Chapter3(Ver1.2)・米沢家も英語が苦手だ

高一 九月 土曜日 放課後


 まるで個別指導塾の様な小型の自習室でおよそ一時間のマンツーマン英語補習を終えた時、俺も今回の補習を担当してくれた英語の先生も少し疲れた表情をしていた。


 今日は部活が無いから久しぶりにオタク系の友達と帰りに渋谷のゲーセンに行こうとMineで昨晩に約束していたので、彼らが待っているであろう教室に行こうと自習室を出たまさにその時、自習室の向かいにある生徒指導室のドアが開く。


 真鶴さんだった。先ほど謝るタイミングを逸した相手が今まさに目の前に現れたので、俺はとっさに声をかけようかと思ったが、その声は喉から出るすれすれで発することができなかった。


(ん? 泣いてる?)


 彼女は眼を腫らして少し鼻をすすっていた。眼の周りは乾いて見えたので泣いているというより泣いていたというような雰囲気だ。


「ちょっと!」


 俺は我に返ってさっき発することが出来なかった声をかけたが、俺の姿を見るなり彼女は顔を伏せて登校口がある一階に降りて行ってしまった……。


(くそぅ、相当嫌われたっぽいな)


 そう感じて、俺も友達がいる三階に行こうと思ったその時、普段とは違って沈んだ表情の式部先生が生徒指導室から出てきた。


「あ、先生、俺……。真鶴さんをからかい過ぎちゃいましたかね……」


 気になって俺は先生に声をかけた。


「え? 米沢君? ああ、補習だったわね……。違うのよ。あなたが悪いんじゃないのよ。ああ、いえ、からかったのは良くないから真鶴さんに謝った方がいいとは思うし、その様子だと君も悪かったと思ってるんでしょう? なら来週にしっかり謝れば先生はもう何も言うことは無いわ」


「え? 違うんですか? 何があったんです?」


「はぁ……」


 先生は悔やむような表情でため息をついて事情を教えてくれた。どうやら俺が補習の為に教室を出た後にそれは起きたらしい。HR後に彼女の席に集まっていたクラスメイト達はおおよそ俺が抱いたのと同じ疑問について質問していたそうだ。


例えば

「最初に話していたのは何語? フランス語?」とか、

「英語ペラペラなの?」とか、

「ルーさんにキレた時に話していたのって何語?」とか、

「何か国語話せるの?」といった具合で普段聞き慣れない外国語に関する質問だったそうだ。


 真鶴さんは知らない言葉があればその都度必死に聞き返して、


「あれはオランダ語です」とか、

「ペラペラは何の意味? ……そう、私は英語で生活ができます」とか、

「キレるは何の意味? ……そう、彼にドイツ語で怒りました」とか、

「私はオランダ語と英語とドイツ語とフランス語と日本語と、あと少しだけイタリア語とスペイン語を話します」 などと懸命に答えていたらしい。


 しかし、「米沢君程じゃないけど英語は苦手だから英語が上手でうらやましい。今度教えてくれる?」と女子から褒められた時に激しく動揺し、挙句泣き出してしまったというのだ。

 先生は話を続けた。


「彼女ね、実は一学期は京都の女子高に通っていたの。そこでクラスメイトと上手く行かなかったみたいでね、その頃を思い出しちゃったみたい。はぁ……、先生ダメね。最初に日本語で自己紹介してって言っておけば良かったのに……。転校初日に生徒を傷付けるなんて……」


「いや、もう起きちゃったんだし仕方ないじゃないですか。これからどうするか考えましょうよ。まあ、まず真鶴さんに謝らないといけない俺が言うのもなんですが……」


 俺がそう言うと自嘲気味な表情をしていた先生の表情が少し和んだ。


「そうね、米沢君の言う通りね。米沢君は短気にさえ気を付ければ明るくてみんなからも親しまれやすい良い子だと思ってる。期待しているから真鶴さんと仲良くしてね」


「はい……。では、また来週……」


 そう言って俺は先生と別れた。普段は満ち溢れる明るさと自信でその小柄な体が錯覚で一回り大きく見える先生だったが、職員室に向かって歩く彼女の姿はむしろ現実よりも小さく感じられたのだった。


 少し遅れてオタク友達数人と合流して久しぶりに渋谷のゲーセンに繰り出したが自分の失態と先生に聞いた話が気になって心から楽しむことはできなかった。俺とは違って教室で一連の出来事を目の当たりにしていた友人達もその気持ちは同じだったようで、各々が目的としていたゲームを数度プレイしただけで俺たちは解散して帰路についた。


 渋谷から2㎞ほど歩いて自宅に着く頃には徐々に空は茜色に染まりつつあった。とはいえまだ残暑がひどい九月であるから、俺は制服のネクタイを外して酔っ払いの様な格好で自宅の門を開ける。


(あー、麦茶飲みたい。風呂入りてぇ)


 そんな欲求を内心で愚痴りつつ玄関に入った時、ふとそこにある靴の多さに気付いた。そしてリビングからは女数人の話し声が聞こえる。声からして母だけでなく姉もいるみたいだ。


(来客か?)


 俺の母である米沢法子よねざわのりこは人付き合いが上手いのか、よく自宅に友人が集まってお茶をしている。俺が中学に入る前くらいまでは代官山のカフェなんかでママ会をしていたみたいだけど、姉が医学部に入りたいと言い出してからは学費の為に家族以外のとの外食や贅沢を一切止めた。その時に自らママ友に謝って今後外食はできないと告げたら、それ以降ママ会の場が自宅に移ったのだ。だからおば様方の来客がいるのには慣れている。今日もきっとそうだと思い、俺は挨拶をしながらリビングのドアを開けた。


「こんにちは――――って、えっ?」


 そこには俺が全く予期していなかった人がいた。真鶴さんだ。彼女も俺を見て驚いた表情をしている。


「あら英紀、寄り道するって聞いてたけど早かったわね」


 母が俺に何か話しかけているが、俺は予想外の出来事に思考がついていかずハニワみたいな顔をしていたと思う。


「お前なんでここにいんの?」


「あなたも!」


「あなたもって、ここは俺んちだよ」


「あら、あなたたちもう会ったの? てことはクラスは同じだったのね。良かったわ。英紀、あなた友達は多いんだから和歌ちゃんを助けてあげるのよ」と俺と真鶴さんの様子から既に顔見知り同士だと察した母が俺に声をかける。


「てかあんた女の子相手にお前呼ばわりは無いでしょう。そんなだから告白された女子にすら振られんのよ」


 医学部に通う大学一年生である姉、米沢治佳よねざわはるかがメスで俺のトラウマをえぐる様な発言で割って入る。


「あら、あなたが英紀君? 大きくなったわねぇ」


 もう一人の中年の女性はよく似た気の強そうな雰囲気から察するに真鶴さんの母親だろうか。なんだか俺を知っている様な口ぶりだ。


「あ、はじめまして。米沢英紀です。真鶴さんとは今日学校で会いました」


「はじめまして、和歌の母の真鶴競子まづるけいこです。英紀君が小さい頃によく和歌と遊びに来てたのよ。治佳ちゃんは覚えてくれていたみたいだけど……、でも4歳だったし覚えてないか。今日は和歌が初日から失敗したって泣くもんだから法子さんと治佳ちゃんに相談しに来たのよ。英紀君も同じクラスならちょうど良かったわ」


「ママ!」


 娘が制止しようとするが競子さんは構わず続ける。


「なんだってオランダ語で自己紹介したんでしょ。バカねぇ、そんなの通じる訳ないじゃない。ここは東京! 長崎の人だってもう話さないわよって話をしてたのよ」


 呆れ笑いをしながら話す競子さん。


「それはパパが今度の学校は外国語ができる生徒がたくさんいるって言ったから!」


「まったく、あの人に説明させた私がバカだったわ。日本人にとって外国語って言ったら英語なのよ。で、あげくからかってきた男の子相手にドイツ語で怒り狂ったんでしょ。あっはっはっ! こら面白いわ!」


「競子さん、和歌ちゃんは気にしてるんだからそんなに笑わないで」


 治姉はるねえが普段俺には見せない優しい表情で競子さんを落ち着かせる。


「あの、そのからかった男子なんですけど、俺です……。すみません」


 会話の間を察した俺は来週までお預けになっていた謝る機会を逃すまいと割って入って競子さんに言った。そして真鶴さんに向き直って続ける。


「あの最初のオランダ語だったかな? その自己紹介の時に先生から注意を受けて真鶴さんが笑われているのを見て、気分を紛らわせてあげたいなと思ったんだ。俺も英語ができなくてよくバカにされるからさ、言葉で失敗する人の気持ちが分かるんだよ。でも、真鶴さんが俺の言うことを分かってないと気付いたのに悪ノリを続けてしまって……。緊張していたんだろ? なのに……。真鶴さん、ごめん……」


 そう言って俺は頭を垂れた。


「え?」


 それまでお世辞にも好意的には見られない態度で俺から視線を外していた真鶴さんがきょとんとした表情で俺を見た。


「ん? どうした? 俺変なこと言った? 一応まじめに謝っているつもりなんだけど」


「はっ」と何かを察した様子で真鶴さんが答える。


「あ、あの時クラスメイトが笑っていたのは多分私じゃない。あなたよ」


「へ? なんで?」


「あの時先生は『Would you introduce yourself in Japanese? One of the class doesn't understand even English』って言ったのよ」


「え? 日本語でOK!」


 さっぱり分からないのですかさずネットスラングで返すと真鶴さんの表情が疑問から確信に変わる。


「だから! 先生は『日本語で自己紹介してくれますか? クラスの一人は英語さえ分かりません』って言ったのよ! だから私のことじゃない」


「ぷっ!」


 そこまで聞いた時点でその場に居た年上女三人が吹き出した。特にご満悦な様子なのが弟の心をメスで切り刻むのが大好きな治姉だ。


「あっはっはっはっはっはっ! あっ、あんたっ! 自分がバカにされているのに気付かずに他人の心配していたの? 何それ! めっちゃ面白過ぎる!」


「ぷっ、くっふふふっ、治佳、笑っちゃだめよ。でも『言葉で失敗する人の気持ちが分かるんだよ』って言っておきながら全然分かってないわね。ふふふっ」とは言いつつも自分も傷心の息子を笑う母上。


「あああっ、家の女どもはうるせえな! 治姉だって大学に入っても英語やんなきゃいけないのって愚痴ってたじゃねえかよ。母さんも洋画借りる時は絶対に字幕版を拒否るくせに!」


「笑ったって良いじゃない。嘲笑う門には福来るっていうでしょ?」


「笑う門だろ! 人様を嘲笑って福来るなんて性悪すぎだろ!」


「そりゃそうよ。だから私の辞書にもただし弟に限るって注釈されてるわ」


「編集に悪意しかない!」


 大爆笑の時に乱れたセミロングの髪を手櫛で整えつつ余裕の笑みで俺をあしらう治姉。俺も負けずにつっこむとまた家族の女二人が笑い出す。


「ぷっっ、くっあはははっ。あなたがクラスの一人だったなんて。あはははっ!」


 つられてついに真鶴さんも笑い出した。


「ちょ、おま、真鶴さんまで笑うなよ。人が心配してたってのに!」


「はぁはぁはぁ、ふっふふっ、ふぅ……、ごめんなさい。笑ったのは謝るわ。でも、からかってきた時のあなたは意地悪だったからこれで同じよ。謝ってくれてありがとう」


 そう言って真鶴さんは安堵した表情をして瞳に溜めた涙を拭った。


「それを言うならお相子な」


「お相子?」


「子供同士で同じくらいの意地悪をしあった相手を許す時の言葉だよ」


「そう、じゃあお相子ね。……いいえ、やっぱり違うわ。あなたが私にどんな言葉で意地悪したか私は分からないから、その意味が分かるまでお相子じゃないわ」


「そうね和歌ちゃん、こいつにしっかり落とし前つけさせてやって。英紀くん良かったでちゅねぇ。こぉんな可愛い子に自分がどんなにゲス野郎か説明できるんだから」


「治佳お姉ちゃん、落とし前って? ゲス野郎って何?」


「え? あー、あれよ、落とし前つけるは責任を取ることで、えーとゲス野郎は……そうそう! サノバビッチよ」


「ふふっ、お姉ちゃん、それ、自分のお母さんもバカにしているわ。ほら、こう書くから」


 真鶴さんが鞄から付箋を出して治姉に書いて見せる。


「えっ? マジで? Son of a bitch? あぁ! お母さんごめん! って、おい弟! 何ニヤニヤしてんのよ! 解剖するわよ!」


 治姉が怒気半分、冗談半分といった表情で失態をほくそ笑む俺に突っ込むとまた笑いが起きた。俺がリビングに入った時よりも雰囲気はずいぶん明るくなり、文字通り以上の女四人が揃って姦しくなっていた。ひとまず謝罪は成功したのかなと安心つつも、女どもの言葉弄りのサンドバッグで居続けるのには精神的に疲れる。そこで汗を流したいと口実を伝えてリビングを去ろうとする俺を競子さんが呼び止めた。


「あ、待って英紀君。さっきは笑ってごめんなさい。でも久しぶりにこの子が笑ったのを見たから良かったわ。どうも私はアスリートとしての癖が抜けなくて娘が悩んでいても根性論しか話せなかったのよ。ありがとう」


 競子さんも幾分安心したような表情になっていた。


***


「ただいまー! 英紀いるか?」


 俺がシャワーから上がって脱衣所で部屋着用のスウェットを着ていると父である米沢文明よねざわふみあきの声がした。なにやら興奮しているのか早足にリビングに入る音が聞こえる。女数名と話す声が聞こえるのでまだ来客も帰っていないのだろう。俺は何事かと思ってまだ髪も乾かぬままバスタオルを首にかけてリビングに向かった。


「父さんどうかした?」


 父さんに呼ばれてリビングに行くと父さん以外にもう一人、談話の面子が増えていた。父さんと同じか少し上くらいに見える中年男性だ。


「おお! 英紀いたか! こちら、言語学者の真鶴教英まづるのりひで先生だ」


 興奮気味に来客の紹介をする父親と自分の感情の温度差に多少戸惑いを感じながらも俺はその男性に向き直った。


「はじめまして。米沢英紀です。真鶴、ということは和歌さんのお父さんですか」


「はじめまして。和歌の父の真鶴教英です。やっぱり覚えていないか。和歌は治佳ちゃんを覚えていたから、もしかしたらとは思ったんだが。やっぱり幼児期の数か月の差は大きいな」


「はぁ、競子さんも大きくなったって言ってましたから、多分真鶴さんのご家族は以前家と付き合いがあったんでしょうか」


「ああ、そうだよ。12年前に私がオランダの大学に行くまではよくお付き合いさせて頂いていたよ。文明君とは教育関連の仕事という点で共通していて話題も合ったしね」


「そこでだな、英紀! 父さんがさっき教授に頼み込んで、今後毎週土曜日にお前に英語の特訓をしてもらうことになったんだ。外国語習得法研究の実績をヨーロッパで積み上げて来た方だ。これで苦手な英語を克服できるぞ!」


「おいおいおい、父さん! なに勝手に決めてるんだよ。ただでさえ学校で補習漬けなのにまだやるのかよ。それに教授ってことは大学の偉い人なんだろ?俺みたいな落ちこぼれに時間使わないで、大学でもっと英語が得意な人に教えた方がいいだろ」


「私は全然構わないよ」


「ええっ、なんで? 英語嫌いなんですよ。教授が好きな外国語が嫌いなんですよ? あ、すみません。失礼で申し訳ないんですけど父さんにいくらで頼まれたんですか。前にも高い個人家庭教師を付けられたけど全く続かなかったんですよ」


「英紀! お前は本当に失礼なことを言うな。先生、すみません」


「いやいや、問題ないよ。そして英紀君、私はお金はとらないよ」


「え?」俺は耳を疑った。


「好きな人に教えるのもいいけど、嫌いな人を好きな人に変えるのも面白そうじゃないかい? それに私も与えるだけじゃない、文明君から相応の対価を与えて貰うから公平な取引だよ」


「父さんは何をするんですか?」


「君のお父さんには和歌の日本語の先生になってもらうんだよ。旧知の仲で信頼しているし国語の教員免許も持っているからこれ以上ない家庭教師だよ。法子さんも司法試験合格者で論理的な説明に長けているしもう非の打ち所がないよ」


「ということで英紀、毎週土曜日の夜に教えて頂くことになったから頑張るんだぞ。早速今日からどうだ? 晩飯の後にでも行ってこい!」


「はぁ? 晩飯の後って、もう今6時だぞ! いつも通り7時に飯食ってから行ったとしたら時間遅くなんないか?」


「それは大丈夫だ英紀。隣だから」


「へ?」またハニワの表情になる俺。


「ほら、毎朝軒先を掃除しているお隣のおばあちゃんがいるだろう? あのお宅だ。9時にレッスンを終えても補導の対象にはならないから安心だ! はっはっはっ!」


「なん……だと……?」


 思わず俺は呟いた。そうだ、思い返してみれば俺の家の両隣は共に一軒家であるが俺が顔を合わせた時に挨拶するのは右隣のお宅のおばあちゃんとおじいちゃんだけだ。小学生の頃から母親に「ほら、ご挨拶しなさい」と言われ続けてきたから疑問を持たずにやってきていたが、そういうことか、付き合いがあったのか……!


 12年前の真鶴家との付き合いの記憶はないものの、習慣となって今に影響し続けていたという事実に気を取られていると、父親達は話題の中心を真鶴さん用の日本語レッスンに変えていた。真鶴さん本人も俺とは違って前向きそうな表情で会話している。


 反論をするタイミングを計り損なった俺は束の間の現実逃避のために二階の自室へと上がっていった。


Ver1.1 補習部分を少し削除

Ver1.2 治佳の髪型を追加

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