お兄ちゃん(前)

「彼らは青く美しく、とても涼しげな見た目をしているけれど」


 感情が読めない淡々とした声音。


「身体の表面温度は、タバコの火と同じくらい熱いから」

「二郎さま!?」


 花は振り返り、ギョッとした。

 ベンチの後ろに二郎が立っていた。いつの間にいたのだろう。音も気配も無かった。


「あぁ花さん! まだ町にいらしたのですね!」


 梟が空から現れて、駅に舞い降りる。


「もう外へ行ってしまったのかと心配しましたよ! 本当に良かった」

「どうして……?」


 花は目をパチパチさせた。


「二郎さまは花さんを探していたのです。狐を追いかけ、問い詰めたところ、駅へ送ったと聞いたので」

「あ、私、お借りしてした部屋に置き手紙を置いてきて……、ちゃんとお礼を言わず、手紙で済ませてしまって、すみません!」

あたふたする花に、

「それは全然かまわないけれど」


 二郎は短く答えて、


「貴女に尋ねたいことがあってここへ来た」


 そう言った。

 黒い瞳は魚群を見ていた。


「私に?」

「うん」

「な、何でしょうか?」

「貴女は、これからどうするの?」

「!」


 花はギクリとした。


「行くあてはあるの? 帰るところは?」

「だ、大丈夫です。10丁目に戻るので」

「10丁目でどうするつもり?」


 魚群を見つめるままの左目に、何故か心の中まで見られているような気持ちになり、花はリュックをギュッと抱きしめた。


「……働きます」

「働く? 貴女はまだ子供なのに?」

「10丁目だと、私くらいの年の子も働いています。それに知り合いにツテもあるので、仕事はすぐに見つかりますから、大丈夫で、」

「家に来ないか?」


 花は耳を疑った。


「家に、来ないか?」


 二郎は繰り返す。2度言われても、花は聞き間違えたのかと思った。


「行くところが無いなら、近衛の屋敷にしばらく泊まるといい」

「二郎さま……?」

「10丁目は、貴女だけで暮らすには危険だ。この町もいろいろと変わっているけれど、屋敷にいれば安全だから」

「えぇ。あの狸も貴女に手出しはしないでしょう」


 梟がうんうん頷く。対照的に、花は首を左右に振った。


「いいえ、これ以上は迷惑をかけられません」


 ハッキリとした口調で伝えた。


「兄があの手紙を残した理由は分かりませんが、私の家の事情に近衛家の方々を巻き込むわけにはいきません。……当主さまにも伝えてもらえませんか? 私が謝っていたと……」

「あの人が怒っていたのは、貴女のせいではない」

「え?」

「あの人は貴女ではなく、外の人間全てが嫌いなんだよ」


〝だけど〟と、二郎は続ける。


「僕があの人を説得するから」

「で、でも」

「当主さまとて、14歳の女の子を完全に見捨てることは出来ないだろうから」

(あれ?)


 ふっと違和感が過ぎる。


(私の年齢が14歳ってことを、二郎さまに教えたっけ……?)

「僕の弟も錦も、とても優しいから。貴女を邪険にしたりしない」


 ハッとして、抱いた疑問を中断させる。


「いえ、ダメです」

「……何故?」

「それは……」

「念のために言っておくけれど、邪な気持ちがあるわけではないよ」

「そ、そんなことは疑っていません!」

「じゃあ、何故?」

「二郎さまこそ、何故なんですか?」


 花は訊き返した。


「見ず知らずの私にそこまで親切にしてくれるなんて……」

「貴女が、迷子だから」

「ま、迷子じゃないです」

「帰る場所が分からないのであれば、迷子だよ」


 カッと頬が熱くなった。

 嘘は、見破られていた。


「でも親切にしてもらっても、私にはお礼が出来ません。お金とか、価値のある物とか持っていないし」

「そんなことは望んでいない」

「…………ダメ、です」

「何故?」

「……」

「……」


 沈黙が生まれた。

 花は俯き、二郎は魚群を眺め、梟は2人をじっと眺めた。

 どれくらいの静寂が続いただろう。

 不意に二郎が、ベンチの後ろから、花のそばへ移動した。彼は右手に木で編んだ胡桃色の篭を持っていた。そこには赤と黄と桃の果実が詰まっている。


「朝ごはんを食べていなかったようだけど、お腹は空いていないのか?」


 二郎の左目が、花を見た。


(あ)


 その瞬間。

 彼の姿が、重なった。




〝あぁ? 『お腹が痛い』だぁ?〟


 布団をひっくり返して、


〝一瞬でバレる嘘ついてんじゃねーよ。仮病使ってねーで学校行け〟


 腕を乱暴に引っぱって、


〝お前はたいして美人でも器用でもねぇんだから、学を持ってねーと将来食いっぱぐれるぞ〟


 失礼なことを言いながら、


〝腹、減ってるだろ?〟


 花にパンを渡してくる兄の姿にぴたりと重なったのだ。





「どうされましたか?」


 梟が心配そうに見てくる。

 花は泣いていた。涙がポロポロとリュックに落ちるのが見えた後、視界がどんどん歪んでいく。


「…………お腹、痛いのか?」

「いえ、二郎さま。花さんの涙には恐らく別の原因があるかと」


 至極真剣に問う二郎に、梟がやんわりと突っ込んでいると、


「う」


 花の口から声が漏れ始めた。


「う、あっ」


 涙と嗚咽。止めたいのに、どちらも止まらない。


「わ、私……」


 花は両手で目を覆い、


「私はやっぱり、お兄ちゃんに捨てられたんですよね……っ」


 絞り出すような声で言った。

 ずっと心の奥に押し込めていた思い。

 認めるのが怖かった現実ーー。



「私は、お兄ちゃんに育てられたんです。お父さんもお母さんも昔に死んで……。お兄ちゃんは学校に行くのも遊ぶのも我慢して、いっぱい働いて……」


 それでも兄は、花を学校に行かせてくれた。友達と遊ばせてくれた。お前はまだ働かなくていいと言ってくれた。


「なのに私は、お兄ちゃんに逆らってばかりだった……!」


 勉強が嫌いで、真面目に授業を聞いていなかった。友達よりもお金が欲しいと、いつも言っていた。


「ちょうど半年くらい前、私の誕生日だったんです。でもお兄ちゃんからのプレゼントはありませんでした。……取られたからです」

「取られた?」


 二郎が首を傾げる。


「お兄ちゃんが私の誕生日のために貯めたお金を、誰かに盗まれたんです。お兄ちゃんが荷物から少し目を離した隙に、鞄ごと取られたみたいで……、だから今年は何も貰えなかった」


嗚咽混じりに花は話す。


「……そして2ヶ月前は、お兄ちゃんの誕生日でした。私は、お兄ちゃんにプレゼントを買いました」


 これ以上はもう話さない方がいい。


 いや、いっそ全部ぶちまけてしまいたい。


 正反対の気持ちが生まれて、ぶつかって、


「私は……っ、盗んだお金でプレゼントを買ったんです……!」


 勝ったのは後者の思いだった。

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