第1章-10

「明後日はなんの日か知ってる?」

 全ては唯が昼休みに言った、この他愛もない問いかけから始まった。明後日は土曜日、六月十七日だ。恵太は唯の思考回路を想像し、ひとつ答えを挙げる。

「分かった、なんか偉い人の誕生日だ」

 唯の目が少し丸くなり、驚きを含んだ。

「おお、誕生日つながりって意味では惜しいかも。でも偉い人じゃないよ。私の誕生日」

 へえ、と恵太は相づちを打つ。何と言おうか考えていると、唯が先に言葉を続けた。

「だから、私の行きたいところに付き合ってよ。今から」

「今から?」

 恵太の問いに、唯はうんうん、と二度軽く頷いた。

 そして、瞬く間に恵太の視界には遊園地の入り口が待ち構えている。本当に来てしまったのか、と学校を抜け出した実感が急に湧いてきた。

電車を乗り継いでニ十分ほど。観覧車があって一番近いという、それだけの理由で唯が行きたいと願った場所だ。恵太は朧気ながら、小学生の頃に家族で来た記憶を思い出す。ゴーカートに乗って両親へ手を振っていたとき以来、身近すぎて意識に上る機会もなかった。

目に入る誰しもが、社会人らしい大人ばかりなことを新鮮に感じていた。初めて見る平日の遊園地は、恵太の記憶の中の、人がひしめき合っている景色とは全く違った顔だった。園内をいくらか散策しただけで、周囲を見れば目立つのは制服の二人の方だ。

恵太は初めこそ後ろめたさを感じて早足になっていたが、だんだん大手を振って歩くようになっていた。綺麗な晴れ空に温められた園内を歩くうちに、周りのことなどどうでも良く思えてくる。よく映えた緑色の木々やジェットコースターから漏れる日差しに目を細めると、森林浴にでも来たと錯覚しそうになった。

「うわ、またジェットコースターがあるよ。乗り比べだね」

 唯が一歩前に進み出て、恵太へ振り返る。待ち時間も無く乗れるものばかりなので、目ぼしいアトラクションを廻り終えるのは時間の問題だろう。恵太は呆れ声で返す。

「そんなに急いでたら、乗るもの無くなるぞ」

「そしたら二周目だね」

 笑う唯は、返事も待たずに行ってしまった。

唯の後を追いかけ、唯の目に留まったアトラクションに乗るという繰り返し。恵太の足取りが重くなってくると、唯がソフトクリームを買ってあげると言う。すっかり子ども扱いになったと苦笑いし、恵太は自分でソフトクリームを買った。唯も買って、二人は白いベンチでまばらな喧噪を聞く。時々はしゃぎながら目の前を走り抜けていく子どもたちを見つけては「学校行かなくていいのかよ」と呟き、今度は自分が年寄りになった気がして笑えた。

ソフトクリームが無くなってからもしばらく、唯はあたりを見回しては、何が可笑しいのか微かに笑っている。耳を澄ませてようやく聞こえるかどうかの楽しそうな声の存在に、恵太は気づいた。それだけ聞いていたくて、自分からベンチを離れようとはしなかった。

やがて唯が立ち上がり、恵太も重い腰を上げる。

再び園内を歩き始めてからも、唯は一番目立っている遊園地のシンボルに目もくれない。観覧車に乗りたいと言って来たはずなのに、何度も乗り場の前を通りすぎた。恵太も観覧車は忘れたことにして、ゆっくり唯のあとを追い続けた。

段々周りの人が入れ替わっていき、幼い子どもや学生の姿も珍しくなくなってくる。中には一つでもたくさんアトラクションに乗りたいと、駆け足になっている人もいる。閉園時間が近いことを感じさせられても、観覧車を無視し続けた。

昔乗った記憶のあるゴーカートのコースに差し掛かり、乗るか乗らないか三度目の言い合いをして、結局乗らないと結論づけた時。唯は両手を腰に当て、辛うじて明るさを保つ空に目を細めた。

「じゃああれ、行こっか」

 視線の先を追わなくとも、他に空を仰いで見上げる必要のあるものなど無い。唯が行きたいと言っていた観覧車だ。近くからだと、頂上のゴンドラはほとんど真上にあるように感じた。

「長い寄り道だったな」

「恵太も案外楽しかったでしょ?」

 否定はせず、観覧車の方へ恵太が先に歩みだした。恵太の頭に、中学の卒業式の光景が浮かぶ。記憶の中で、恵太は同級生と手をつないで歩いていた。式の後に一旦クラスが解散し、卒業パーティーと称して何十人もの集団でファミレスに押し掛けるまでの間。突然、仲の良かった女子に手を引かれた。誰もが別れを惜しんだり変わらぬ関係を誓い合ったりしている中で、どうやって二人抜け出せたのかは覚えていない。誰かに見つかることを避けるように、今日という特別な日が終わらなければいいと願いを込めるように、通学路から一つ脇に入った道をただ手をつないで歩いていた。気恥ずかしさから一転、スニーカーの紐の緩みに気付き、手を離してもいいものかばかり気になり始めた頃だったと思う。その女子が「戻ろう」と言い出し、二人はどちらからともなく手を離した。それから連絡を取り合うこともなく、彼女はSNS上でアイコンが笑っているだけの存在になった。

恵太は空の右手に違和感を覚えた。初めて唯と、学校の駐輪場でした握手を思い出す。今にも手を差し伸べようと頭では思ったが、体は言うことを聞かなかった。一歩ずつ、プログラムされているかのように観覧車へ最短の道を進み、ゴンドラへと乗り込んだ。恵太は気を紛らわせるように、向かいに座った唯へ話しかけた。

「観覧車が好きとか、唯にしちゃガキ臭い趣味だよな」

 ゴンドラが動き出すとともに、微かな浮力を感じて二人は窓の外を見降ろした。

「私? 観覧車は大嫌いだよ」

 恵太はすぐに振り向き、唯の顔を見た。変わらない様子で、ゆっくり離れていく地面を見つめている。

「嘘だろ、わざわざ誕生日の前に、学校サボって嫌いなものに乗りに来たってのかよ」

「そういうことになるかな。乗りたくなったのはほんとだよ。でも観覧車は大嫌い」

「なんだよそれ。観覧車が嫌いってのもよく分かんねえ」

 いくら見ていても唯の調子は変わらないので、恵太は唯と同じように窓の外に視線を戻した。

「観覧車ってさ、止まってくれないでしょ。一番上に着いたってさ、勝手に下がっていっちゃう」

 そりゃ、上で止まられちゃ下のゴンドラはいい迷惑だろう。言いかけたが、そういう理屈ではないらしいことは恵太にも分かったので止めておいた。代わりに「すげえワガママだな」とこぼした。

「そう、ワガママなの」

 唯はなぜか、正解とでも言いたげに恵太の方を振り向いた。

「だからね恵太、こんなワガママなヤツに変な気を起こしちゃダメだよ」

「変な気?」

 つい裏返った声が出る。聞かなくても、意味は分かる。唯もそれを承知のようで、答えずに小さく笑った。たまらず恵太は言い返す。

「バカだなお前、よく自分で言えるなそういうこと」

 今度はしっかり声を出せた。

「そう? 高校生が二人っきりで観覧車に乗ってたら、変な気になっても不思議じゃないと思ったんだけど」

「それは何の本で読んだんだ? 心理学か?」

「ううん、私がそう思っただけ。あ、すごい、けっこう車走ってるよ」

 唯が園内の外周を沿うように走るゴーカートのサーキットコースを指さす。距離があるせいか、あまりスピード感は感じない。目線を広げれば、園内だけではなく近隣の住宅街や山も見下ろせる。山はまだ近くて、遊歩道や簡素な展望台も見つけられた。

「不思議じゃないの?」

「ん?」

「なんでわざわざ、学校を抜け出して今日来たか」

 ああ、と心ここにあらずな返しになった。まだ、恵太の頭の中は『変な気』という言葉から逃れられていなかった。さっき唯と手をつなごうと思ったと言ったら、唯は笑ってくれるだろうか。

「明日はね、約束があるの。誕生日の日も、会うのは難しくて」

「忙しいってことだな」

 急に始まった恵太には関係のない話に、興味が無いことを強調して言った。唯は動じる様子なく続ける。

「明日はね、一番大切な人と過ごす約束なんだよ」

「なんだよ、彼氏できた?」

 恵太は、抑揚なく言った。自分には関係ないはずだ。そう思うとともに、こみあげる胸のざわつきを消し去れない。

「さあ。ね、最低でしょ。恵太は二番目に大切だから今日なんだよ。こんな奴のこと、もう気にしなくていいから」

「なんだよ、俺フラれてる?」

 唯は俯いて首を横に振った。唯の言いたいことが理解できず、恵太は外の景色へ視線を逃すことしかできなかった。

 終わりが来ないとも思えた、長い沈黙を破ったのは唯だった。

「もうすぐ一番上だね」

 観覧車は音もなく回り続け、二人を高く運んでいた。地上よりも空の方が近いのではないかと思える。大切な人とやらについては、唯が言い出しておいてそれ以上話す素振りもなかった。かと言って景色を見て薄っぺらい共感でお茶を濁す気にもなれない。恵太はできるだけいつもの二人の空気に戻ることを願い、話題を探した。

「ていうかお前、なんで急に嫌いな観覧車に乗る気になったんだよ」

「今、ここで爆弾が爆発したらどうなると思う?」

 求めた答えとは全く関係のない質問。不意をつかれ、文句を言うより先に答えを考えてしまう。

「どうって、死ぬだろうな。爆発で死ぬか、落ちて死ぬか」

「そこまで強い爆弾じゃなくて、煙が出るだけぐらいの感じで」

「それって発煙筒とか?」

「そうそう、それぐらい」

 思いがけない方向で普段通りの会話になってきていた。唯の突飛な発想に、恵太が答える。何気なく繰り返してきた、恵太の好きな時間。

「発煙筒なら、死にはしないな。運転が止まって助けを待つぐらいにはなるかもな」

「お、恵太も私と同じ答え。というわけで」

 唯は手探りで何かを探し当てようと、自分の鞄の中に手を入れた。

「お前、冗談だろ」

 唯なら、発煙筒ぐらい調達するか作るぐらいはしてしまうのではないか。嫌な予感が頭を掠めて、恵太は前屈みで唯の鞄を覗き込もうとする。

「じゃん」

 勢いよく上に突き上げた唯の手は、まっすぐ指があるだけで何も持ってはいなかった。

「あるわけないじゃん」

 唯が無邪気に笑う。恵太は半日分の遊び疲れにも押し出され、そのまま腰が抜けたようによろける。二人掛けの椅子の、唯の横にもたれた。ゴンドラが揺れ、動きを小さくしようと努める。

「お前が言うと冗談に聞こえないんだよ」

「本当は止めてやろうと思ったんだけどね。一番高いところで。それが、今日観覧車に乗りたかった理由」

 唯は冗談とも本気ともつかない、微笑みを浮かべたままだった。

「ドラマとかでさ、このまま時間が止まればいいのに、なんてよく言うでしょ。私はそれが今思ってることだよ」

 隣り合って座ったからだろうか。言葉を失くした数秒が、今までよりも逃げ場のない沈黙を主張する。恵太はちぐはぐな頭でなんとか言葉だけ繋げた。

「明日、一番大切な人と会うくせに何言ってんだよ」

「ほんと、そうだよね」

 恵太は否定してほしかったという、自分の淡い期待の存在を知った。どういうわけだか唯も浮かない様子で、小さな鼻が微かに鳴ったと思った。

「やっぱり観覧車は嫌いだな。全然止まってくれない」

「当たり前だろ。ここで止まったら下の人たち可哀そうだし。帰りはどうすんだよ」

 さっきは飲み込めた言葉を、今度は言ってしまった。唯が訳の分からないことばかり話すせいだ、ということにしておきたかった。唯も今度は、はっきり恵太に聞こえる大きさで鼻を鳴らした。唯の不満を嘲笑うように、ゴンドラはいつの間にか頂上を過ぎて下りに入っていた。

「知ってたんだけどさ。止められないって。これ以上恵太に迷惑かけられないし」

 恨めしそうに唯は外の景色を見た。恵太も同じように、反対側の窓に目をやる。言葉を失くすと、沈黙とともにまたあのざわつきを感じずにはいられなくなる。唯が明日会うというのは、どんな相手なのだろうか。唯は、なぜわざわざそのことを、こんな意味ありげな場所で自分に話すのだろうか。延々続く街並みの端に見える空と地の境も、立ち並ぶビル群も思っていたよりも広く見える園内も、恵太の脳裏には何も与えてくれなかった。

 恵太の物思いを止めたのは、すぐ隣からする嗚咽を噛み殺すような声だった。

「唯?」

 いつの間にか、唯の横顔に大粒の涙が溜まっているのが分かった。声をかける間もなく、頬をすべり落ちていく。

「馬鹿だよね。知ってたのに、何がしたかったんだろう」

 唯の声の震えがどんどん強くなっていくことが分かる。声だけではない。まるで凍えるように、肩も震わせ身を固くした。

「どうしたんだよ。俺がつまんないこと言ったせいか?」

 訳も分からず、恵太は泣きかけの赤子と対峙したように慌てふためく。唯はすかさず首を横に振った。

「優しいよね、恵太は」

 と掠れた声で言うと、「これは私がワガママだから泣いてるだけだよ」と続け笑顔を作った。唯の目がくしゃっと形を変えると、また大きな涙が落ちる。

「生け贄の話なんだけどさ」

 息を吸い込み、唐突に発せられた唯の言葉が、恵太には一瞬うまく認識できなかった。思い直し、唯が恵太と竜海に課した生け贄という役目のことだと分かった。

「ごめんね、めんどくさいでしょ」

「今更だし、どうしたんだよ」

 今になっても、何が生け贄なのか恵太も恐らく竜海も見当がつかないままだ。幽霊にかかるという電話番号も、何度か試したが音沙汰は無い。ただ、まとわりついて離れなかった疑問も、この場で重要なこととは思えなかった。

「ごめん」

 今度は恵太に向き直り、項垂れ、また涙を落した。唯のスカートに粒が落ち、染み込んでいく。

 歯痒さを、恵太は両の拳に込め握りしめた。唯は大事なことはいつも隠している。自分だけ分かったような口を利いて、人を振り回して、今度は何に謝られているのかも分からないままに謝られて。それでも恵太は、唯の涙が止められるのなら、肩を抱き寄せたいと思う。手を握りたいと思う。これが唯の言う『生け贄』の行く末ならば、大した趣味の悪い遊びだ。また笑って話せるようになったら、どれだけ時間がかかってでも、いつかきっちり説明してもらおうと心に決めた。

下り終えた観覧車は、無言の二人を追い出すように扉を開いた。電車に乗って、二人並んでそこにいるだけの帰り道。観覧車の続きのように、二人掛けの席に座っていた。窓の外を走る空は、恵太の予想に反して夕暮れが訪れる気配もない。恵太と唯は交互に口を開いては、遊園地の感想も、吊革広告から見つけた話題も途絶えさせ消費していく。

「いい加減もう普通に戻ろうぜ」

 唯が返事の代わりに、ゆっくり恵太の方を振り返る。すべて元通りになる魔法の言葉を探して、恵太は口を開いた。

「いいよ」

 唯は、不思議そうな視線を恵太の目から離そうとはしない。

「許すよ。何に謝ってんのかもしらねえけど。お前が謝ってることも、生け贄の件も全部。だから、謝るとかめんどくせえこと考えるの、やめろよ」

 電車が止まって、乗客が入れ替わる。降りる人が次第に増えて、一駅ごとに空席が増えているようだった。唯が降りる駅まであと七駅か八駅だったろうか。黙ったままの唯は、人を吐き出し終え扉が閉まったのを合図にしたように、「うん」と呟いた。

「ごめんね」

「だから、謝るなって言ってるだろ」

「うん、今ので最後」

 目を合わせて笑った。恵太は張りつめていたものがふっと緩むのを感じた。

「許してもらうついでに、もう一つだけお願いしていい?」

「無謀なやつじゃなきゃな」

 唯は小さく吹き出しそうになってこらえた様子だった。何が面白いのか、聞いても教えてもらえない気がして気づかないふりをした。

「やっぱりやめた。家まで送ってもらおうかなって思ったんだけど、もう十分付き合ってもらったし」

「なんだそれ」

 唯の家は、確か駅から降りてそれほど歩かないと聞いたことがある。送るぐらい、造作もないことだと思ったがそれ以上唯が言わなかったので恵太も触れなかった。唯が遊園地のことを話し始めると、今度は思い出したように、いつもの二人の掛け合いが止まらなくなる。

七つ目の駅で立ち上がり、「バイバイ」と振り返る唯を見送った。空いたままの隣の席を見つめながら、まだしていないアトラクションの話があったことに気づく。唯が観覧車を嫌いと言った理由が、今なら少し分かる気がすると恵太は思った。

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