第2章-1

 初めて見る唯の父親は、温厚で物静かにみえる色白の中年だった。恵太は自分の両親と比べて随分若い気がしたが、丸みを帯びた頬と背中から、見た目よりも歳を重ねているのかもしれないと気付いた。あるいは、唯も少し丸みを帯びた頬をしていたのでそういう輪郭の家系なのだろうか。喪服のせいもあるのか、温厚な中にもどこか神経質そうな近寄りがたさを感じる。数多の供花についた札や、聞くともなく耳に入ってくる話から、大学の准教授をしていると知った。唯の父親らしい、と思い恵太は妙に腑に落ちた。

 唯の父親が立ち上がり、方々に頭を下げる。嫌でもこれが葬儀という儀式の場だと分からせてくる線香の匂いの中、喪主である唯の父、小川彰高の挨拶が始まった。表情の一つも変えず、動かし方を忘れたような顔で彰高は話している。急に家族を亡くした時、相場は涙で言葉が出なかったり、立っていられなくなってしまったりするものではないかと思っていたが、彰高は何の感情も宿さない声をしていた。原稿を読んでいるのかと思って手元を見たが、何も持たず体の前で両手を組み合わせている。ほとんど内容が頭に入ってこない中で、辛うじて恵太が把握できたのは、唯の母親は唯が中学生の頃に亡くなっていること、それと、彰高と唯の思い出話がいくつか。若くして妻と娘に先立たれたことになる彰高は、その境遇とは不似合いな平静さで、見ている方が異様に感じるほどだ。もう一つ、恵太が異様に感じたのは唯が死んだ理由を示す言葉が出てこないことだった。

増田が教室で唯の死を報せたとき、死因については「はっきりしたことは分からない」の一点張りだった。それが却って憶測を膨らませる事態になりかけたからか、その日のうちに再度説明が行われた。唯の死因は、自殺だと。それから返ってくるはずもないメッセージを唯に送ったり、唯の姿を探してみたりしてどうやら嘘ではないらしいと感じ始めたところでの葬儀だ。

恵太にとって、葬儀は初めての経験だった。幸いなことに祖父も祖母も、いつかは亡くなってしまうのだと思わせたことすらない健在ぶりで、死は漫画やドラマの中でしか接したことがない。いつかはあの元気な祖父母とも別れの時が来るのかと、祖父母の葬儀を想像しかけていることに気づき考えるのを止めた。

家を出る時に、険しい顔の母親が念入りにシワやほこりをチェックするものだから、いつも着ている制服のシャツすら体に馴染めていない気がする。隣で竜海が、ポツポツと自分たちがするべき段取りを説明してくれなかったら、心細くて周りを見るどころではなかったかもしれない。

「じいさんが亡くなった時はそんな感じだったな。とりあえず、前の人に付いていけば大丈夫だと思う、多分」

 経験があるとはいえ、口ぶりからすると拠り所はその記憶だけなのだろう。遠い記憶を確かめるように頷き、竜海が言った。最近になってぴんぴん飛び跳ねさせるようになった髪が、今日は自然におろして分け目だけ作った形になっている。営業サラリーマン一年目。と恵太は思ったが口にするのは葬儀が終わってからにしておくことにした。

自分たちのすべきことは当面、椅子に座って神妙にしておくことらしい。そう悟って恵太は周りの様子を窺った。恵太たちが着いた時はまだ席に空きが目立ち、周囲を恐る恐る見回しながら来賓側のやや後ろの席にしたのだった。それが気づけば、ほとんどが黒色で埋まっている。学制服の数からして、クラスメイト達も全員集まったぐらいだろうか。ほぼ全員が、竜海と違って普段の見慣れた髪型そのままだった。恵太は自分が少数派でないと知って安心した。

会場の中は、学校関係者や担任の呼びかけで全員来ていると思われるクラスメイトで八割方埋まっているようだった。あとは、親族と思われる大人が数人といったところか。唯は高校になってから引っ越してきたから、付き合いは学校内でのものがほとんどだったようだ。

意味もないのに振り向くと、後ろのあまり親しくない女子と目が合ったので慌てて前に向き直った。所在なく目を伏せる。

恵太は物憂げに息を吐いた。通夜や葬式というものは誰が考え出したものなのだろう。なんの法律があるわけでもないのに、わずかでもこの空気からはみ出ると場を乱してしまう気がする。微動だにせず前を見据えたままの竜海を横目で見た。

「なんか、重いな」

「当たり前だろ。葬式だぞ」

 竜海は眉だけひそめ、視線を動かさず答えた。

「そうなんだけど。もっとこう、ラフに死者を見送る会とかダメなのかな。その方が死んだ奴も嬉しいっていうか」

 そこまで言ったところで竜海に横から腿を小突かれ、目配せされた。声に出さず、口だけ『おい』と動いている。恵太としては周りに聞こえないよう十分声を落としていたつもりだったが、それでも竜海はこの場に相応しくないと感じたのだろう。

「でもまあ」

 反省して口を閉じた恵太に向け、意外にも竜海は言葉を続けた。

「唯はその方が喜ぶかもな」

 返事の代わりに微かに頷いて、恵太はまた目を伏せる。唯が何を考えているかなど分からないが、きっとそうだろうと恵太も思う。同時に、『考えている』と現在形で唯のことを捉えている自分の鈍さに驚いた。それだけではない。唯が死んだにも関わらず、この自分の変わらなさはなんなのだろうか。悲しいような、寂しいような気はするがそれだけだ。本当にそれでいいのか、何か大切なことに気づいていないんじゃないか。そんな、よく分からない焦りのようなものは感じるがそれより先に感情は進まなかった。ただ、恵太がどう感じようが事実は変わらない。唯は死んだ。自らの手で命を絶ったのだ。

 なぜ? 竜海も、クラスの連中も、教師も、もしかしたら親族も、その疑問に答えられる者はいないのではないか。唯に何か死ぬ理由があったか? 

本当は、増田から報せを聞いたときすぐにでも竜海に疑問をぶつけたかった。竜海でなければクラスの誰かでもいい。誰でもいいから、そんな理由があるなら教えて欲しかった。

疑問を口にできずにいるのは、怖いからなのかもしれない。自分は唯と、誰よりも一緒にいたつもりだ。理解できない行動も多かったが、それでも他の誰かよりは唯のことを分かっているつもりだった。それがあっさり誰かに答えられてしまったらと思うと、怖い気もする。

『知らなかったの? 小川さんはずっと死ぬほど悩んでたのに』

 そんな答えを耳にしたとき、自分は何を思うだろう。あるいは、いまいち唯の死を悲しむことができていない気がする自分は、一番の理解者なんかじゃないのか。唯が死ぬ直前に言っていた、大切な誰かなら分かるのか。

考えを巡らせ固まっている恵太が我に返ったのは、前の方から若い女の慌てる声がした時だった。喪服の大人たちが何人か、一か所に駆け寄っていく。クラスの女子が立ち上がれずに崩れ落ちてしまったらしい。学生グループの先頭に立って行こうとした、級長のようだった。

それを見て恵太は、葬儀がいつの間にやら焼香まで進んでいたらしいと知った。やり方はさっき、竜海が教えてくれたので大丈夫、のはずだ。

崩れ落ちた級長は、クラスメイトに肩を抱かれ席に戻るか尋ねられていたが、制して焼香の列に並んでいく。

『本気でそんなに悲しいか?』

 言いかけて今度こそ、恵太は押しとどまった。さすがにそんな言葉を耳にしたら、誰もが気を悪くするだろう。

級長の一件以外、焼香の列は滞りなく進んだ。恵太も列に加わり並んだところで初めて、前列の方では女子の一団の誰しもが涙していることを知った。不思議な光景と、不思議な感情だった。級長も含めクラスメイトの誰一人として、唯と親しくしているところを見たことがない。押し込めたばかりの『そんなに悲しいか?』という感想が、また口から出そうになっていた。次第に胸の奥底から、微かな苛立ちが湧いてくる。悪意たっぷりに『お前ら、死ぬまでなんとも思っていなかったくせに』と言ってしまって、この感傷的な空気を台無しにしてやりたくなる。

ただ、それは思いつき程度のものだ。恵太は容易に切り替えて、祭壇の前に立つ。竜海に言われたとおり、遺族に向けてぎこちなく頭を下げた。体を向けて顔を上げ、反対側に向き直るまでの一瞬だが、恵太はどこを見ていいのか迷った。若い家族に先立たれた肉親。特に涙も流していない自分は、泣き崩れ嗚咽を漏らす人もいるだろう方向へ顔を向ける自信がなかった。後ろ暗い気がして、ほとんど遺族側は見ずに焼香台と遺影に向き直る。遺影など見ても、ただの写真であってそれ以上でも以下でもない。今更、唯の顔を写した紙を見ることに意味など見出せなかった。

恵太の思いとは裏腹に、人間というものは無意識のうちに人の目に惹きつけられてしまうらしい。自分の焼香の番が終わり、肩の力が抜けた瞬間に遺影と目が合っていた。なんということはない、よく知っている唯の顔だ。やはり特別なものではなかった。特別なものになってしまったのは、目を見開いて、瞬きをして、恵太をからかって呑気に笑う唯だ。葬儀前に火葬されて骨になってしまったという唯は、もう紙の上でしか笑わない。いちいち気が付くことが当たり前のことすぎて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。

恵太は元の席に戻ると、体全身を椅子に預けて宙を仰いだ。葬式に似つかわしくない、まるで公園のベンチに座る酔っぱらった中年のような恰好だ。もうどうなってしまってもいい、そんな気がして特大のため息に意思を込めた。

「大丈夫か?」

 竜海が顔をまじまじと見てくる。恵太は嘘をつくのも煩わしく、

「なんかもう、死にたくなってきた」

 と答えた。窘められるだろうと予想したうえでの返事であり、竜海が口を開く前に姿勢を正そうとした。

「まあ、そうかもな」

 何が伝わったのか分からないが、竜海は口元だけで呟き、残りわずかとなった焼香の列へと視線をやっている。恵太は拍子抜けして、ゆっくり姿勢を正した後に今度は無意識のため息をつく。

 終わったら、竜海には唯が死んだ理由について心当たりがあるか聞いてみようか。もし何も知らなかったとしても、二人で考えれば何か新しい発想に行き着くかもしれない。それでも何も出てこなかったら? 何かできることがあるのだろうか。そこまで考え、恵太は思い直した。違う。何か出てきたとしても、自分にできることはもう何も無いのだったと。

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