カレー夜話

菅沼九民

第1話 四畳半開放戦争

 俺たちは地獄に墜ちる。だが、人にとっての地獄が、俺たちにとって天国でないと誰が言えるか。咖喱カレーが辛くて、何がいけない?

 そうだ──俺たちは地獄を求める。地獄を創る。この血潮にも似た。赫々たるスパイスを、流し込んでやるのだ。


──中学生時代、調理実習にて


***


 諸君は四畳半帝国について、どれほどの知識をお持ちだろうか?まったく?それはまことに遺憾である。この物語を理解していただくには、まずもって、この痛々しいまでに不毛な帝国について、知っていただかねばならない。僭越ながら初代皇帝でありラストエンペラーでもある私が帝国について紹介させていただこう。

 二十一世紀初頭、四畳半帝国は、浪花大学昇陽寮の一室に誕生した。

 国土は82082.25㎠の美しき正方形。地平から高度240㎝までが領空であった。内陸国であり領海を持たなかったが、国外の準領域として、国土の倍以上の面積を誇る湖の租借権を有していた。四畳半帝国は国外に領土こそ持たなかったが、この利権を以て帝国を名乗ったのである。湖は別名共用浴場とも言った。

 諸君は、そのちっぽけさを以て、四畳半帝国を帝国とは認めないかもしれない。あるいは辛く悲しい浪人生活を耐え忍ぶなかで、妄想癖を獲得してしまった男子学生の末路に落涙しているだろうか。

 あえて言おう。四畳半帝国は無限の地平であると!

 そして認めよう。四畳半帝国とは妄想の産物であると!

 人はいかにして世界を知覚するか。もちろん脳を介してである。人が世界を知覚できるのは脳内に世界の雛形が存在しているからだ。空を空、海を海と認識できるのは、あらかじめ脳内に空や海が存在しているからに他ならない。すなわち、人の脳内は空よりも海よりも広い。私がこの真理に至るにあたっては、センター倫理政経を学習する過程で、プラトン先生から学んだイデア論の影響が大きかったことを言明しておかなければならない。

 人の脳内は空よりも広く、海よりも広く、宇宙のように拡大していく可能性を有している。したがって我が脳内を投影することで現出する四畳半帝国もまた同様である。四畳半という領域に囚われることはない。四畳半は狭いのではない、狭いと感じているにすぎない。そこにはなにもないし、なんでもある。このような思想を背景として、初代四畳半帝国皇帝こと私は四畳半の妄想的開拓に乗り出した。


 私は四畳半の開拓を物質的な充実によって果たそうとした。いま思えばこの方法をとったことが帝国の滅亡を招いたのだ。

 四畳半という物理的に限られた空間を妄想的に拡張するには、物をあふれさせればよい。床に書籍を積み上げ、壁にポスターを張り巡らし、天井に模型をぶら下げる。目に入るありとあらゆる物が私の妄想を掻き立てる。私の脳は、時に高尚、時に卑猥な拡張現実を生成した。

 私は部屋を物理的に狭くすることで、広大な妄想世界を手にするというパラドックスに酔いしれた。妄想の帝国は膨張を続け、やがて限界を迎えた。

 住めなくなった。居住スペースが消失したのだ。万年床の三分の二を国宝に占拠され、ダンゴムシをリスペクトした就寝スタイルで夜明けを迎えたとき、私は帝国の腐臭を嗅ぎ取った。帝国が無秩序に拡大を続け、血の行き届かなくなった末端から壊死し始めた、とか擬人的に部屋の惨状を表現したのではなく、ただ臭かった。なにか尋常ならざる臭気が部屋のどこかから漂ってきていた。

 方針転換の必要性を実感した私は断捨離を決行した。独裁国家の唯一といってよい利点は、統治者の意思を国家の意思としてすみやかに実行できることだ。昨日までの国宝は価値を失った。独裁国家では何に価値を置くかは統治者が決定するのだ。私は片っ端からガラクタを市指定ごみ袋に放り込みはじめた。一旦国土を美しき正方形へと還し、一から帝国を立て直すことを試みた。ちなみに市指定ごみ袋とは一枚60円の高級ごみ袋である。後世の史家の中には、この時の市指定ごみ袋大量消費による財政圧迫が四畳半帝国滅亡を決定づけたと指摘する者もあるが、まったくの見当外れである。

 四畳半解放戦争。この戦争に勝利はない。敵が滅ぶるそれまでは、捨てろや捨てろ、諸共に、袋の口を押し広げ、死する覚悟で捨てるべし。

 三日三晩の戦闘で四畳半が原始の姿を取り戻してゆくにつれ、異臭の根源が明らかになってきた。というか初めから悪臭の原因は予想がついていたのだが私は気付かぬふりをしていた。

 部屋に四つある角、その一つには混沌が存在している。そこは、帝国において国民が、というか私が、生活するなかで発生したごみを日常的に放り込んできた地区である。皇帝である私ですら、その混沌が何から成っているのか知らない。

 わが身の成せる罪業を滅ぼすため、私は恐る恐るゴミ山を崩していく。地表へと近づくにつれて刺激臭が増していき、頬を涙がつたった。最後にいつ食したかもわからないコンビニ弁当の殻を取り払うと、そこには黒い球体が鎮座していた。

 弁当殻が蓋の役割をしていたのか、刺激臭がいっきに強くなる。謎の微粒子が鼻を伝って脳へと至り意識を殴りつける。薄れゆく意識。臭い物に蓋をするとはこのことか。今際の際に相応しくない間抜けな言葉をつぶやきつつ崩れる皇帝。黒い球体、すなわち腐った玉葱によって妄想の帝国は滅ぶこととなった。




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