第1章-2

 待望の昼休みに、恵太は勝ち鬨を上げるように伸びをした。ようやく掴み取った開放感。その日は月に一回程度の周期でやってくる、恵太が持てる力のいくらかを授業に注ぐ日だった。より正確には二日ぐらい前から。

学期が始まってから中間テストまでのさらに中間点である今日、英語のミニテストが行われた。親のため息などの面倒ごとを防ぐよう、悪目立ちしない程度の成績を収めることが恵太の目指すところだった。そのために要所でだけは復習をし、普段の授業中は眠り続ける権利を勝ち得ている。ひとまず今回も、及第点といえる六割は取れているだろう。

「玉田のやつ、マジで宣言通りの問題出してきたな。最高だよ」

前の席の古橋が半身で振り返り、恵太の机に肘をかけてきた。同意を求められても、恵太は心当たりが無くオウム返しになる。

「宣言通り?」

 状況を掴めていないことが明らかな言葉に、古橋はわざとらしく口をすぼめ、手を仰いでおどける。

「うわー、いたー。玉ちゃんトラップに引っ掛かる残念な奴」

「なんだよ、トラップって」

「あー、ガチじゃん。マジで知らないやつじゃん」

 恵太の疑問には答えず、通りかかったクラスメイトに声をかけてまで言いふらし始めた。反応の声が響き、それを聞いてまた好奇の目をした連中が囃し立ててくる。さすがに苛立って、恵太は古橋の椅子を爪先で小突いた。

「なあ、教えろって」

 古橋はもったいぶりながらも、恵太に同情のこもった目を向けながらネタばらしを始めた。

曰く、今日のミニテストで出たいくつかのところは、英語の担当教諭の玉田が授業の中で予告をしていたところだったらしい。その程度のことの何が、古橋たちを盛り上げているのかが分からない。

続きを聞いて、ようやく恵太はことの重大さを知ることになった。玉田は、声も体も小さく気が弱そうで、恵太たちと比較的歳が近いため「玉ちゃん」と勝手に生徒から呼ばれるような教師だ。その授業風景は無風。クラスの地味な女の子が嫌々教壇に立たされているような悲壮感があり、困らせるのは可哀そうという空気が流れていた。だから、スマホを見たり寝たりしている奴が大半とはいえ、授業が誰かに妨害されることもない。この構造は、玉田との暗黙の了解がとれていると誰もが思っていたが、実際は違ったそうだ。実は授業を聞いていない生徒を、玉田は決して良しと思っていなかったらしい。かといって面と向かって生徒に注意できない中でとった作戦が、例のトラップだ。

『予告したところは必ずそのままミニテストに高い配点で出す。その代わり、間違えたら追加のレポートを課す』という玉田の宣言を、誰かが「玉ちゃんトラップ」と名付けたらしい。祈るような気持ちでそのトラップとやらの対象問題を聞いたが、どう贔屓目に考えても何問かは間違えている。「ドンマイ」と肩を叩いて散り散りになっていく連中を背に、恵太は教室の一番後ろの席に向かった。

「お前、玉ちゃんトラップの話知ってた?」

 顔の前に掲げるようにしていた本が下がり、恵太を見上げる唯の目が現れる。罰の悪そうな上目遣い。恵太は早々に答えを悟った。

唯の前の席の主はどこかへ行っているようだったので、机に寄りかかって唯を見下ろす。

「あ、その感じは、やっちゃった感じ?」

 控え目に眉を上げる唯に、不満をぶつけようとしたところを後ろから抑えられた。両肩を乱雑に掴む感触が、振り返らなくとも相手を連想させる。

「よう恵太。レポート確定だって?」

 親しみとからかいが込められた厚い手で、木田が肩を鷲掴みにしてくる。唯にぶつけようとしていた不満そのままに、二人へ声を荒げた。

「お前ら、なんで教えてくれないんだよ」

 恵太と唯が握手をしたあの日から、気付けば一緒にいることが多くなっていた三人だ。

恵太は実際のところ、唯と友達になると了承したもののどう接するべきか戸惑っていた。なにせ、唯は恵太以外の友達はいらないと真剣に言う。本当に恵太としか交流をもたなかったら、クラスの連中はどう思っていただろうか。

「いくら恵太が寝てるのが当たり前だからって、まさか知らないと思わなかったんだよ」

 恵太の心配の解決にこの、ふんぞり返ったまま釈明している竜海の存在は一役買っていた。唯が恵太と二人だけで行動を共にするのと、竜海も含めた三人で過ごすのでは傍から見た印象が随分違っただろう。突然他人とつるむようになった唯に、不思議そうな視線を向けてくる奴もいたが、何日かすれば誰も疑問をもたなくなった。小川唯は人付き合いを多くするタイプではないが、坂井と木田のグループに属することにした、という評価が定着したらしい。

「ん、その様子じゃ唯も教えてなかったのか?」

 言って竜海は恵太の肩を解放し、唯の方を窺った。

「まあ、ね」

苦笑して視線を逸らす唯の次の言葉に、恵太は注目した。ついでに竜海にも当たっているが、本心では唯を問いただしたかった。この二日間、恵太にテスト対策を教えると買って出たのは唯なのだから。

「教えてもよかったんだけど、それだと勉強にならないかと思って。あんな簡単なところ、まさか間違えないと思ったし」

 暗に、そこまでできないと思わなかった、と言われているようで恵太は項垂れた。馬鹿にしているのではなく、唯は心底予想外といった面持ちで唇を尖らせている。

「完全にミスだ。教えてもらうやつを間違えた。やっぱ竜海にしときゃよかった」

 自分の読みの甘さを呪う。思えば、唯は来る学校を間違えているのではと思うほどの成績優秀者だった。授業中、関係のない小説などを読みふけっているだけのくせに、当てられて答えに詰まったり間違える場面は見たことがない。恵太がそのことに触れると、前の学校ではとっくに終わっていた範囲だから、と涼しげに答えていた。小学校からの付き合いである竜海なら、恵太の平々凡々な学力を察してトラップのことも教えてくれていただろう。

「ごめんごめん、レポート手伝うからさ」

 唯はあしらうように助け舟を出して笑った。レポートに関しては、竜海と一緒に悪戦苦闘するより唯の知識を頼った方が良さそうだ。恵太はあっさり前言撤回し、再び唯に手伝ってもらうこととなった。

「よし、レポートのこともなんとかなりそうみたいだし、飯食おうぜ」

 竜海が待ちきれないとばかりに、自分の席へ弁当を取りに向かおうとする。恵太は呼び止め、唯と売店に行ってくるから待ってほしいと告げた。普段は弁当を持ってくることが多いが、母親のパートが早出の時はパンなどを買って食べるのがほとんどだ。唯はいつも決まって売店なので、最近は恵太も買って食べるときは一緒に行くのがお決まりになっていた。

「至急な」

 急かすような言葉に反し、竜海はスマホに目を落としてすでに画面の中に意識を向けているようだった。

「竜海って、意外と体育会系じゃないよねえ」

 売店に向かいながら、唯が肩をすくめる。中学生になったころから、竜海がゲームと漫画とアニメに情熱を注いでいることを知っている恵太からすれば、意外でもなんでもない。今だって、スマホのゲームでもやっているんだろう。お陰で多少の時間は気兼ねなく待たせられる。

「最初は絶対キャッチャーだって思ってたんだよ」

「キャッチャー?」

「そう。部活やってるのかとか知らないけど、きっと打てて守れるキャッチャーだって。それで、意外に足も早いの」

 唯は歩きながら、架空の竜海の選手像を身振りをつけながら説明している。時々熱が入って恵太に遅れ、小走りになっては追いついた。

「唯って野球も詳しいのか?」

 野球も、と言ったのは唯の幅広い知識を引き合いに出してのことだ。学業面も含め、唯は雑学豊富というかマニアックというか、漠然と生きているだけでは到底知りえないような情報をよく知っている、ということが最近になって分かった。

「私に知らないことなんてないからね」

 小走りの流れのまま恵太の前に回り込んで、不敵に笑ってみせてくる。実際は、唯本人が言っていた話だと無数の本を読んでいるうちに身に付いた知識らしい。好奇心に駆られるまま目に留まったものを読み、気がつくと頭の中に入っているそうだ。恵太と一緒に帰ったあの日は、人体解剖図鑑や病理学など、小難しい本を大量に借りて帰っていた。医者や看護師になりたいわけでもないとのことで、つくづく変わった奴だと恵太は思う。

「ほんと変な奴だな、お前」

 恵太が呆れたように言ってみせると、なぜか誇らしげに

「そう、変なんだろうね私」

 と笑って返してきた。自覚はあるのかと思い、恵太は少し不思議な気分になった。唯の、行動と思考の差が腑に落ちない。

三人が話すようになった当初も、唯の言動には困惑させられた。教室で当たり前のように話しかけてくる唯に恵太が応じていると、周囲の視線をよそに竜海が会話に入ってきたのだ。唯に何も聞かず接したのは、歓迎の意を込めた竜海なりの気遣いだったのだろう。唯の方は、新しい仲間ができて喜ぶ、といった反応ではなかった。どこかよそよそしく、受け入れるべきかを迷うような態度。業を煮やした恵太がどういうつもりか問いかけると、唯は謝り、「私と仲良くなるのは生け贄だって言ったでしょ?」「やめた方がいいと思うけど、二人がいいなら友達が増えるのは嬉しいよ」と続けた。恵太と竜海が目を合わせて、意味が分かっていないのはお互い様であることを確認しあってから今日まで、三人の日々は何の波乱もなく続いている。

生け贄という物騒な言葉が意味するところは恵太と竜海には考え付かず、非現実的な響きすぎて気にも留めなかった。

自分と仲良くなりたがる奴はいないと、唯は言っていた。そんな妄想じみた、痛々しい決めつけをするほど浮世離れした人間かというと、そこまではズレていないと思う。だが事実、唯は頑なに恵太と竜海以外とは関わろうとしていない。目の前にいる、奔放に振る舞う姿と、やたらと閉鎖的な人付き合いの仕方が結びつかなかった。

考えた答えは出なくとも、食料は滞りなく調達でき教室に戻る。出たときと変わらない、場所と姿勢でいる竜海を見つけるのは簡単だった。唯もまっすぐ席へ向かっていく。

「竜海は、キャッチャー系男子に降格だね」

 ん? と小さく声を上げると、竜海は何度かスマホを指で弾き、名残惜しそうに画面から目を離した。

「なんだって、何が降格だ?」

「竜海が思ったより全然動かないからキャッチャーは失格。でも性格と見た目はキャッチャーの素質があるからね。キャッチャー系っていう称号は与えられるかな」

 竜海から恵太へ、助けを求める視線が送られてくる。恵太は、大丈夫、俺も分からない、と手で制した。

「残念だったな、キャッチャー系男子」

 意味など分からないが、恵太は竜海に声をかけた。 

「なんだよそれ、そんなことより早く飯食おうぜ」

「さすがキャッチャー系、動いてないけど一番腹減りキャラだね」

 竜海の筋肉質なガタイは、今後もスポーツに使われることはないだろう。そんなことは本人の自由なのだが、言いがかりとも思える唯のネーミングが妙に納得できて、恵太は笑いを噛み殺した。

「うるせえよ。ゲームだって腹減るんだぞ」

 言いながら竜海はにやけてしまい、唯も満足そうに笑っている。いずれ課されるだろうレポートの存在が引っ掛かりながらも、他はここ最近の日常的な光景だった。恵太と唯が握手をしたあの日から、少しずつ恵太の退屈は減っていっていた。

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