Chapter5Lesson1(Ver1.1)・言語学者VS英語弱者なんて無理ゲーだ

高一 九月 日曜日 午前 始業式翌日


 俺はお隣の真鶴家の門にたどり着いていた。徒歩1分もかからないお隣さんではある。しかし普段見かける何の変哲もない住宅の入り口が大魔王が潜むラストダンジョンの様に今は立ちはだかって見える。立ち向かう俺の心境はRPGの勇者さながらだ。


 なんたって相手はヨーロッパの大学生相手に言語学を教えていた言語学者だ。俺とは地球の全人口の中でも対極に位置する人間に違いない。そんな人間とこれから一対一で対峙するのだ。憂鬱にならないハズがない。


 門にかけられた表札を見てみる。そこには筆記体で名字だけが書かれていた。


「そりゃあもう10年近く挨拶しているのに真鶴って名前を聞いてもピンと来ない訳だな」


 俺はしんみりと独り言を吐いた。中学の授業では筆記体を習得するか否かは生徒各自の自由とされていたから俺は喜んで学習を放棄していたのだ。


(大丈夫だ。俺はもう既に負け犬だ。負け犬はもう一度負けても負け犬だ。今と同じだ。)


 ドアベルを鳴らし、そんなマイナスにマイナスを掛け算して無理矢理プラスに自分の精神を安定させようとしていると、俺の精神状態などお構いなくドアが開いた。


「おお、英紀君、よく来たね。さあ入って、まだ蒸し暑いだろう?」


 教授は笑顔で俺を招き入れる。


「お邪魔します」


「和歌はもうお宅にお邪魔したかい?」


「え、はい。玄関で会いました」


「そうか、良かったよ。じゃあ私は飲み物を用意するから一階の廊下突き当りの書斎に上がって」


 教授に促されて廊下を進む。途中リビングにいるおそらく真鶴さんの祖父母であろう老夫妻と目が合ったので挨拶を交わす。普段軒先では挨拶しているのに場所が変わっただけで妙に新鮮な感じがした。


「さあ、どうぞ。入ってくれていいよ」


 大学教授の書斎と聞いてさぞ本棚に大量の本が並んでいるのだろうなと思ったが、いざ入ってみると勉強机にノートPCとプリンターと椅子とホワイトボードだけという非常に閑散としたものだった。


「割とさっぱりしてますね。父の部屋よりもっとすごいのを想像していましたよ」


 俺はすすめられた椅子に机を挟んで座りつつ率直に感想を述べた。


「文明君は勉強家だからね。それに私の仕事道具の大半は京都に置いて来てあるからね。ここにあるものはPCとプリンター以外はほぼ12年前にオランダに行った時のまんまだよ」


「あれ? 教授はこっちの大学に転勤? 転職……でいいのかな? をするんじゃないんですか?」


「いや、もう契約は交わしてしまったからね。授業がある火~金は今まで通りに京都の大学で教えるよ」


「ええ? 大変じゃないですか?」


「まあ楽ではないだろうね。でも今はオンラインでできる仕事も増えたし新幹線内で仕事をする手段もある。何より私は家族を最優先にしたいからね。ひとまず頑張るつもりさ。ところで……」


 教授の視線が俺の胸元に向く。


「英紀君はその意味を知っているのかい?」


 俺のTシャツを指してそう言った。


(よし! 食いついた! これで俺がどんなに残念な英語無能か説明できる! 教授さえ諦めれば俺の英語塾は終わりだ!)


 思わずしたり顔になった俺は教授の問いに答える。


「ああこれですか。知ってますよ。去年の体育祭でクラスメイトに散々弄られましたからね。これがきっかけで俺のあだ名ができたくらいなんですよ。LoseのLoだけ取ってルーさんですよ!」


 俺は畳みかけるように今まで自分が英語をきっかけに受けてきた屈辱を一つ一つ披露していった。


***


 サラリーマン、さっき娘に話したあだ名の由来エピソード、そして正に昨日起きた娘と担任の英会話を俺一人だけが全く理解していなかった事件を説明し終えた時、俺は奇妙な達成感に酔っていた。


(どうだ! 俺の勝ちだ! 諦めろ!)


 そう思い教授を見返すと……。


「あっはっはっは! 面白いね!」


 頷きながら聞いていた教授は話が終わると共に笑い出した。


「えっ?」


 俺は意外に思った。大学教授は中高の担任と比べて学生に接する機会が少ないとは言え教育者だ。そんな人物が思春期の中高生の失敗談を笑う訳がないと思っていたからだ。


 絶対に「君は悪くない」とか「辛かったね。でも大丈夫だ」とか「一緒に頑張ろう」などと甘言を吐いて俺を引き上げようとするはずだと思っていた。そして、それに対していじけて腐って返せば諦められて終わりだと思っていた。しかし、その思惑は外れて教授は愉快そうに笑っている。そしてひとしきり笑った後に教授は語りだす。


「いや、笑って済まなかったね。でもこれで確信したよ。英紀君はまだ間に合う! 英会話が出来るようになる! いやむしろ英語だけで良いのかい? 他に二つくらい話せるようになるよ」


「へ? 教授? 何言ってるんですか? 俺の話を聞いていました?」


「ああ、聞いていたよ。聞いていたからこそ確信しているんだよ。英紀君、良いかい? 本当に諦めている人、可能性が無い人はそもそも自分の失敗談なんか絶対に話さないんだ。臭い物には蓋をして生涯隠そうとする。そしてそもそも話を聞こうともしないんだ」


「でも俺も前向きに教授の話を聞こうとしている生徒じゃないと思うんですけど」


「そうかい? 私は少なくとも英紀君が後ろ向きには見えないよ。だってこうしてまだ私と向き合っているじゃないか。どうしてだい?」


「それは……。うーん、なんだ……教授は笑ってはいたけど楽しそうで、バカにしている感じはしなかったからだと思います。多分……」


「ほう! いいね! 私が教授だからとか年上だからって理由じゃないのがすごくいい!」


 くわっ!と目を見開いて教授が応える。


「え? なんでです?」 また想定外の反応をされて更に引いてしまう。


「表情とか仕草とか、話し相手そのものに注目して会話している証拠だからだよ。これはコミュニケーションの基盤となる部分を感じる感性があるというだ」


「え? でも、立場とか年齢に気を使って会話するのも大事じゃないですか?」


「もちろんその通りだよ。ただし自分の立場をわきまえた会話ができるようになるのは表情や仕草を使った基礎会話ができるようになってからでいい。私たちも幼稚園児の頃から先生に敬語で会話していなかっただろう?」


「まあ、はい、多分していなかったと思います」


 ヤバい。言いくるめられる! そう危機を感じた俺は更に屁理屈を口からひり出して抵抗する。


「教授、俺をおだてて乗せようとしていません? だいたい表情や仕草を見ながら会話するなんて、みんなできているじゃないですか。別に俺が特別な訳じゃないですよ」


「そう思うかい? 私はそうでもないと思うよ。例えば君がさっき話してくれた『流産』と言って君をからかった子達だ。彼らは君が怒って制止しても聞かなかったのだろう?」


「う、確かに……」


「それに対して君はバカにされた君自身の怒りを感じながら流産という不謹慎な言葉で凍った女の子達の雰囲気も感じ取ったんだろう?」


「そうです」


「それはつまり君は単に君が話している相手だけではなく、その周りに居る人々、状況、雰囲気も客観的に把握して会話ができる人間だという事だ。これはメタ認知能力と言って実はビジネスマンなんかに求められる能力でね、大人になっても身につかない人もいるくらいなんだよ」


「そうなんですか。でも日本人同士の空気が読めても英語には関係なくないですか? 実際に俺の英語力が酷いのは分かってもらえてますよね?」


 俺もここだけは譲れない。


「そう! 日本人同士の空気が読める! それこそが英語が苦手な理由の一つだと思うよ」


 教授もすかさずカウンターを繰り出す。教授は依然として楽しそうに話しているのでどう考えても押され気味だ。


「英紀君は事態を客観視する事に長けている分、嘲りや蔑視といった悪意も拾い過ぎているんじゃないかな」


「確かにバカにされたくないってすぐに身構えますね」


 ここで教授は一転してまじめな表情に変わって話を続ける。


「ただ冷静になって考えて欲しい。確かにからかわれた時は悔しかったかもしれないけど、英紀君はまだ11をテンワンと読んでいるかい?」


「いやまさか! イレブンって読みますよ。発音は悪いですけどね!」


「だろう? 覚えているじゃないか! Tシャツの英語の意味だって今の君は理解しているじゃないか! 学習しているんだよ!」


「あれ? 確かにそうか……? 受けた屈辱に見合わない気もしますが……」


「そうだね。でも失敗から感じる屈辱の大きさに比例して印象に残るんだよ。だから忘れないんだ。学校で習う英語も同じように強烈な印象で記憶に残れば良いと思うだろう?」


「はい、でも悔しいのは勘弁ですよ教授! 毎日あんな屈辱を積み重ねたら流石に俺も死にますよ」


「はっはっはっ! そうだね。私も悔しいより楽しい方が好きだ」


「で、これからその強烈な印象に残る方法で俺に英語を教えるんですね。流石数か国語話すだけあって話が上手いなぁ」


 もうお手上げとばかりに俺は少し茶化して言ってみた。きっとここぞとばかりに英語の授業が始まるんだ。俺は観念したが教授はまたも俺の予想を裏切った。


「英語? いや、今日は教えないよ」


 渋めの中年男性の雰囲気に似合わぬきょとんとした表情で彼は言った。


「え? なんでですか? あ、それはそれで嬉しいんですけど……」


「今の英紀君は自分は英語ができないと信じ切っているからね。そんな状態の君にとって言語学者なんて大層な肩書を持った私はゲームのラスボスみたいなものじゃないか。そんな私が教えてみなさい。まるでモンスター育成RPGで、旅立って最初の草むらから伝説ランクのモンスターが飛び出すようなものじゃないか。君がゲーム開始時に博士から配布されるレベル1のモンスターしか持っていなかったら無理ゲーもいいところだろう? それと同じだよ」


「ぶっ!」


 俺は思わず吹いた。まさか頭が良い人の典型の様な大学教授から小学生が大好きなゲームをネタにした例え話が出てくるとは思わなかったからだ。


「ははっ、教授! 無理ゲーって! 本当に大学で教えているんですか?」


「はっはっはっ! ウケて良かったよ。いや、これは私の信念でね。難しい事を誰にでも分かるように簡単に言い換えて説明するよう心掛けているんだよ。だから学生達の世代のほとんどが遊んでいたあのモンスター育成RPGにもヒントがあるかもと思ってやってみたんだ。娘も欲しがったしね」


「意外です。教授って自分の好きな分野の研究にしか興味が無い人達だと思っていました」


「確かにほとんどはそうだよ。だから講演会でゲームやマンガのネタで笑いを取ると嫌な顔をされるよ。特に日本の学者達にね。私の講義に人気が出ると尚更だよ」


「ははっ、でもありがとうございます。さっきのゲームの例えは的を得ていましたよ。俺、ずっとどんなに難しい講義をされるのかビビッてましたから」


「やっとリラックスしてくれたね。良かったよ。それで、話を戻すとまだ英紀君は自分には英語はできないと思って身構えているからね。どんなにゲームの例えを駆使して工夫してもなかなかその牙城は崩せないだろう」


「いやぁ、それほどでもありますよ」


 いたずらっぽく頭を掻きながら答える。


「ははっ、褒めてないぞ。だから私はまず君の防御を解くところから始めるよ。モンスター育成RPGに例えるならこれから君に防御力低下の技を使いまくるよ」


 そう返す教授も少年の笑顔だった。


「なるほど。分かりました。でも俺は手強いですよ」


「私も楽しみだよ。いやむしろ英紀君が負けた方が得だよ。そうすれば結果的に英語が話せるようになるんだからね」


 そう言って再び悪戯っぽく微笑んだ。


 俺も彼に微笑み返した。内心今回は負けたなと思ったが不思議と嫌な気はしなかった。


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