第9話

陸曄は桂英の手を引いて、暗闇を走っていた。

宴から失踪した事が気付かれないうちに、繋いである馬の所まで走らなくてはならない。

「はぁ、はぁ」

あたりには2人の息遣いだけが響きわたる。

走るうち、桂英が脚をもつれさせて転びそうになると、陸曄は桂英をその背におぶった。

「ごめんなさい、阿曄」

「大丈夫だから」

桂英が陸曄の広い背中にしがみつくと、その熱を身体中で感じる。

相変わらず星々はきらきらと輝き、月が2人のゆく道を照らした。

虫が静かに鳴き、庭を駆ける陸曄の靴音をかき消してくれるような気さえする。

「女がいなくなったぞ!」

そんな声が聞こえてきたのは、もう少しで馬までたどり着くかと言う所だった。

「……!」

二人は息を呑むと、走りながら後ろを振り返る。

見れば、遠くに小さくいくつもの松明の明かりが揺れていた。

「阿曄…!!」

「大丈夫だ!」

二人はそれでも走り続け、遂に馬がつないである場所まで辿り着いた。

陸曄はまず桂英を先に馬に乗せると、急いで繋いである縄を解く。

そのまま手綱を握り、自らもひらりと馬上の人となった。

腹を蹴り馬を走らせると、事前に調べてあった警護の少ない場所から離宮の外へ飛び出してゆく。

桂英が陸曄の背に掴まりながら周りを見れば、警護の者たちはなぜか皆一様に酒に酔って寝こけていた。

「薬の入った酒を振る舞っておいた!」

桂英の疑問に答えるように、陸曄はそう独りごちる。

「いたぞ!」

先ほどより幾分か近くで声がする。

桂英は心臓がうるさく跳ねるのを感じ、目を瞑ると「どうか捕まらぬように」と祈るように念じた。

それから一刻ほど馬を走らせた頃、二人は永泰の郊外を走っていた。

永泰とは反対の方向に走ったつもりだったが、迷ってしまったらしい。

陸曄は早る心を落ち着かせながら、本来の道を探していた。

「追え!」

「こっちにはいないぞ!!」

既に、ちらほらと二人を探す声がすぐそばまで近づいてきている

陸曄の額に大粒の汗が浮かんだ。

ーーここまで来て……!!

陸曄は桂英を振り返ると、桂英も陸曄を凝っと見つめていた。

「桂英ーー」

「いたぞ!!!」

「……!!」

「捕らえろ!!」

前方から現れた兵から陸曄が馬首を返して逃れようとすると、反対の道からも別の兵が現れる。

「くっ……!」

「阿曄…!!」

遂に二人は四方を兵に囲まれ、その姿を松明にさらされることとなった。



二人は近くの寺に連行されると、庭に引き出された。

永泰の郊外にあるにしては立派な寺だ。

「貴様、この娘が皇帝陛下の女官と知って連れ去ったか?」

兵を指揮する将に問われ、陸曄は唇を噛んだ。

陸曄の両腕は縛り上げられ、屈強な兵に地面に押さえつけられている。

「答えよ!」

兵の一人がグイと、さらに陸曄を押さえつけた。

陸曄は思わず呻き声を上げる。

「……一目惚れ…でした」

呻き声をあげながらも、陸曄はそう言った。

「なに?!」

「宴の最中、そこの娘にわたしがをいたしました…」

桂英は陸曄の言葉に目を見開く。

「一目見て、忘れられなくなってしまったのでございます」

陸曄は続ける。

「わたしは、どうしてもその娘と添い遂げたかった……」

「……皇帝の女官と知ってもか」

「そうです」

陸曄はそう言って肯定した。

「皇帝陛下の女官だからこそ、添い遂げられないのは分かっておりました」

「……」

「ゆえに、のでございます…」

桂英は「違う」と否定の声を上げようとした。

しかし、兵の一人に取り押さえられ、それは果たされない。

桂英の瞳から、涙が伝う。

ーー違う。

陸曄は、桂英だけでも助けるため方便をついた。

それは陸曄の最後の愛だと、桂英にはわかっている。

それでも。

桂英は、最後の最後まで、陸曄と添い遂げたかった。

陸曄のいないこの世の中にどんな未練があろうかーー。

「皇帝陛下の女官に手を出すことは死罪である。それは分かっておろうな?」

将の言葉に、陸曄はキッパリと答えた。

「わたしの生涯最初で最後の恋でありますーー」

「……そうか」

将はその陸曄の真摯な言葉に、わずかに心を揺さぶられる。

しばらく考えたのち、その将は言った。

「良いであろう。お前の言う通りならば、この女官に咎はないとする」

それは、この将にできる最大限の譲歩であった。

将の言葉に、陸曄はふ、と表情を緩める。

「お心遣い…感謝いたします」

ーー違う!!

桂英はその瞳から大粒の涙をこぼすと、精一杯兵の手を振り解こうとする。

しかし、華奢な桂英と屈強な兵、力の差は明らかだった。

「女官に咎はないが、お前は見逃すわけにはいかん」

将はそう言うと、スラリと刀を抜く。

女官を拐った罪は死罪だ。

「……」

「しかし、せめてもの情け。この私が直々に、痛みなく送ってやろう」

それは、掛け値なしで将軍の厚意であった。

罪人として処刑されれば、もっと酷い扱いを受ける事になる。

「準備をせよ」

「は」

陸曄は地面に跪かされ、ぐいと首を押し出された。

ーー阿曄!!!阿曄!!!!

桂英は声にならない声を上げて、狂ったように首を振る。

一瞬だけ、陸曄の瞳が桂英を見る。

ーー桂英、元気で。

「ゆくぞーー!!」

将の大剣が風を切って振り下ろされると、ゴツンと刃が骨に当たる音がし、一瞬の後にゴキリと首が切断された。

鮮血が吹き出して辺り一面を血に染める。

一瞬遅れてゴロリと転がった首は、光ない瞳で煌めく星空を見上げていた。

桂英は頬に付いた陸曄の血の温かさを感じると、心の臓がスウと冷えていくのを感じる。

そして、桂英はそのままその意識を手放した。


桂英が目を覚ましたのは、それから三日が経った頃だった。

見慣れた後宮の景色に、桂英は絶望を覚える。

自分のせいで、陸曄は死んだ。

桂英は、もうこの世に何の未練もなかった。

なぜ自分は生きているのか。

なぜ自分だけが生きているのか。

桂英は、目が溶けてしまいそうなほど泣いて、食事も喉を通らなくなった。

しかし、そんなボロボロの桂英が皇帝に召される事となったのは、実にその三日後である。

「ほう。其方が若者が命を賭して余から攫おうとした女官か」

美しく着飾られ、皇帝の前に召し出された桂英は、恐ろしさに震えた。

皇帝が怖いのではない。

陸曄が無くなって喪もあけていないのに、皇帝によって合房を所望される事に、恐怖と憤りを感じていた。

「うむ、確かに美しいの。貴妃や淑妃とはまた違った美しさじゃ」

皇帝は満足そうに髭を撫でると、桂英の全身を舐め回すように見る。

「ふむ、呂布リゥブゥよ。良いぞ。今宵はこの娘にしようかのう」

桂英の瞳に絶望が灯る。

その表情は硬く、凍りついていた。

「かしこまりました周宗さま」

宦官の呂布は恭しくそう言うと、別の女官に桂英の合房の支度を命じた。


桂英は、用意された湯に浸かりながら絶望の中の絶望とはこう言うことかと考えていた。

悲しみを通り越して涙すら出てこない。

まるで感情が凍りついてしまったかのようだった。

そして、考える。

このまま、周宗皇帝に召されるくらいならーー。

桂英は周りを見渡す。

人を傷つけられそうな物は何もない。

桂英は、それでも根気よく探し続けた。

そして、一本のかんざしが置き忘れられているのを見つける。

桂英は、心を決めて湯から上がった。

女官たちが桂英の身体を絹で拭き、薄衣を身に付けさせようとした時、桂英は今まで生きてきて最も早く走り、置き忘れていた簪に飛びついた。

それの簪は奇しくも、何年か前に桂英が陸曄から贈られた思い出の品であった。

「何をなさいますーー!?」

女官が慌てて桂英を抑えようとするが、桂英の方がわずかに早い。

「桂英様!!!」

桂英は簪を掴み取ると、勢いよく自らの首へと突き立てる。

ーー阿曄ーー。

「あれえ!!だれか!だれか!!!」

女官がその白い顔を一掃青くして叫び声を上げる。


ぶつり。

ずぶり。


白い首筋に、銀色の簪が突き刺さった。

一瞬遅れて、鮮血が女官たちの頬を染める。

ーー陸曄、今行くわ…。

桂英が見た最後の景色は、慌てふためき自分へと走り寄る女官の姿だった。

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