第17話 伊賀組と黒脛巾組

 奥州への玄関口となる白河口を過ぎると、猪苗代まではおよそ二日ほどの距離である。 

 能因法師が『都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関』と呼んだみちのくの入り口、白河は、同時に蒲生領への入り口でもあった。

 小峰城を起点として宇都宮から続いていた奥州街道は、仙道を北上して二本松方面へ向かう道と、天栄を経由して磐梯山へ向かう脇道に分かれている。

 白河城下の旅籠に、江戸からやってきたという三人の高野僧が宿泊していた。

 年のころはすでに三十を超えているであろう。修行僧としてはいささか年配の部類に入る。

 三人とも精進潔斎のため肉の落ちやすい僧にしては、なかなか良い体格に恵まれていた。とはいえ、山野で修行の日々を送る僧たちのなかには体格に恵まれた者も少なくはなかったので、少々珍しいという程度である。

「オンソワハンバシュダサラバダラマソワハンバシュドカン」

 朝のお勤めらしき真言を口ずさみ、僧たちが印を結ぶと、旅籠の主人はありがたそうに僧へ向かって手を合わせる。奥州には坂之上田村麻呂の討伐以来、弘法大師ゆかりの説話が多く真言宗の信者が多いのである。どうやら旅籠の主人もその一人であるらしかった。

 三人の僧は、まだ朝靄も晴れぬ早朝から、挨拶もそこそこに旅籠を出ると、二本松方面へと足を向けた。

 そのまま白石まで北上を続ければ、蔵王権現を祭る一大霊地である蔵王山がある。修験道者が全国各地から集まっており、この地を目指す密教僧も数多い。それを彼らはよく承知していた。

 ――彼らは方丈斎配下の伊賀組同心である。見事に僧になりきってはいるが、しなやかに発達したふくらはぎや、武器使用の要となる後背筋の盛り上がりは隠せない。

 彼ら以外にもすでに三つの衆が岩代入りしているはずである。

 衆というのは実働部隊の最小単位で、伊賀組は四つの組で構成されており、一つの組は四つの番で構成されている。さらに一つの番は四つの衆で構成されていた。最終的に会津方面に投入される予定の戦力は二つの番であり、これは方丈斎が掌握する全戦力の半数に相当した。これは他の任務に支障をきたさない限界に近い戦力であった。。

 万が一彼らを失うようなことがあれば、方丈斎は伊賀組として果たすべき任務に深刻な支障をきたすことは確実であり、すでに複数の同じ伊賀組の仲間までもが、方丈斎の行動に不審の眼差しを送っている有様であった。方丈斎が組頭のなかでも最古参であったから、今はまだ見逃されているに過ぎない。いずれ成果が出せなければ、否、出せたとしても方丈斎に追及の手が伸びるのは確実である。

 相当に危険な橋を渡っていることは方丈斎にもわかっていた。それでも、ここで手を引くという選択肢は方丈斎にはない。

 降ってわいたような百万両という途轍もない金の魔力は、忍びにとってもっとも危険な、夢、というものを方丈斎に見せてしまった。夢を見た忍びは遠からず必ず破滅する。それがわかっているのに、夢を見ている間はそれが夢であることを自覚できないのが夢のもっとも性質(たち)の悪いところであった。

「猪苗代は甲賀者の縄張りと聞く。気をゆるめるなよ」

 衆を率いる頭の男、与兵衛は訥々と誰に言うともなく呟いた。

 当年とって三十八となる与兵衛は、戦国の忍び同士の熾烈な暗闘を経験している。

 江戸青山の甲賀組はこの企みに手出しせぬよう監視されているとはいえ、蒲生家に古くから雇われている甲賀者はその指揮からは離れていると言われていた。

 忍びが己の縄張りを侵されれば、そこで戦いになる可能性は高かった。

 群れからはぐれた忍びは、根無し草の役立たずか、よほどの腕利きのいずれかである。しかし割合的には腕利きである確率は低いといえるだろう。腕利きの忍びはかずが少ないうえに、太平の世にはいささか金がかかる割に使い勝手の悪いものとなっていた。

 たかが田舎大名の雇われ忍びなど、たとえ腕利きが相手でも敵ではないと心ひそかに与兵衛は思っている。初陣で参加した北条征伐で、風魔党と戦って以来、彼らを凌ぐ忍びの集団など与兵衛は見たこともなかった。

 もう国人たちが己の所領を守るために不正規戦に備える時代は終わった。それは忍びが戦ではなく情報収集の役割しか与えられなくなったことを意味していた。武士と同じく、戦っていない忍びの技術はたちまち廃れる。地方大名お抱えの忍び集団の衰退は、与兵衛が予想したよりもずっと早かった。

 かつて伊賀としのぎを削った風魔党や武田の甲州忍びのような、一瞬のスキが命取りとなる恐るべき雄敵たち。そんな忍びはとうに死に絶えてもはやどこにも存在しないかもしれぬ、と与兵衛は思う。

 少なくとも各地での忍び働きで、与兵衛は忍び同士の戦闘で死を覚悟するほどの相手と出会ったことがなかった。今や忍びにとって、勘働きのよい関所の役人のほうが忍びよりよほど恐ろしい相手になろうとしていた。幕府という後ろ盾を得ている伊賀組ですら、元和偃武以来、忍びの腕の衰退は隠しきれないのである。

 配下の二人のうち一人は、本格的な戦闘経験のない与兵衛に言わせればひよっこであった。おそらく彼が腕を磨くべき戦はもう二度と訪れることはない。その危機感とわずかな侮蔑と憐憫が、与兵衛にそんな言葉を吐かせたのかもしれない。

 早くも気温が上がり始めていた。まだ五つ半を過ぎたばかりだというのに、強い日差しがじりじりと男たちの肌を焼いていく。

 額の汗をぬぐおうともせず、機械のように正確な速度で黙々と男たちは歩を進めた。。もとより暑さ程度で根を上げるような鍛え方はしていない。

 達者な忍びは、本気であれば一日に軽く百キロの距離を踏破する。一般にお伊勢参りなどに旅をする成人男性の平均移動距離が四十キロといわれているが、最速便の飛脚などは中継で交代しながらとはいえ一日に百八十キロを走破していたと記録が残されている。とはいえさすがに怪しまれずに街道を移動するとなると、やはり一日六十キロあたりが限界であろう。

 そんな男たちを冷ややかに見つめる目があった。

「今日は暑いな、御爺」

「あんまり水を飲むでないぞ。ゆっくり口に含ませるだけにしておけ」

 二人が腰を下ろしているのは、街道の左右に植えられた松の根元で、いかにも暑さに一休みしている旅の連れのように見える。八郎などはだらり、と素足を放り出して空を仰いでいるし、角兵衛も松の日陰で手拭いを出し首筋の汗を拭いていた。親子にしては年の離れている二人だが、互いに呼吸の合った風情を見れば、二人が家族であることを疑うものは誰もいるまい。

「――――驕っておるな」

 角兵衛は敵である伊賀者の油断とも増長ともいうべき体たらくを見て、面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 内心では激しく怒っている。

 ここまで伊賀者は――忍びは堕落したものか。

 あれでは足の運びに遊びがなさすぎる。角兵衛のような手練れはおろか、下手をすると町役人にすら見破られそうな足運びである。それに気配を読む力にもうとい。すでに角兵衛たちは宇都宮のあたりからずっと与兵衛たちを尾行(つけ)ている。にもかかわらず気がつかないどころか、自分たちが狙われているという危機感すらないように角兵衛には思われた。

 ――――もう長いこと、狩るほうの経験しかしていないのだろう。今の世には合戦をしたこともない武士や、忍びが溢れている。おそらく正体を見破られた経験さえないのかもしれぬ。そう思うと角兵衛は暗澹たる気持ちになるのだった。

 まだ自分たちが生きているうちは、忍びの技は死なないと思っていたが、予想より遥かに速い技術の衰退を角兵衛は目の当たりにした。このままではあと数十年と保たず忍びは滅びる。

「それにしても御爺、俺たちはいつまであいつらの後を尾行(つけ)ていればいいんだい?」

 最初は緊張感を覚えていた八郎も、一向に気づくそぶりのない伊賀者を追う毎日に飽きていた。あの様子では、猪苗代に着くまでずっと彼らは気づかずにいるだろう。

「そうさな…………」

 正直なところ、角兵衛はおりくと渡りをつけて指示を仰ごうと思っていたが、この体たらくをこれ以上みていることは角兵衛にとっても苦痛であった。

 角兵衛の最後の忍び働きを飾るのは、あの連中には不可能だ。ならば早く次の相手を探すほうがいい。

「矢吹の宿に着く前に、三人とも消えてもらうとするかのう……」

 いかに奥州街道といえど、宿場町を外れればそれほど人の行き来は多くはない。かといって人の目を気にせずにいられるというわけでもないが、角兵衛は白昼堂々、伊賀者を襲撃するつもりであるらしかった。



「いささか難しゅうございますな」

 二本松立石の庄屋である渡邊弥次郎兵衛は、かつての主君からの密書に目を通し、渋面をつくって首を振った。内心ではどうして今さらという思いがある。ようやく太平の世となって、暮し向きもよくなったのに、わざわざ乱を呼ぶような真似をしなくてもよいのではないか。

 もともと渡辺家は猪苗代家に代々仕えた国人であった。それが猪苗代盛国の裏切りによって伊達家の陪臣となり、関白秀吉に会津を没収された際に帰農して武士であることを止めている。

 以来、かつて武士であった顔を生かして近隣の庄屋の取りまとめなどを任されていて、暮らし向きはむしろ武士であったころより豊かであった。

 もっとも、帰農する際に主君猪苗代盛国より弥次郎兵衛は並々ならぬ世話を受けた。代々の忠誠の褒美をもらったのみならず、一朝ことあらばただちに武装してはせ参じるよう、陰扶持を与えられている。

 確かにこの陰扶持のおかげで、弥次郎兵衛は庄屋のなかでも一頭抜けた存在になりおおせたのだが――――

「今の猪苗代は先代のころの猪苗代とは大層変わっておりますので」

「何も一揆を起こせと言っているわけではないぞ?」

「あの土地では宗門の目を欺くのは容易なことではございませぬ」

「それほどか」

「はい」

 弥次郎兵衛と囲炉裏を挟んで座っている暗い目をしたやせぎすの男は、黒巾脛組の頭の一人、横山隼人その人である。彼がわざわざ自ら弥次郎兵衛のもとへ足を運んだのは、猪苗代に強い警戒感を抱いていたからだった。

 キリシタンたちの結束は固い。これはキリシタンに限ったことではなく、仏教もそうであるが、この時代の宗教組織は必ずしも信仰心だけを満たすために存在しているわけではなかった。

 彼らは知識人であり、調停者であり、いざというときの救護者でもあったのである。特に布教の熱意溢れる宣教師(パーデレ)は、布教のために数学を、農学を、建築学を、医療技術などの先進技術を吸収してそれを惜しみなく与えた。

 キリシタンが急速に日本各地に普及したのは、南蛮貿易の実利のみならず、こうした教育者として宣教師が確かな利益を庶民にもたらしたことも影響している。

 だからこそ形を変え姿を変え、キリシタンは全国各地で密かに命脈を保つことができたのである。各地に残る河童が堤防を築くのに人間に協力したという民話は、実は宣教師のトンスラと呼ばれる頭を剃った姿を暗喩していた可能性が高い。彼らは土木技術のエキスパートでもあったからである。

 しかも猪苗代城主岡定俊は筋金入りのキリシタンだ。さらに一向宗に主君を滅ぼされた定俊はそもそも仏教が嫌いである。そうなると領民はよかれあしかれ忖度を始めてしまう。

 猪苗代や会津で数々の寺院が打ち壊されているのはその表れであった。歴史はそれを断罪するかもしれないが、少なくとも定俊は領民の心を掴んでいたといえるだろう。

「……ですが、あまり深入りしなくてよければ情報は手に入ります。その程度の伝手はありますので」

「アダミという名の宣教師についてはどうだ?」

「猪苗代城のセミナリオで教鞭をとっているという話です。村に出て子供に勉強を教えたりもしているそうですな」

「…………ほう」

 興味深そうに隼人は暗い目を光らせた。顔は能面のように無表情だが、瞳の奥だけが恐ろしく強い意思を放射している。思わず弥次郎兵衛はのけぞるように腰を引いた。

「それがどうもお武家がいつも付き添っておるそうで。あの土地で余所者といえばキリシタンですが、キリシタンのフリはすぐにばれます。それがどうしてなのかは私にもわかりません」

「ふむ」

 確かにそれは厄介である。キリシタンのフリが通じないのであれば、旅人か商人に化けるしかない。もちろん向こうもそれは承知しているだろう。

 とはいえ、護衛らしき人間が武士二人だけというのは朗報である。隼人配下の黒脛巾組精鋭をもってすれば、二人の護衛などそれほど難しい障害ではない。

 この時点で隼人はまだ藤右衛門と重吉の腕を知らなかった。藤右衛門は高山右近のもとで戦を生き抜いた歴戦の戦人であり、重吉もまた中条流の剣術を修めた剣の達者である。実は隼人が考えるほどこの二人からアダミを奪うのは容易なことではなかった。

 とまれ、仮に藤右衛門と重吉の腕を知っていたとしても、隼人の考えが変わることもなかったであろう。そうした武辺を千変万化の奇襲で殺すことにこそ、忍びの神髄があり喜びがあるのだから。

「草が残っておらぬのが惜しまれるな」

 仙道の奪還を目指す政宗は、仙台に移転するにあたり将来の布石としてそれなりの草――工作員――を現地に残していた。しかし関ヶ原の戦いに前後して発生した上杉景勝との戦いにおいてほぼその全てを使い切っている。

 あのときは徳川方として東軍に属し、旧領奪回の最大の好機であったので全力を出し切ることに躊躇いはなかった。しかし目論見が潰え、こうして再び会津猪苗代を探るとなると、いかにも痛い損失であった。

「出入りの商人に伝手は?」

「あそこは蒲生が日野の領主であったころより、堺の間垣屋が幅を利かせておりまして……職人も大半は甲賀の息がかかっておりますので」

「甲賀か…………」

 数は少ないながら、猪苗代には甲賀の忍びがいる。福島をめぐる伊達と上杉の戦いにおいては軒猿と呼ばれる上杉忍びが相手であったので、隼人は直接戦ったことはない。

 戦ったことさえないという事実が、何より猪苗代の甲賀忍びが手練れであることを示していた。それはすなわち、戦えば必ず殺し、情報を持ち帰らせていないことを意味しているからだ。

「キリシタンに甲賀、いささかわが手には余る」

 隼人の言葉に弥次郎兵衛はほっと胸を撫でおろす。これで無謀な工作から逃れられたと信じたのである。

「忍びの執念を甘く見ぬ方がよいぞ、弥次郎兵衛」

 その様子を見て隼人は薄く嗤った。この男にも笑うことができるのか、と弥次郎兵衛は心底驚愕し、同時に恐怖した。絶対にあの笑みには裏がある。そんな嫌な確信がある。

「毒をもって毒を制すという手もある。わが手に余るならば、伊賀者の手すら借りてみせようぞ」

「げえっ!」

 弥次郎兵衛は怪鳥のように唸った。腰が抜けたように手をついてのけぞったまま続く言葉がなかった。

 江戸表に派遣した黒脛巾組の配下から横山に、複数の伊賀者が会津を目指しているという報告が届いている。

 忍びは正々堂々戦ったりはしない。横取りだろうが騙し討ちだろうが、最後に目的を遂げることができればその経緯など問うたりしない。それが忍びの誇りであり、人外と人を恐れさせる常軌を逸した執念こそが何より忍びの本領なのであった。

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