第5話

永泰の夜 第五話


暮鼓も鳴り終わり夜の帳が降り始めた頃、明明は絵の道具を一式持って家を出た。

その足取りはどこかおぼつかなく、フラフラと歩いているようにも見える。

ユースィフ達は暗闇に紛れながら、そっと明明の後をつけた。

何度目かの角を曲がった後、明明はある寺の境内へと足を踏み入れる。

使われなくなって久しい門には何とか読み取れるほどの字で『平安寺ピンアンシィ』と書かれていた。

元々は立派だったであろう広い寺だったが、今や雑草が生い茂りなんの手入れもされていない。

明明は、迷うことのない足取りで門をくぐり抜け、本堂を通り過ぎ、ある墓碑の前まで進んで行く。

「こんな子供がこんな時間に一人でこんな場所へ……怖くはないのだろうか」

アスアドがそう一人ごちると、ハーシムがいつものように茶化した。

「てめーは怖いのかよ」

「な……そんなわけあるか!」

真面目にそう答えるアスアドを小突き、ジュードは人差し指を立てて諌めた。

「静かに!彼が座りましたよ」

見れば、明明は先程の墓碑の前に筵を引いて座り、絵の道具を広げ始めた。

「……ここで描くのですか?」

士英が訝しげにそう言うと、ユースィフが頷く。

「どうやらそうみたいだな」

明明は紙を広げ一本の筆を取ると、凝っと虚空を見つめた。

生温い風が、ふわりと全員の頬を撫でる。

五人が異変を感じたのは、その直後だった。

明明の目の前に、白い靄のようなものがわだかまり、次第に形を変えていく。


ふわり

ふわり


生温い空気があたりを包んで、身体にまとわりついた。

靄はゆらゆらと揺れ、いつしか人型となり明明の前に立っている。

輪郭はふわりふわりと形を変え定まらないのに、その表情だけがありありと窺い知ることができた。

その瞳からは涙。

その口からは血が、滴っている。

ジュードはヒュッと声にならない声を上げた。


「ーーこれは、どういうことです?」

努めて冷静に、士英が誰にともなく問う。

「……おれに聞かれても、わかるかよ」

アスアドはため息混じりにいうと、その唇を噛んだ。

「しかし、変ですね」

アスアドの言葉に、ジュードは視線を靄に固定しながらそういう。

「何がです?」

「もし、彼ーー明明はこの『怪異』を見て絵にしているのであれば、なぜ、『2』を描いたんです?」

「なに?」

言われてみればそうだな、とアスアドは暗闇に目を凝らした。

今、明明の前に現れているのは姿が一人。

女の姿はどこにもない。

先日明明が話したように『見たことをそのまま描いているだけ』なのであれば、の姿が無ければおかしい。

それに、明明の絵をよく思い出してみれば、悲しそうな顔をしてこそいたものの、涙や血などはまったく描かれてはいなかった。

本人の創作と言ってしまえばそれまでかも知れないが、この怪異を目の前にしてそれも考えにくいように思う。

ジュードは黙っている残りの二人へ視線をやった。

「……ユースィフ様、ハーシム殿。にはどうやって見えているのです?」

自然と、士英とアスアドの視線も二人へと向く。

「ーーふん」

ハーシムはため息混じりにそう言うと、徐にその眼帯を外した。

その左目には大きな刀傷があり、その瞳は炎のように赤く光っている。

ハーシムはその赤い炎を揺らめかせながら、真っ直ぐに明明と怪異を見つめた。

「どう見えてるか、だって?」

ハーシムは視線を外さぬまま、ぽつりと呟く。

「同じだよーーあの明明ってガキが描いた絵とな」

「……!!」

その言葉に、士英は小さく息を呑んだ。

「と、言うことは、悲しい顔をした男女二人の姿が見えるということか?」

アスアドの言葉にハーシムは視線を外し、眼帯をはめながら頷く。

「ああ」

「ユースィフ様は……」

「まあ、そうだな」

明明から視線を外さずに、ユースィフは肯定をあらわした。

「それはつまりーー」

ジュードの言葉を引き継ぎ、士英が口を開く。

「あの明明という少年は……かもしれないということですか」

「まあ、そうだな。俺はだから見ることしかできないが……あのガキがだっていうなら、怪異を絵に閉じ込めることもできるだろうからな」

この世の中には『魔術師』と呼ばれる者、『鬼眼・見鬼』と呼ばれる者、『召喚士』と呼ばれる者と、それ以外の者で構成されている。

常人と違うものを見ることができる『鬼眼』と、常人にはない力が使える『魔術師』。

それとは違う、特別な力を持つ『召喚士』。

この世界でもごく稀だが、そういった者たちが確かに存在していた。

しかし、その者たちはその力を利用されることを恐れ、大概の場合その力を隠していることが多い。

それとは別に、神や仏を信じる精神力を力に変える『法力』というものも存在するが、その話はまた後日することとしよう。

「しかし、なぜーー」

「そこまでは知るかよ」

ハーシムの言葉に一同は口を噤む。

「もしかしてーー無意識なんじゃないか?」

不意に、アスアドはポツリとそう呟く。

「無意識とはどういうことです?」

「つまり……あの明明という少年も言っていたじゃないか。『怪異騒ぎでもなんでも、絵が売れたらありがたい』と」

「ふむ……」

「病気がちな母親の薬代のため、自分でも気が付かないうちに潜在魔力を引き出して怪異を引き起こした」

「ーーで、人が死んで怖くなって売るのを止めたってわけか?」

「ああ」

アスアドの言葉に、ハーシムは顎髭を撫でながら笑った。

「ふん、てめえにしては悪くない推理だな」

「貴様はいつも一言余分だ」

アスアドが眉を顰めると、ジュードは苦笑して先を続ける。

「ですが、そうだとすれば……どうやって無意識の彼を止めるか、です」

怪異を彼自身の魔力が起こしているのであれば、彼自身を止めなくてはならない。

その上、無意識だとしたら……。

自身でもコントロールのできない物を他人が止めるのは難しい。

しかし、死人が出ている以上、放って置くわけにもいかなかった。

一同はそれぞれ黙り込む。

「まあ、それは追々考えるとして……皆、まずは一旦屋敷に帰らないか」

一同の沈黙を破るように、ユースィフはにっこり笑いながら気の抜けたような声を上げた。

気がつけば夜は白み始め、うっすら陽の光のようなものが垣間見える。

「あっ…!明明は……」

「帰った」

アスアドの言葉にユースィフは答えながら、あくびを噛み殺した。

「何枚か絵を描いて、そのまま来た道を帰って行ったよ」

「そ、そうだったのですか……」

「うん、だからオレたちも帰ろう。そろそろ、ミシュアルも戻る頃だろうしな」

一同はユースィフに促され、登る朝日を背に帰路についた。



「本当に大丈夫なのですか、道士様……」

ユースィフ達が明明を尾行している同じ頃、とある屋敷で二人の男が向かい合っていた。

道士と呼ばれたその男は陶磁の杯に入れられた酒を飲み干すと、その口元をにこりと釣り上げる。

表情はしっかりと判るのだが、どうにも顔の造りに特徴がない。

唯一の特徴といえば、道士でありながら道服ではなくフゥの服を着ていることくらいである。

明日、別のところで会ったなら通り過ぎてしまいそうな、そんな印象の薄い男だった。

胡の服を着た男は、にこりと笑顔を張り付かせたまま、向かい合う口髭の男に請け合った。

「大丈夫ですよ。現に、李喬の死は心の臓が止まったことになっているじゃありませんか」

「しかし」

それでも心配そうな口髭の男に言葉を重ねると、濡れた唇を無造作に拭う。

「大丈夫です。あなたは余計のことをなさらずに、火種が落ち着くまでじっとしておられれば良いのですよ」

「ううむ…」

「それより。申し上げました通り、その後は何も余計なことはなさっておりませんね?」

「ぬっ……」

胡服の男にそう言われ、口髭の男は額に脂汗を浮かべて言葉を詰まらせた。

ーーははあ。

胡服の男は気付かれぬようにため息をつくと、やれやれといった体で肩を竦める。

この男はあれほど余計なことはするなと忠告してあったのに、何かをやらかしたらしい。

……まあ、それはそれで知ったことではないな。

胡服の男はその唇に笑みを称えると、席を立つ。

「道士様!」

「では、ごきげんよう」

「道士様!!」

に、と笑うと、次の瞬間胡服の男は煙のように消え去った。


ざあ、と風が吹き、屋敷の外に胡服の男が現れる。

「さあて、彼らはどう動くだろうか」

胡服の男は闇夜に紛れ、颯爽と歩き去ると、楽しそうに笑った。

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