Chapter16・きっとそれは浅草土産だ

高一 9月 土曜日 夜


 今日のレッスンは時間通りに終わっていたが、明日父さんが治姉の写真撮影用の洋服を買いに行くとの話題が思いの外先生の興味を引いてしまった。父さんが治姉をいかにして口説き落として米沢治佳オシャレ撮影会を勝ち取ったのか、その経緯を伝えると、先生は羨まし過ぎて対抗心を燃やしてしまったようで、子煩悩の一面をむき出しにして娘自慢を始める。


「英紀君や治佳ちゃんと別れてからの和歌を見て欲しい」と言って席を立ち、和歌の祖父母の部屋からアルバムを持って来ると、一枚一枚写真を見せるたびに「これは日本人学校の運動会の時だ。可愛いだろう? こっちはインターナショナルスクールに入ってからの写真だ。こっちも可愛いだろう?」と誇らしげに同意を求めてくる。


 確かに可愛いっちゃ可愛いが、つい最近の帰り道に俺も和歌を可愛いかもと思ってしまったものだからどうも気恥ずかしかった。

「はい、可愛いですね」と答える俺の顔はきっと赤かったに違いない。


 ひとしきり写真を見せ終えると先生は満足したのか、こちらに質問を振ってくる。


「そう言えば文明君と治佳ちゃんは明日何時くらいにどこに買い物に行くんだい?」


「確か午前中だったと思いますよ。場所は表参道か代官山だったっけな。気になるなら俺に聞くよりも父さんに聞いた方がいいですよ。電話もMineもあるし、家も隣ですし」


「ああ、そうだった! どうもまだ仕事は京都でしているから君たちが近くに住んでいるという実感が無いな。早速電話して……ってもうこんな時間か! 悪かったね。突き合わせて」


「いや、いいですよ。愚痴なら嫌ですけど、人が好きなことについて聞くのは好きですから」


 俺がそう先生に答えると先生は早速父さんに電話をかける。話を聞くとどうやら先生も和歌を連れて同行したいそうだ。嬉々とした反応から察するに父さんも快諾したのだろう。


 電話中の先生に会釈して書斎を出たその時――


「あっ」


 同じく廊下に出てきた和歌と鉢合わせた。さっき俺の家で会った時とはうって変わってTシャツにショートパンツだけという格好で、湯上りだったのだろうか、まだ髪が湿っている。普通の男子高校生ならば湯上りの髪や肌に目が釘付けになったであろう。


 しかし俺はあまりにも強烈なインパクトから和歌のTシャツを凝視していた。そして思わず呟く。


「何これ、ダッサ」


 臥薪嘗胆がしんしょうたん、湯上りの彼女が来ていたTシャツには習字体のフォントでそうに書かれていた。更に四字熟語のそばには悔しそうに唇を噛んだ劇画タッチの忍者が描かれていて、女子高生が着るにはあまりにもダサすぎる。


「Was ist loss! (独・何なの!)」


 和歌は暑い湯船に入り直したかのように顔を赤くすると、慌てて両手でシャツの文字を隠す。手で着衣を引っ張って隠したことで、華奢であるものの形の良い胸から腰に続く体の線があらわになり、そこで初めて俺は気恥ずかしさを覚えた。だって御父上がすぐ後ろにいらっしゃいますもの……。


 パニック状態から言語回路を必死に日本語にチェンジした和歌がようやく羞恥にまみれた声を上げる。


「あなた! なんでまだここにいるの!」


「なんでって、先生の話が今終わったんだよ。雑談が面白くて長くなったんだ……。ぷっ! それにしても、お前それの意味知ってんのかよ? よりによってドイツから来た奴がそれ着るか?」


「Ruhe! (独・黙れ!) 知ってるわよ! 我慢して待つって意味でしょ! あとドイツじゃない! オランダだから!」


 和歌はそう言うとこれ以上Tシャツのデザインを観られまいとしてか俺に背を向ける。しかしそれは明らかに墓穴を掘る行為だった。


 なぜなら――――


――帝王切開、Tシャツの裏面には漢字でこう書かれていた。


 更に表面の劇画忍者がロシア帽を被った兵隊を成敗しているイラストが添えられている。ただでさえ表面の臥薪嘗胆に笑いをこらえていた俺はここで完全にツボに入る。


「ぶっっっ、くっ、はっはっはっはっはっ! 帝王切開って! 意味違ぇよ! ロシア帝国を倒す意味じゃねえって! これ考えた奴頭おかしすぎるだろ? あっはっはっはっ! マジウケる!」


 隠したはずが更に笑われる結果になって動揺したのか、和歌は顔を紅潮させて振り返る。


「私は部屋でしか着ていないから良いのよ! LoseTシャツで外出しているLoserのあなたとは違うの!」


「ぶふっ! いやいやいやいや、部屋の中だけでも臥薪嘗胆の意味を知った上で後生大事に着ていりゃあルーザーTの俺と同じじゃん。 それに裏面は恥ずかしすぎるし! そうそう臥薪嘗胆の胆だけに俺たちキモT仲間だな! イェー! We born to lose!」


 自宅で治姉とお茶をしていた時の清楚で可愛らしい恰好とのギャップが面白すぎて、俺は減らず口をひり出し続ける。


「たん? きもてぃ?? Scheisse! (独・クソ!) 悔しい! あなたが何を言っているのか分からないけど私をバカにしているのは良くわかる! いい? これは私の友達が『また会える日を我慢して待ってる』って言ってくれた大事なものなの! あなたがコンプレックスで選んだLoserTとは違うのよ!」


「マジか、そんなんわざわざプレゼントで選ぶなんてひでぇセンスだな」


 笑いながらそう減らず口をたたくと――。


「Arschloch! (独・クソったれ!)」


 Tシャツの四字熟語を隠していた両手で和歌は俺をどつき倒した。


「痛っ!」


 女子の力とは言え、まさかどつかれるほど激高させていたとは思わなかった俺はたまらずしりもちをつく。


「二人とも! やめなさい!」


 そこでようやく電話をしていた先生が止めに入る。


「英紀君、言い過ぎたね。そのTシャツを和歌にプレゼントした人は和歌の親友でね、日本に来てからも日本の学校に馴染めない和歌をずっと心配してくれていたんだ。だから、和歌の友達を悪く言うのはやめてくれないかい」


「そうだったんですか。すみません。和歌、ごめん……」


「ふん!」


「あと和歌も! 私の部屋に来なさい」


「Aber Vati……(独・でもパパ……)」


「Komm herein! (独・来なさい!)」


 父親の迫力にびくりとし、しぶしぶと言った様子で教授の書斎に入る和歌を尻目に、俺はその場を去った。玄関までの道中、何事かとリビングから出てきた競子さんやおばあちゃんにも謝ると、彼らは事情を知っても特に俺を咎めようとしないで、むしろ俺が怪我をしていないか心配してくれた。その寛大さによって俺はかえって自分の器の小ささを自覚して情けなく思ってしまう。


 次会った時に謝らないとな。そう思った俺は良いレッスンを受けたのにもかかわらず、行きよりも重い足取り真鶴家を出るのであった。

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