偽りの蓮花

故水小辰

殺人

 人間界に妖魔の住まう焔獄界えんごくかいとの接点ができたのはいつのことだったか。魑魅魍魎が地上に現れ、人々の霊気を喰らいだして以降、修行者の在り方はすっかり変わってしまった。不老不死という目的はいつしか妖魔退治に取って代わり、人間界の守護者たることがして最高の在り方であると言われるようになったのである。彼らは仙士と呼ばれ、中原の各地で妖魔との戦いに明け暮れていた。

 仙士たちの主たる任務の一つは、妖魔の侵入を食い止めることにある。妖魔たちは決まって、羅盤が「凶」を示す場所から人間界に入り込む。仙士たちはそうした場所に砦を立て、またすでに利用された通路を破壊して、妖魔の侵略を食い止めていた。事件が起きたのはそうした砦の一つだった——


 ***


 中原の東部は青陵せいりょうの砦から惨劇の知らせが届いたのは数日前のことだった。砦にて警護に当たっていた仙士十数名が妖魔に霊気を吸い取られて枯れ果て、しかし新たに通路が開かれた形跡はどこにもないというのだ。おまけに、死体にも砦にも邪気の痕跡がなく、砦のあちこちに激しい戦闘の跡が残っているだけだという。ようれんほうとうしゅうえんがこの地にやって来たのは、この不可解な事件の真相を突き止めるためだ——生き残った仙士の案内のもと、二人は砦の中に入り、中庭に一列に並べられた遺体の検分に当たっていた。


「ふん……これは確かに厄介だ。師兄、これを」

 桃修苑は、楊蓮鋒を呼び寄せて遺体のある一点を指さした。楊蓮鋒が覗きこむとカラカラにしなびた遺体の胸元に剣で刺したような傷跡があるのが目に留まった。

「これは……剣で付けられたものか?」

「連中が武器を使うとは珍しいですね。器物に頼らずとも、奴らの身体能力は我々をはるかに上回っているはずですが」

 眉をひそめる楊蓮鋒に桃修苑も同意する。焔獄界からの侵略者は、法術によって邪気を操り、生来の高い身体能力と併せて人間を襲うのが常だ。そんな彼らが刀剣の類に頼るなど、楊蓮鋒も桃修苑も聞いたことがない。

「それに、邪気の痕跡が残っていないのも気になるな。これほどの人数を喰らい、砦には戦闘の跡がそこかしこに残っている。となればどこかに必ず邪気の痕跡があるものだが……」

 楊蓮鋒は考え込むように呟くと、口元に右手を当てて少しうつむいた。袖口がはらりと落ち、包帯の巻かれた腕が現れる。案内役の仙士が腕に視線を向けていることに気が付くと、楊蓮鋒はごまかすように笑みを浮かべて右腕をサッと隠した。

「ああ、これは失敬。見苦しいものを見せてしまった。」

「いえ、とんでもございません。ただ、貴方ほどの仙士でも傷を負うのかと驚きまして」

 慌てて拱手し、頭を下げた仙士に、楊蓮鋒は気にするなと左手を振った。

「ひと月ほど前に、手酷くやられてしまってね。だが、もうほとんど治っているから大丈夫だ。ところで、この場にいて襲撃を生き延びた者は他にいないのか?」

「いいえ。私は使いで外に出ていたので助かりましたが、他の者は全員この砦におりましたゆえ。帰還した時には皆息絶えていて……」

 楊蓮鋒の問いに、仙士はため息をついて頭を振った。無残に変わり果てた姿の仲間に手を合わせて弔いの言葉を呟く仙士を残し、楊蓮鋒は静かに中庭をあとにした。

「師兄?どちらに……」

 桃修苑も急いで後を追いかける。楊蓮鋒は砦の外壁に登るとそこで足を止め、桃修苑を振り返って言った。

「此度の件、お前はどう見ている?」

「妖魔の仕業であることは間違いないでしょう。それも、砦の仙士のほぼ全員と戦って勝ち、霊気を残らず吸い尽くしたとあれば相当凶悪な妖魔です。ですが問題は——」

「その妖魔がいかにして人間界に出入りし、また剣の腕を磨いたかということだな?」

 楊蓮鋒の相槌に、桃修苑は頷いて先を続ける。

「ええ。他の通路を通ったとも考えられますが、地脈に乱れがあったという報告はここ一ヶ月ほどありませんでしたし。それに、器物に頼らずとも我々を圧倒できるのに剣術を修めたというのが私にはどうにも解せません。」

 楊蓮鋒はふむ、と答えると、右腕を軽くさすりながら言った。

「私の見立てでは、その妖魔は人間界に潜んでいたのだと思う。優れた術師は数多くいれど、優れた剣士は焔獄界にはいないはず。それに下手人が通路を使った形跡もない、であれば奴は何らかの方法で我々の中に紛れていたのではなかろうか?人間界ならば、仙士でなくても剣を振るう者はごまんといる。一般の剣士であっても体内の経脈に気を巡らせ、金丹を形成して力としているから、彼らに弟子入りすれば、邪気と剣術を結びつける方法も見つかるだろう」

「我々に見つからずに人間界で邪気を修練する術があると言うのですか?」

 ますます分からないと言わんばかりに首をかしげた桃修苑。楊蓮鋒は静かに、

「それは私にも分からぬ。今のは可能性の話に過ぎない……だが、心当たりがないわけでもない。人間界に攻め入った妖魔のうち、仙士たちに捕らえられたきり行方の分からなくなった者があると、師父から聞いたことがある」

 と言って袖を直した。外を見下ろす視線の先では、犠牲者たちの後任の仙士たちが砦を目指し、荒涼とした一本道を台車を引きながら歩いている。だが、桃修苑はそちらには目を向けず、少し考えてああ、と声を上げた。

「師父が過去に捕らえたという妖魔ですね?では、師兄のお考えでは、今回の件はその妖魔のがかかわっていると?」

「確証はないがな。それよりも、他に気になるところがないのなら、私たちはひとまず戻ろう。師父に今回の件を報告して、ご指示を仰がねば」

 そう言って踵を返した楊蓮鋒に応じると、桃修苑も外壁を後にした。


 ***


 焔獄界からの侵略を食い止める砦以外にも、仙士たちの集う拠点が中原各地に点在する。楊蓮鋒と桃修苑は、最大の規模を誇る拠点、浄蓮世境じょうれんせいきょうにて幼い頃より共に修練を積んできた兄弟弟子だった。二人の指導者は劉子尽りゅうしじん、老齢の今でこそ前線を退いているが、全盛期には数多くの妖魔を討ち取ったという凄腕の仙士だ。浄蓮世境に戻った二人は、仲間への挨拶もそこそこに劉子尽のもとに直行した。


 楊蓮鋒と桃修苑の話にじっと耳を傾けていた劉子尽は、二人が話し終えると深く息を吐いて腕を組んだ。

「今の話がまことだとすると、確かに此度の件は看過するわけにはいかぬ。急ぎ各地に話を伝え、新たに策を練ることになろうな」

「師父、焔獄界の連中が我々に対抗するために刀剣を使うようになったとは考えられませんか?」

 桃修苑が尋ねる。劉子尽は深く息を吐くと、

「考えにくいの。奴らが法術と体術に固執しておるのとて、我々人間の身体能力を侮ってのことじゃ。いくら修練を積んだ仙士とて、素手で連中と渡り合うのは不可能じゃ。それゆえに我々は剣を振るい、また様々の呪詛を用いた仙器を作って奴らに対抗しておるのじゃから」

 と言った。

「蓮鋒の言うように下手人が人間界に長らく潜伏していたとも考えられるが、中原のそこかしこに羅盤を持った仙士がいるというのに今まで察知されなかった点が引っかかる。連中が邪気を隠す方法を見つけたか、あるいは人間の中に妖魔の術を使える者が現れたという線も考慮しておいた方が良かろう。」

「ですが、かつて師父が捕らえたという妖魔が下手人だという線は考えられませんか?師父に浄化された後、行方をくらませたと聞いておりますが……」

 楊蓮鋒が何気なく言った。すると、劉子尽が唐突に楊蓮鋒を睨み付けた。厳格ではあるが決して直情的ではない彼に、憎悪にも似た強い怒りのこもった視線で睨まれるとは——楊蓮鋒は身を固くし、桃修苑はぎょっとして一歩後ずさった。が、烈火のごとき視線は次の瞬間には消え失せ、劉子尽はいつもの調子に戻って静かに言った。

「それはあり得ぬ。わしは奴を徹底的に浄化して市井に捨て置いたのじゃ。奴の中には邪気は微塵も残ってはおらぬ。いずれにせよ、今すべきは各地の仙士にこのことを知らせて守りを固めることじゃ。修苑、伝達の手筈を整えてくれ。儂は蓮鋒に確認することがある」

「承知いたしました」

 劉子尽に言われ、桃修苑は拱手して一礼すると部屋を立ち去った。あとに残された楊蓮鋒は、先ほどのこともあって何を聞かれるのか全く分からない。

「師父、私に確認したいこととは何でしょう?」

 伺うように尋ねると、劉子尽が口を開いた。

「蓮鋒よ、傷の具合はどうじゃ」

 鋭い視線が右腕に注がれる。そのことか、と安堵の気持ちが全身に広がるのを感じつつ、蓮鋒は答えた。

「まだ完全には塞がっておりませんが、霊薬のおかげでほとんど治っております。」

「ふむ……じゃが、その包帯には防護の呪詛が使われているようだが」

「手甲を付けられないので、代わりにと思いまして」

 楊蓮鋒は思わず唾を飲み込んだ。たかが怪我ごときで、ここまで劉子尽に問いただされるとは驚きだ。嫌な緊張が再び胸に広がる中、劉子尽の手招きに応じて楊蓮鋒は師の隣に移動した。言われたとおりに袖をまくって包帯と当て布を外し、癒えかけの切り傷の残る右腕を露出させる。傷は手首から肘にかけて、色白な腕の内側に一筋の線を描いていた。

「痛みはあるか?」

「まだ少し。時折疼く程度なので、ご心配には及ばないかと思っているのですが……」

 劉子尽はしばらく傷を検分し、手首に軽く触れて脈を見ていたが、やがて当て布と包帯を手に取ると優しい手つきで傷を覆い直した。

「何か、気になるところでもありましたか?」

 楊蓮鋒が尋ねると、

「いや。お前も行って修苑を手伝いなさい。ただしくれぐれも、妖魔に傷つけられることのないように気を付けるのじゃぞ」

 と、劉子尽が答えた。だが、包帯を巻いてくれた手つきとは裏腹に、眉間にはしわが深く寄ったままだ——楊蓮鋒は不審に思いながらも、拱手して一礼すると部屋を辞した。


 楊蓮鋒が見つけたとき、桃修苑は中央の広場で他の仙士たちに何やら指示を飛ばしているところだった。修苑、と声をかけると、桃修苑は仙士たちの輪を抜けていそいそと楊蓮鋒のところにやって来た。

「師兄!お待ちしておりました。師父は何と?」

「大したことは言われなかったよ、傷の具合を見られただけだ。妖魔に傷つけられぬよう十分に気をつけろとは言われたが、それだけだ。たしかに、奴らの爪には毒気が蓄積している場合があるからな……だが、今のところ化膿も壊死もしていないから大丈夫だろう」

 楊蓮鋒が答えると、桃修苑はほっとしたように息を吐いた。

「それは良かった……実は私も気になっていたのです。あの日、目が覚めたら、私は何ともなかったのに師兄は腕を吊るしておられたので」

「お前は三日間も眠っていたのだ、驚かせたのも無理はない。私はお前が眠っている間にお前を傷つけた妖魔を追っていたのだ。あの時は砦が近くて本当に助かった……砦も拠点もないような場所だったらもっと危険なことになっていた」

 楊蓮鋒はそう言うと、にっこりと笑って見せた。普段から穏やかな物腰の楊蓮鋒だが、その笑顔は見る者を安心させる。桃修苑もそれは同じで、頼れる兄弟子の笑顔に思わず自身も笑みを浮かべていた。

「砦の仙士たちもですが、やはり師兄が体を張ってくださったおかげです。今回の妖魔とて、師兄がいれば恐るるに足りませぬ」

 桃修苑の言葉に、楊蓮鋒は今度は声を立てて笑った。

「お前にそう言われると心強いよ。ところで、伝令の方はどうなっている?」

 楊蓮鋒の問いに、桃修苑は手に持った地図を広げて見せた。点々と付けられた赤い丸の一つを指して口を開きかけたその時、ゴーン、ゴーンと、有事を知らせる鐘の音が響き渡った。

「大変です!」

 表から走ってきた仙士が鐘の音に負けじと声を張り上げる。

「西の方より連絡がありました——ろうこうの砦に配属された仙士たちが何者かに殺害されたそうです。犠牲者は皆霊気を吸い取られ、砦には争い合った跡以外には一片の邪気も残されていないとのことです!」

 仙士が言い終えた途端、あたりはどよめきの渦に飲み込まれた。同様の事件が起きたことを、この場にいる誰もが知っている。ことに楊蓮鋒と桃修苑は事件の調査に赴いた身だ。二人は顔を見合わせると、劉子尽の執務室に急いで引き返した。


「師父、先ほど報告が——」

 足音も荒く屋敷を駆け抜け、挨拶もそこそこに、桃修苑は乱暴に戸を開けると部屋に飛び込んだ。普段ならいさめるところの楊蓮鋒も、事が事なだけに何も言わずに劉子尽を見つめている。劉子尽はゆっくりと顔を上げると、

「隴河に行きなさい。必要なものを持って今すぐ出立するのじゃ」

 と告げた。

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