真名神代伝

ブーカン

第一章 魔名なき者たち

少女とネコ クシャ編

名のない少女と神代の遺物 1

「すみません」


 少女は畑のきわから、女性に声をかけた。


「……ン?」


 中年の女は、うねの表面に掘り起こした根菜を拾い上げては「ハぎょう去来きょらい何処いずこか」に放り込む、畑仕事の最中であった。収穫作業はそのままに、顔だけを声の主の方に向ける。

 

「あんれ……」


 農作業者は手を止めて上体を起こすと、ひとつ伸びをした。そうしてあらためて、声をかけてきた相手――少女の姿に目をみはった。


「えらく……可愛い娘さんだこと」


 褐色で薄手の半纏はんてんに、濃紺で膝丈までの穿き物。裾が広がって動きやすい、標準的な旅装姿である。そこからは四肢がスラリとしなやかに伸び、小柄ながらも均整のとれた立ち姿。腰に下げた長物は、旅における自衛のための得物なのだろうとは女にも察しがつく。

 光の当たり具合で金にも銀にも見える、色素の薄い髪。腰のあたりまでありそうな長髪にはクセがあり、フワフワとした羽毛のような触り心地を予想させる。

 ともすれば、冷淡な印象を抱かせかねないほどに美しく整った面相。しかし、少女が絶やすことなく浮かべている微笑みと、それによって作られるえくぼは、彼女の纏う雰囲気にほどよい愛嬌を加えており、そのような心配は必要がなさそうだった。


「なんだい? どうかしたのかい?」


 女は自身も満面の笑みでもって少女に問い返す。

 少女がひとつ瞬きをすると、そのまつ毛の長さ、そして瞳が深紅であることにも、女は気が付いた。


「この里には今、『オ様』はいらっしゃいませんか?」

「『オ様』っていうと……、『名づけ術』の『オ様』かい?」


 「はい」と少女は頷く。


「いんや。今はどの『オ様』も、このクシャにはおわしていないはずだね……」

「そうですか……」


 落胆する少女の様子に、女は彼女に歩み寄ると、「私はヒ・ミカメ」と言いながら手の甲を少女に差し向けた。

 これは「魔名まな教徒」の間での挨拶儀礼である。多くの「魔名術」は手の平から起こされるものだから、相手に手の甲を向けることで、「私に敵意はなく、私の魔名も包み隠さずお伝えします」と親愛の意味が込められているのだ。

 対する少女も自身の右手の甲を女に向けるが、自らの「魔名」の披露までには至らず、どこか言い淀む様子である。

 そんな彼女に、女は「ふふ」と笑みを零す。


「アンタ、『魔名』がないんだろう?」


 少女は深紅の瞳を丸くして、パチパチと瞬きをした。


「わ……、判りますか?」

「『名づけ術』師なんて放っておけばそのうちやってくるのに、わざわざ探してるってことは、何か訳アリだってのはすぐに判るさ。それに私も『未名みな』が長かったからね。なんとなく判ったよ」


 「未名」という言葉に少女は身体をピクリと強張らせたが、目の前の人物が過去に自身と同じ境遇であったことに感じ入ると、その強張りもすぐ解かれたようだった。


「アンタの『仮名かな』は?」

「……ありません」

「そうかい。もしかすると、『未名』って呼ばれるのも……」

「キライ……なんです……」


 少女が遠慮がちに言った言葉に頷くと、女は少女の手の甲と自身の手の甲を触れ重ねた。ここまでが「魔名教徒」挨拶儀礼の一連であった。


「判るよ。私も『ミナ』って呼ばれるのはどうにも嫌いだったんだよね。周りも『未名』の子が多くて、みんな『ミナ』って呼ばれてて……。ひとくくりにされてるようで、気持ちが悪くて、ね」


 「ホラ」と畑そばの道が続く先、木柵に囲まれた建物群を女は指し示す。


「クシャはすぐそこだ。小さいけれど教会堂もある。何か『オ様』について教えてくれるかもしれないから、寄っていきな」

「はい。そうします」

「私だって『ハ行去来』なんて便利な『魔名』をいただけたんだ。そう遠くないうちに、アンタもきっと、いい『魔名』をもらえるよ」


 「ありがとうございます」と、少女は深々とお辞儀をした。


居坂いさかともがらに、魔名よ、響け」


 女はクシャへ歩みゆく少女に向かって、「魔名教」の加護の言葉を捧げた。

 道々、少女は振り返る。

 加護をくれた女性が見送ってくれているうちも、豆粒のように小さくなって、農作業に戻った様子になってからも、そうして振り返っては何度も大きく手を振った。

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