第3章-16

 よく晴れた日だ。唯は以前調べた、天気と自殺の関係の話を思い出す。統計的に見て、曇天や雨の日は晴れよりも自殺者が出る割合が高くなるそうだ。バルコニーから暖かい日差しと青空を確認し、唯は部屋へと戻った。リビングのソファーに体を埋め、最後の日が晴れであったことに満足感を得る。天気にさえ抗って、自分は今日死ぬのだ。そのための準備だって十分にしてきた。あとは、その時を静かに待つだけだった。

もうすぐ、父が薬を持ってくる。できるだけ苦痛を感じないように作ったそれを、注射器で打つのだそうだ。そうすれば眠ったまま、二度と目が覚めないらしい。父が席を立ってから、随分と長い時間が経った気がする。きっと、決心がつかずに動けないでいるのだろう。父に一番残酷な役目を負わせなければいけないのは、唯の最後の心残りだった。

目を閉じて思い出す。いつだって父には、迷惑ばかりかけてきた。あれは小学生の頃。珍しくケーキを買ってきてくれたと思ったら、唯がチーズケーキしか食べないのを忘れていて喧嘩したことなど、後から思えば些細なことだった。全ては、母が自分勝手に死んでしまってから崩れたのだ。

母が定期的に病院に通っていることは知っていた。時々父と母が、唯がいないと思って体調の話しているところを見たこともあった。それは深刻な様子ではなく、今度の休日にどこに出かけようかという話題と大差なく交わされているように見えた。

幼心に感じていた。母は、病気なのだと。だがそれは、テレビで見たことがあるような不治の病や余命いくばくといった悲劇めいたものではなく、薬を飲んでいれば平気なものなのだと信じた。その証拠に、母は気を失って倒れることもないし、酔っぱらってご機嫌で帰って来ることもある。いつも口数が少なく冴えない顔をしている父の方こそ、病気を隠しているのではないかと思っていたほどだ。

その解釈は自分が編み出した詭弁に過ぎなかったと、母が倒れたあの日初めて気が付いた。いや、実際には詭弁でもなかったのかもしれない。唯と同じか、それ以上に父も動揺し、痛々しいほどに嘆き悲しんでいた。

唯は知ってしまった。突然、大切な人に去られることの苦しさを。永遠に続くと思っていた日々を、無言で奪うという罪の重さを。唯は、母を恨んだ。理不尽だと分かっていても、恨まないと、大好きな母と過ごした時間が蘇って、現実を生きられる気がしなかった。恨んで嫌いになろうとした。だが、記憶の中の母はどうあがいても優しく、自分を騙すことはできなかった。

自分の病気のことを知ったのは、母が死んでから半年ほど経った時だ。皮肉なことに、少しずつでも母の死を受け入れ、自分の好きなことに時間を費やせるようになってきたのがきっかけだった。母が死んだ病気のことを、知っておきたくなったのだ。心臓の病気だった、と一言で片づけられるのは納得がいかなかった。学校の図書室でもそれが載っているような本はなく、唯は家の近くの図書館で、両手でやっと抱えられる大きさの本を調べて見つけることになる。母の症状が、ミトコンドリア病という珍しい病気を思わせるところがあること。そして、それは母系の遺伝子が原因という説があると。

 正式に検査で自分の病気が分かってからの日々は、思い出したくもない。父も医者も、すぐに発症するものではないと強調していた。だが頭にあるのはいつも、母に訪れた最後の瞬間だった。死神に魅入られたかのように、母の心臓は気まぐれに動くことを止めたのだ。次の一拍の鼓動ですら、保証されているかは分からない。頭の中を支配するのは死への恐怖と、自分が母と同じ罪を犯してしまうことへの自責の念だった。

 唯は、学校へ行くことを止めた。自分と親しくなれば、死んだ時に辛い思いをさせてしまう。絶対に、自分と同じ辛さを人に味あわせはしない。そう自分に言い聞かせて、他人と距離をとっていった。

 ただ自分の運命を呪う毎日。自分の部屋のベッドで、神様がいるのなら、心臓がいつ止まるのか教えてほしいと願った。そうすれば、もう怖がらなくていいのに。毎日そんなことを考え、昼も夜も分からない生活を続けるうちに、唯は一つの考えに至った。

神様に運命を任せる必要などない。

自分が死ぬ日を、自分で決めるのだ。

その日までを精いっぱい生きる。その日までに、父にありったけの想いを伝える。だから、どうか悲しまないで欲しい。

そう思った途端、視界が音を立てて開けた気がした。目の前を塞いでいた壁を打ち壊す、小気味のいい破壊音。

唯は、足をもつれさせながら部屋を出て父にその考えを話した。今思えば、今以上に心が壊れていたのだろうと思う。

父は決して咎めなかった。もしかしたら、本気だと思っていなかったのかもしれない。父の顔からは、久しぶりに娘と顔を向き合わせて話せたことへの安堵感が滲み出ていた。

それから、十七歳の誕生日の前日を最後の日に決めた。誕生日に死ぬのは、物悲しい気がしたからだ。明確な理由があった訳ではない。ただ、一度そう思うとその日までは生きられる気がした。

本を読めるだけ読んだ。残された時間が少ないとなって、堰を切ったようにやりたいことが浮かんだ。学校が懐かしくなって、久しぶりに行ってみようと思った。母がしていたように、お酒を飲んでみようと思った。校内に自殺をしようとしている人がいるかもしれないと知り、なんとしてでも止めようと思った。時として莉花が漏らす生への軽薄さに、傷つき眩暈がすることもあった。それでも、とにかく生き続けて欲しいと願った。

最後と決めた一年半、思っていたよりも悪いものじゃなかった、そう噛みしめて唯は頷く。このフカフカのソファーの感触も、もうすぐ感じなくなる。目を閉じると、廊下の軋む音が近づいてくるのが分かった。父がようやく、決意を固めたのだろう。

もう、話したいことは話しつくしたつもりだ。それでも、別れが惜しくなる。最後にもう一度、謝ろう。こんな弱い娘でごめん。もっと、一緒に生きてあげられなくてごめん。

 唯は、低く鈍い音を聞いた。初めは、いつしか自分の視界の壁を壊してくれたあの音かと錯覚した。間もなく、その発信源に気づく。締め上げるような、窮屈な痛みとともに。

 ゆっくりと近づいてくる、廊下を進む音に意識を集中させる。早く、もう時間がない。自分の胸倉をえぐるように抑え、まだ耐えてと懇願した。

 扉が隙間を作り、父の姿があった。霞む目が、辛うじて父を捉えた。何も持たない、両の掌が映る。唯は声にならない声で、小さく笑った。

「唯!」

 消えそうな意識の中で、駆け寄ってくる父の腕に抱かれた。何度も自分を呼ぶ声が聞こえる。ごめんなさい、と言ったつもりだけど、ちゃんと父には届いただろうか。

 目の前が暗くなっていく。父の手を汚さずに死ねるなら、きっと悪くない終わり方なのだろう。

 まさか、自分が死ぬと決めた日に本当に心臓が止まるとは。いつかの、心臓が止まる日を教えてほしいという願いを、神様が聞いてくれていたのだろうか。薄れゆく意識の中で、唯は思った。

 最後に、彼のことを思い出す。残される者の辛さを知りながら、生け贄と称して関わってしまった罪。許されないことだと、自分を責め続けてきた。それでも、もしまだワガママを言う権利があるのなら。唯は最後の願いに思いを馳せる。変えられない運命の中で、確かに残した希望。

呪い続けた運命に抗うために、あえて希望を自分の意思の届かない賭けへ委ねた。この賭けに勝ったとしたら、自分が生きた意味はあったのだろう。

 唯の思考は、そこで途絶えた。父の温かな腕の感触と、咆哮にも近い泣き声だけを感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る