第30話 忍びの終焉

「――――こたびは伊賀組の誇りをかけた戦である」

 方丈斎は集められた精鋭たちを前に、ぽつりとつぶやくように告げた。しかしその言葉は凍てついた冬の木枯らしよりも冷たく鋭利であった。

 その声に、覇気に、何かを感じた者たちが思わず顔を上げる。かつて全く同じセリフを聞いたことがある者たちだった。

 天正九年九月二十七日、織田信長の大侵攻を受けた第二次伊賀の乱は最初から勝ち目などどこにもなかった。信じていた仲間は裏切り、第一次伊賀の乱とは比べ物にならない大兵力が投入され、蒲生氏郷や明智光秀のような煌びやかな将帥たちが旗を連ねて殺到としている。

 降伏するか、それがいやなら逃げるべきであった。しかし伊賀忍びたちは敢然として勝ち目のない戦に身を投じたのである。

 結果は悲惨なものだった。指揮官が織田信雄であった第一次伊賀の乱と異なり信長が本腰をあげた第二次伊賀の乱は凄惨な殲滅戦となった。非戦闘員を含め伊賀の人口が四割減となるという恐ろしいもので、さらに大半の住人は他国へと逃げ、一時的に伊賀の国は人口の空白地帯になったほどであった。

 そんなときに、若き忍びのまとめ役であった方丈斎が同じ言葉を語っていた。

「忍びは忍ぶものである。忍びは心に刃を持つものである。世の影に潜み飽くなき執念をもって闇から敵の命を奪う者である。日の当たる世からは決して褒められることも敬われることもない外道の者である。ではその忍びに誇りは必要ないか? 断じて否!」

 光あるところ必ず影が必要になる。そして影には光のように報われることがないからこそ、より強固な誇りが必要となるのである。その覚悟なしに影に甘んじて生きていくことは難しい。

 生きていくために信長へと内通した福地、耳須の二家のほうが選択としては正しいのかもしれないが、両家とも乱の以後は武家として忍びたることを捨てている。

 誇りだけが忍びを存続させてきたと方丈斎は信じていた。その思いは、あの第二次天正伊賀の乱から変わることなく彼の胸のなかで生き続けている。そんな方丈斎の熱い思いは、ともに影の世を生き抜いてきた古い忍びたちの胸を打った。

「懐かしきかな。天魔信長何するものぞ、と血が騒いだ時代を思い出しましたぞ」

「勝敗は論ずるに及ばず!」

「我ら伊賀忍びの誇りのために死にまする!」

 涙ながらに老忍びたちが叫ぶ。

 勝てるから戦うのではない。思えば第二次伊賀の乱において信長に勝つ可能性など、信長を暗殺するくらいしか残されていなかった。当時信長は忍びを雇ってはいなかったが、忍びの危険性については熟知していた。だからこそ忍びを敵視していたともいえる。戦えば敗北することなど、方丈斎たち若き忍びにも十分すぎるほどわかっていた。

 ――――それでも彼らは戦った。彼らが忍びであり続けるためには戦うしか法がなかった。

 この太平の世に生き場を失くしていた戦国の忍びが今こそ蘇ろうとしていた。

「伍平」

「はっ」

「一衆を任せる。佐助、勘蔵、六郎を率いよ」

「ははっ!」

 伍平はうれしそうに方丈斎へ向かって叩頭した。

「孫六」

「はっ」

「勝郎、太助、小六を率いて大善を助けよ」

「ははっ!」

「大善は岡定俊と配下の甲賀衆を頼む」

「ふん、貴様はどうするというのだ? 方丈斎」

「知れたこと」

 大善に問われ、ししし、と歯と歯の隙間から笑い声を漏らして方丈斎は肩を揺らした。

「俺は一人であの鵜飼藤助と戦わせてもらおう」

「やはりか」

 方丈斎だけが誰も率いることなく一人で戦う、となればそれ以外の理由は考えられない。

「止めぬのか?」

「止めてきくお前ではあるまい。それに、少々気になる話を聞いてな」

「ほう」

 大善ほどの古強者が気になる、と聞いて方丈斎も俄然その話に興味を抱いた。

「どうやら鵜飼藤助が後継者として手塩にかけた男が猪苗代にいるらしい。それに俺は岡定俊には因縁がある」

 第二次伊賀の乱において、伊賀北部玉滝口方面を担当したのが蒲生氏郷であり、岡定俊もまた、その軍内において先手を任されていた。大善はその玉滝口から佐那具城へ至る山道の守備隊に組み込まれており、蒲生勢に散々に打ち負かされたという記憶があった。

「――――死を尊び、死を華とするのが武士ならば、忍びは誇りとともに死してもお役目を果たすことが本懐。されど今回ばかりはお役目より解き放たれ、我らが誇りのために戦い、忍びの華咲かせようぞ」

「おう!」

 いつしか本来寡黙で感情を表に出さないはずの忍びたちが泣いていた。ほとんど声を出さずに静かに彼らにもわかっている。太平の世に忍びたちは生きていけない。自分たちは捨てられようとしているのであり、誇りとともに死ぬことだけが花道なのだ、と。

 すでに九月も半ばを過ぎ、季節は秋の匂いが深くなろうとしていた。心地よい風に叢雲が割れ、満月が穏やかな哀しい光を放っていた。



 そんな伊賀組の集団が日光街道を北上していることを掴んだ横山隼人は、予想をはるかに超える伊賀の顔ぶれに驚愕したといってよい。そもそも彼らの情報を掴めたこと自体が奇跡のようなものであり、すでに配下の忍び二人が倒されていた。

「まさかそこまで、伊賀組は戦でもするつもりか?」

「戦をするつもりなのであろうよ」

 竹永兼次は混乱する隼人を揶揄するように軽く嗤った。組頭を含む伊賀組の実力者が勢ぞろいの感がある。もちろんそれは過去の栄光ではない。現時点での実力であった。

「やはり百万両が本当にあるということか?」

「それだけなら何も組頭が出張る必要はあるまい」

 百万両という隠し財産があるからといって、組頭まで投入して他国へ潜入するのはあまりに危険が高すぎる。そもそもこの太平の世では忍びは決して表に出てはならないのであって、戦国のように戦を影から左右するような働きは今は認められていないのである。伊賀組は歴とした幕臣であり組頭ともなれば相当に高位の御家人であった。そんな立場の人間が他国で戦って素性を明らかにされるようなことがあれば、幕府は天下の面目を失うことになるだろう。

「ではいったい何のために?」

「わからんか。そうか、わからんか……」

 やはりというべきか、新しい時代の忍び――戦うことに誇りを抱かぬ隠密である隼人には古い伊賀忍びが求めているものがわからないのだ。そのことが兼次にはひどくむなしかった。

 同じむなしさを古い伊賀忍びたちも感じているに違いない。となればむしろ隼人よりも伊賀忍びに親近感を覚える兼次である。大阪の陣よりわずか八年、戦のない世とはかくも早く人から戦うことを忘れさせるものか。

 剣士は道場で竹刀だけを振るい、隠密が密かに闇に隠れて秘密を奪う。そこに死という緊張感もなければ終着点もない。そんな時代がやってきていた。

「伊賀組の老人たちは死ぬつもりなのだよ。百万両があろうがあるまいが、戦って誇りある死を迎えたいのだ」

「そ、そんな馬鹿な! そんなことをすれば伊賀忍びの将来はどうなる?」

「もう忍びの世ではないということだ。どうやら黒脛巾組にはまだまだ将来がありそうだがな」

 暗に黒脛巾組は伊賀組のような闇の戦人ではない、と兼次は言っているのだが、隼人はそれに気づいていないようであった。

「なんと愚かな……しかしこれは困ったぞ。とてもではないが我らでは太刀打ちができぬ」

 戦いを主眼に据えていないとはいえ、隼人もまた忍びである。彼我の戦力差があまりにかけ離れていることをすぐに察した。いかに人斬り兼次を擁しているとはいえ、完全に覚悟を決めた伊賀組を敵にすることは難しい。

「何を言う。俺は一人でも行くぞ」

「兼次?」

 死ににいくつもりか、と聞こうとして隼人は尋常ならざる兼次の鬼気に口を噤んだ。

 充血して見開かれた兼次の目が、どうしてお前は死なないのだ、と告げている気がした。

 冗談ではない。死んでしまっては任が果たせない。生きてこそ主君の役に立てるのだ。犬死は隼人に言わせれば唾棄すべき責任の放棄であった。

「伊賀組がやすやすと倒せるほど岡定俊という男は甘くはない。それは伊達家中のお主がよく知っているのではないか?」

「俺は伊賀組の恐ろしさも知っているがな」

「奥州は伊賀組の庭というわけではない。これが戦なら、地の利を得たほうが有利に決まっている。あくまで戦ならの話だが」

 万が一伊賀組が積極的に戦う意志がなく、手練れの忍びたちが情報収集に徹したら定俊は苦境に立たされていただろう。逃げにかかる忍びを討つのは歴戦の戦人をもってしても至難の技であった。

 しかしその恐れはほぼ皆無に近いと兼次は踏んでいる。

「正面から争う力がないことはわかっている。我らは伊賀組からしばし遅れて猪苗代に入るとしよう」

「…………異存はないがことの次第は殿に報告してからのことだ」

「勝手にしろ」

 独断専行は戦の華であったが今の世は違う。

 隠密はただ情報を集めるだけの意志のない手足と化し、それを自分の頭で考え判断する能力は必要とされなくなっていく。いや、いずれ情報を集めるのに隠密などという存在すら必要なくなっていくのだろう。

 剣士もまた存在する意味を失い、形だけの踊りとして見世物になっていくに違いなかった。

(わかりません師匠――――生きた先に何があるというのですか? 戦いのない世に誰が剣を必要としてくれるのですか?)

 兼次の胸に宗矩の言葉がのしかかる。その答えはまだ遼遠の彼方であった。

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