれるような、窮屈で、重苦しいイメージが定着していたのに、久川千秋はその熱で鉄を溶かし、自由に私を連れ出してくれた。

「岩瀬さんは本が好きなんだね」

 久川さんの問いかけにはどんな答えでも受けとめてくれるような包容力が感じられた。

「うん」私はついさっき手渡された本をパラパラとめくった。

「私ってなんだか、人と話すのが上手くないんだけど、本を読むとお話自身が私に語りかけてくれるようで、心が和らぐ感じがするんだ」

私と久川さんの他に談話室の中に人はいなかった。休日は小さな子どもが積木なんかで遊んでいたと思うが、平日は空いているのかもしれない。談話室は一面にクリーム色のカーペットが敷かれ、隅には小さな本棚と、それと今私たちが座っているのと同じソファーがいくつか置いてある。図書館内でゆったり会話ができるスペースだ。東側の壁一面は窓ガラスになっており、玄関横の駐車場が見えた。人気は相変わらず少なかったが、水たまりは絶えず賑やかに打ちつけられていた。

「久川さんは?」

 私は外の様子を眺めた後、同じ方を見ていた彼女に訊いた。彼女は考える素振りをして、ひとことひとことを紡いだ。

「そうだね。……なんていうかな、私が重ね塗りされていくような感じがするんだよね。ちっぽけな自分の影が厚くなっていくっていうか。物語が私と混ざり合って一つになってくる感覚があるんだよね。登場人物も世界観も、空気さえもね。だから、本を読み終わった後は今までの景色が全然違って見えたりして。それがすごく好きなんだ」

 久川さんの言うことは直接胸に響いてきた。それはいつも私が胸に仕舞いこんでいることとほとんど同じだったからだ。むしろ私が言葉にできないようなことまで代わりに言ってくれているようで、なんだか私が喋っている気持ちになった。


 その日を境に、図書館に行くのが一層楽しみになった。どうせ学校に行っても夏希しか話す相手はいないし、その夏希ですら最近はクラスの女子グループに入って楽しそうにしている。私はもう学校に期待を抱かなくなっていた。最早、学校での私の居場所が消えていくことも実感できたが、それに対してどう思うこともなくなった。周りとのコミュニケーションを取ろうとしない者は爪弾きにされる。思ってみれば浅ましいことだ。人間は誰でも自由に振舞っていいはずなのに、どうしても内輪をつくりたがる。それがたとえ偽りと欺瞞で塗り固められた内実空虚なものであったとしても。おそらく渦中にいると目も耳も知らないうちに汚されて、自分たちが何をやってるか分からなくなっているのだろう。それに気づいているのはおそらくそこから一人抜け出た私だけなのだ。そう思うと私は学校で一人でも全然平気だったし、むしろそれが誇らしくも思えた。

教室では刃物が刺すような視線を背中に感じ、張り巡らされた会話の網の糸口は私からは遠くたゆたって、伸ばした手にその先が触れることもない。以前の私であれば、自己嫌悪に駆られながらも偽りの輪に手を伸ばし、それに届かなくても諦めきれずにいただろう。傷つきながらもその先の光を求めていただろう。味方がいないのは怖いものなんだ。しかし今の私の心が不安に揺さぶられることはなかった。昔みたいに一々自分を責める気持ちにもならない。私は私を現実に繋ぎとめてくれる碇を見つけたのだ。一筋の眩い光明を。実際にそれを信じていれば、学校にいる間、心を殺しておくことなど簡単なことだった。どれだけつらいことでも、その後に我慢した分を埋め合わせるだけの、いやそれ以上の対価が保障されていれば、決して出来ないことではない。人間というものは敬虔な生き物なのだ。

 見上げる空は依然として誰かの悲しみが詰まったように薄暗く、陰鬱そうにしていたけれど、私にとっては逆に都合がよかった。空が暗いほど、雨が激しいほど、久川さん――千秋と話すときの談話室が外界とは切り離された小部屋に思えて胸を昂らせた。それこそ物語の世界にいつしか入り込んでいるかのように。

彼女といるとき、私は幸福に包まれていた。学校で口を噤み、気持ちを抑えている分、彼女には全てを打ち明け、心地よい会話をした。

 千秋は私に色んな話をしてくれた。彼女の声は美しく、私の心に響いてくるような透き通った質感を持っていた。それは夏に轟く蝉の鳴き声とは違い、土に染み込む雨の滴りのように、静かに、でも確かに私に語りかけてきた。私の現実は彼女に移っていっていた。

「瑞香は好きな人はいるの?」

千秋はガラス越しの雨音に耳を澄ませながら訊いた。今日もしとしとと雨は降り続けていた。梅雨明けにはもう少しかかるそうだ。

「うーん、いないなあ」

「そうなの? それは残念」

「どうして」

 窓のそばにいると室内で除湿機が稼働しているにもかかわらず、強い湿気が鼻をついた。

「だって好きな人がいると、世界が変わるじゃない」

「それってそんなにすごいこと?」

 私は本当に好きな人なんていたことがなかった。というのも、周りの人々は私にとっていつ危害になるか分からない存在でしかなく、怯える対象ではあれ親密さを感じることは滅多になかったからだ。もし親密さを感じることがあったとしても、それはその関係の維持への強迫観念によって苦痛へとすぐに変化してしまうのだ。ただ、私はそれをわざわざ口に出すことはなかった。彼女の、遠く幻想郷を眺めるような目つきや何かに耽溺したような表情を見ると、そんな醒めたことを言う気分はたちまちに消えてしまうのだ。私はこういうとき、彼女の横顔を見てうっとりした気分に浸るのが好きだった。

「好きな人がいるっていいものなんだよ。自分の中に『あれ、好きかも』とか思った時点で、それはもう一気に世界が奇蹟の海になってしまうの。その波がいたるところでうねってあなたに襲いかかってくる。そうするとね、喜びも悲しみもそれまでよりもずっと色鮮やかに立ち現われてくるようになるの。喜びは一瞬一瞬が目に焼きつくほどきらびやかに躍動する波飛沫となってあなたの前に現れるし、悲しみはこの身を切り裂いてしまいたくなるような失意の波浪となってあなたを飲み込むわ」

 彼女の声はその素晴らしさを充分に含んでいたが、私はこれについてばかりはいまいち理解しかねていた。それは私が一度としてそういったことを体感したことがなかったからかもしれなかった。彼女の言う奇蹟は私にはイメージすることすらままならなかった。

 それを彼女も見かねたのかもしれない。

「あなたには時間があるのだから必死に恋愛をした方が良いわ。そしたらもっと自由に、手首の錠を外したように生きられるはず」

「それは千秋だって同じことでしょう」

 私が言うと、彼女は窓を見つめていた顔をこちらに向けた。

「いえ、時間はいつでも不平等だから。原理は見る者によってその色を変えるものなんだよ」

 彼女は時々、哲学的なことを言った。普通であれば笑っちゃうようなそんなことも彼女が言うと不思議と妙にしっくりきた。だからこのときもなんとなく変に納得はしてしまうのだった。


 彼女と話して次第に気づいたことといえば、私の身体にべたべた貼りついた垢が浮かんでよく目につくようになったことだ。

私は普段悪意を周りに感じさせないように本心を押し殺しているし、あらゆる人々がそうだと思っていた。みんな自分しか覗かない心の内では私利私欲にまみれた薄汚い気持ちを丁寧に育んでいるものだと。だから私は初めのころ、彼女が倫理的な装いをしているだけなのかとひそかに疑っていた時期があった。それほどまでに彼女は、私が人間につきものだと思っていた薄汚さから疎遠であるように見えたのだ。しかし彼女との会話を重ねるごとに、彼女への経験値を高めるごとにそれは誤りだということに気づいてきた。彼女はどこまでも純粋で清純な心の持ち主だった。自己中心的な行為や言動も、どこか薄布に包まれたようで他人を傷つけるような鋭さは持ち合わせていなかった。またそのことは彼女の信条にも重なっているようだった。私が弱気になっているときは優しく励ましてくれたが、私が学校や家庭での不満を漏らすと彼女は少し諌めるような物言いをした。私はそれでも彼女の両翼の羽が一枚一枚ふわりと剥がれていってその身が顕わになっていくのに愉しみを感じていた。彼女の本心が私の前に不純物がない一糸まとわぬ姿で現れてくるのだ。儚く、弱々しい、生まれたばかりの姿で。私はそれに非常にと言っていいほどに希望を感じていた。

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