三、放浪者 1


《西暦一八七年 十二月 後漢ごかん 青州せいしゅう平原国へいげんこく


 鈍色の空の下、積雪に埋もれた麦畑の、合間に伸びた狭く細長い畦道を、無数の男たちの成す行列がひしめき合って移動している。彼らの衣はほとんど色褪せ地味であり、僅かな正規兵を除いては、官軍の証である赤い鎧も身につけていなかった。鮮やかな服の着用を禁じられ、『白衣』と呼ばれる無位無冠の人々である。

 そんな白衣と赤鎧の斑らの中に、その男は一際目立って在った。馬上に揺れる耳飾り、雪原に映える蒼外套。豪族劉子平の推挙を受け、五百余で構成された騎兵一曲を率いる劉備である。学歴と武勇を買われ、州従事(副官)率いる青州軍七万に従事属官の一人として参じていた。


 葭月かげつ(旧暦十一月)を迎えても、事態は一向に好転していなかった。

 獣が幽州全土を侵略し、海を超えて青州にまで侵攻している。張純と手を組んだ大人たいじんの一、しょう王を自称する遼東りょうとう烏丸の蘇僕延そぼくえん軍五万である。冀州の渤海郡ぼっかいぐんに上陸し、隣接する内陸の青州平原にまで侵入していた。対し朝廷は相次ぐ乱による兵力不足に悩まされ、軍を派遣する事なく、青州六郡の監察官たる刺史にこれを迎撃せよとのみことのりを下した。

 後漢王朝の世祖光武帝は統一後軍備の縮小に務め、獣と接す辺境や政争起る中枢以外に長き平和をもたらした。かくして軍事を司る将軍は非常職となり、徴兵制度は廃れ、広域を管轄する刺史は集権を防ぐべく軍権を持てない。募兵で確保された青州軍は豪族私兵の流民やならず者が大半を占め、言葉の通じぬ者も多い中、調練も十分とは云い難かった。

 劉備は渋い顔で前方を見据えた。向かい風に吹雪が混じって視界が悪く、赤鎧に囲まれた指揮車の傘でさえ伺えない。騎兵は機動に特化した特殊部隊で、殆どが軍の端に布陣する。陣を畳んだ行軍で従事からは更に離れ、前の部隊の調子に合わせ進停を繰り返していた。斥候に先を探らせ安全を確認してから進む、大軍の行軍とはそういうものだ。従事は将軍ではなかったが、刺史の任じた人物なだけあって、軍事の基本はそつなく守った。

 故に奇襲を受けたのは、彼に落ち度があったというより、敵が戦に巧みであったのが大きかっただろう。

 後方から数人の騎兵が駆け抜けた。辺りはまだ静かだったが、鎧を着て背にやまどりの羽根を挿した彼らが連絡兵であったことと、その手に握られた木符の長さを垣間見て、劉備は密かに敵の出現を知った。一尺五寸(約三十五センチ)は襲撃の報せ、自軍に定められたある位以上の者しか知らない暗号だ。

 騎督(騎兵大将)の指示に従い、曲長(騎督の下、隊を複数纏める支部長)の劉備も手下を纏めた。ややあって戦を報せる鏑矢かぶらやの音が、涼原に飛ぶとびの声に似てぴゅーっと鳴り響き、騎兵が素早く前後を入れ替え位置についた。歩兵の布陣は遅れていた。報せは後方から届いたのだ、斥候の報を受け全軍が目指していた平原北部と逆である。行軍中にも再三飛ばした斥候が、皆一様に敵の位置を違える訳も無く、つまりそれは獣が既に幾手かに別れていて、平原深くに入り込んだ一団が青州軍の背後を突いて攻め寄せて来たことを意味していた。

 胡の強みだ。機動に優れ、戦線の展開が広い。全数では勝る青州軍だが、斥候や連絡の要になる騎兵は五千に満たぬ。対し胡は全軍が騎兵で構成され、情報戦でも敵の優位に立ち易い。青州軍の索敵をすり抜け奇襲を行うのも可能だろう。

 粉雪混じりで白濁した視界の奥に、粟粒より小さい胡軍の陰が蠢いていた。騎督の隣で副官が龍頭の象られたのぼりを挙げる。棚引く赤い房飾りを目印に、劉備ら曲長が直後に陣取り、その後ろに一般兵も並ぶ。騎兵の頭は隊の先導役だ。最も功名の機が多く、そして最も死に近い兵。劉備は手綱を強く握った。酒で温めたから、手はかじかんではいなかった。将旗が掲げられ、太鼓の合図が響き、青州騎兵は奔り出した。

 弧を描き、獣を囲うように両翼が動く。準備を終えた一部の弩兵が後から援護の矢を飛ばした。騎数では劣るから背後を突いてやろうという試みだ。遠く向こうも横に陣を広げ、妨害を試みる。だが追いつけないようだった。胡兵を引き離してゆく。鮮卑も背後についているのか、烏丸兵は重装のようだった。此方は殆ど軽騎兵、機動では勝っている。弓の射程にも入っていない。

 囮に引きずられた烏丸の陣形は遠目からでも間延びして見え、一押しすれば崩れそうに思えた。歩兵が進軍を始める。騎兵隊が遠く胡兵の陰とすれ違った。吹き付ける寒風は草原の風より幾らか温い。前の騎督が前傾の姿勢を更に深め、劉備は一瞬振り返った。一番近くにいたはずの関羽は少し遅れていて、田豫が真っ直ぐ此方を見ていた。張飛はどうにか食らいつき、簡雍は青白い顔で縮こまっている。騎射のできる者達が弓を構え、全騎兵が弓の射程距離に入ろうとしたその時——不意に、左隣の曲長が消えた。

 落馬したのだ、と気付いたのは、彼が地に落ちる音を後ろに聞いてからだった。劉備は咄嗟に身を屈める。頭上に風切り音。右方で地に吸い込まれてゆく男の側頭に、白羽の矢が突き立っていた。

「離れろ、離れろ!」

 鳴動する蹄音が騎督の声を掻き消した。副官が太鼓を鳴らし全体に報せる。身体を右に傾け馬を操り、ひとまず離脱を試みた騎兵たちへ、しかし矢は飛翔音を伴って射程外から降り注いだ。矢雨が血潮の川となる。馬蹄が一度鳴るたび一人が消える。曲長も減り、とうとう騎督が撃ち落とされ、先導者の失せた騎兵が思い思いの方へ散開し始めた。

「散るな!」

 劉備は弓を捨て手綱を強打した。疾駆し数千の騎隊の真っ先に立つ。向かい風が耳元でうねり、嵐の雄叫びを思わせた。数瞬後、劉備の身体は弾き飛んだ。横からの衝撃、それも嵐に似ていた。前転して受身を取り立ち上がろうとしたが、脳髄を穿たれたように身体が痺れて動かない。左腕に矢が生えていた。脇腹にも一本。へし折る最中、血で手が滑って傷口を広げる。痛みは存外無かったが、露出した黄土の傍に滲み出た血が、禿げた積雪を溶かして膝下に赤い池を広げていた。

「兄貴!」

 咄嗟に引き返す手下へ

「ばかっ。寄るな」

 と劉備は叫んだが、掠れて届かず、中には下馬して助け起こそうとする者もいた。曲のほとんどが劉備より年少の若者で、彼らにとって頭は精神の支柱なのだ。それが皮切りになったのか、それとももう終わっていたのか。気付けば騎兵隊は、空に掻き消えていく煙のように、戦場のあちこちへ霧散していた。

 劉備は剣を支えに立ち上がり、後方の戦線を仰ぎ見た。攻めていた歩兵が退いている。胡兵は遠方から矢を射て青州軍を圧迫していたが、やがて一部が数隊に分かれ動き出した。それは劉備の焦点の定まらぬ視界の中で、点から塊になり、塊から蠢く影になり、刀を振りかざした獣の群れとなって、哀れな兵たちを切り捨てながらこちらへ向かって来た。

 劉備は即座に指示を飛ばした。喉に血の泡が薄い膜を張っていて、振るった腕に身体が振り回されよろめいた。縦長の革盾を用い、陣とも呼べぬ粗末な円陣を作らせる。囲まれるのとほぼ同時だった。獣が押し寄せる。馬上からの斬撃を、屈んだ張飛が反り返った盾の上部で上手く流した。重なった盾の間から、騎兵の影が覗く。

「矛で突け!」

 劉備は叫んだ。涎と血と汗が空中に飛び散った。田豫が吠えて隙間から刺し殺す。急拵えの戦法を全員が真似し、これで耐える他無いと心を決めるも束の間、鹿毛馬の体当たりにいとも簡単に崩された。取り囲まれ絶望的な混戦になる。

 傷を抑えふらつき、朦朧とする劉備の頭を、強い違和感が苛んだ。烏丸は果たして、こんな戦をしていたか? 軽やかに駆け騎射で制圧する、それが彼らの常套手段だ。白兵戦もあるにはあったが、この積極的な突撃は、胡の戦というより——。

「玄徳っ!」

 逃げ惑う簡雍の叫びが劉備を我に返らせた。足で敵を突き破って来た関羽が追い縋る馬の脚を両断する。落馬しそれでも簡雍の背に刃を向ける獣を、劉備は横から蹴り飛ばした。剣を振る力は残っていなかった。敵味方の白刃が四方で煌めいている。光の尾を引いて奔り抜ける獣の刃に、隣の男の首が跳ね飛ばされた。崩れ落ちる頭の無い屍、鉄の奔流に飲まれ消える。退路も失せ追い詰められた騎兵たちの、飽和する血飛沫と断末魔を清めるように、雪だけが無情に降り注いでいた。

 それは紛れもなく、古の時代から辺境で行われてきた殺戮の姿だった。漢人を数千年間苦しめ、胡が獣と渾名されるようになった所以であった。中華の内に広がるこの光景に、劉備は漢王朝に迫る滅びの影を垣間見たが、偶然目にした光景に、最期の足掻きと作り直した円陣の中心から一歩踏み出た。円はもう二周りも小さくなっている。

 胡兵が、馬上から何かを捨てていた。また、同じものが近くで見える。弩だ、弩を捨てている。矢が上手く装填できなかったのだろう。劉備の顔色が、この戦で初て目に見えて変わった。そうだ、騎隊は弓の射程外から穿たれ、己は馬上から弾き飛ばされた。弓の威力ではない。弩だ。遠方から弩で敵を威嚇し、引き寄せて騎兵の突撃で殲滅する漢の戦だ。胡兵が、漢人の戦をしている。

「漢人のッ」気付けば盾の壁を掻き分け、劉備はがなっていた。「漢人の真似なんかしてんじゃねえ!」

「頭! だめだ!」

「てめえらは何だ、何者だ! 故郷を失い、栄華を失い、最後に残ったものさえ失えば、己が何者でも無くなると何故解らん!」

 着衣を掴む誰かの腕を劉備は忘我と振り払った。あの勇壮で美しかった北の獣が妙技の騎射を捨てた手で、誰しも扱える弩の引き金を引いている。決して汚してはならぬものを、自らの手で汚している。それは死より恐ろしいことだ、と思った。

 かつて墨子は云った。鬼は居ると。実在しようとしまいと、どんな理由で生れたにせよ、人が何かに鬼を見た。だから居るのだと。魂も同じだ。生き方を受け継ぐというのは、故人が生きて居た証を守り続けるということだ。それを放棄することは、死人の尊厳を踏み躙ってもう一度殺すことと同じなのだ。ならば抗え、と云われた気がした。誰に。赤龍か、祖父か。それも分からぬ。だがしかし、劉備が抗わねばならぬことだけは確かだった。叔父や母と同じ道を辿らぬため、劉雄の孫で在るために。仇に抗え、殺し返せ。殺せずとも、せめてそのほむらで、一人でも多く奴らの魂に焼印を刻んでから死ね。

 劉備は手下の弓をもぎ取って転がるように駆け出した。指笛を吹く。刃が身体を掠める中、傍を走る乗手の無い馬に、越される瞬間手綱を掴んで跳び乗った。矢をつがえ、指輪で弦を引き、そうして叫んだ。いかり、矢を放ちながら叫んだ。

「誇りを、お前たちが失ったものを‼︎」

 怒りは若さとなり、若さは声になり、声はひとすじの雷のように、煌めく粒子を撒き散らしながら戦場の喧騒を切り裂いてこだました。暴虐な軌跡を描いた矢が地平の向こうへ一筋に消え、鞍から滑り落ちる劉備の目に、瞬間、一人の胡兵が映り込んだ。銀色の髭をたくわえ、革の帽子を被ったその男と、劉備は何故か目が合ったような気持がした。背後から帯を引っ掴まれる。どけと云わんばかりに投げ出され、独り彼方へ駆けていくのは関羽の背だった。誰かに受け止められ、羽交い締めにされ、押さえ込まれる。

「隠してくれっ!」

 多分、張飛の声だ。それすら定かでなく劉備はもがいた。だがもう身体はほとんど動かなかったし、頭の方もとっくに回っていなかった。死体の山の奥深くに押し込められ、手足が粘ついた汁に浸る。視界が暗い。何も見えない。蒼く霞んで遠ざかる意識の中に、つめたくぬるついて湿っぽい、屍肉の匂いだけが満ちていた。

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