第3話

そして「聞いていらしたんですか。」と言う。それが儂の返事を恐ろし気にしている様子なのじゃ。

だから儂は咄嗟に、


いや、どんな唄かまではよう聞き取れんかった。どこの地方の唄か、聞いた事がない唄じゃと思うたものですから、どこの地方の?と言い掛けると儂が何気に言った事に更に怯えた様子なので儂はこれには何か訳があるナとピンと来てそれ以上は聞けなかった。

そしてわざと、「ずっと北の方の子守歌によく似てましたが違うでしょうナ」等と言い残してその場を去ったんじゃ。だがあの唄は子守歌などでは決してなかった。どちらかと言えば、誰かを想って唄うような何だかこの国のものではない異国の匂いのする唄じゃった。

それからまた暫くすると、儂の耳にその医者の娘に子供が出来たという噂が流れて来た。本当に世間とは少しの隠し事も出来ないものじゃと笑って聞いていたら、また暫らくしてその嫁さんに女の子が生まれたという。ああ、あの嫁さんに子供が生まれたのか、それは良かった、良かった。儂にうっかり鼻歌を聞かれて青ざめていたあのどこか可哀想な面影を思い出して

儂は心からそう思った。更にはあの家の裏庭の丈の高い草や低い草は医者が医療に使う薬草を嫁さんが育てているのだという事も解った。本家の親達に反対されながらもあの若い夫婦はどうにか自分の生活をたてて頑張っているんだナ。それなら親に文句を言われる事もない。良かった、良かった。儂は他人事ながら心底そう思った。それかが五年程は何事もなく順調にいっていたようだ。儂もすっかり自分の仕事や雑事に追われてあの夫婦の事は忘れておった。この寺は今では儂一人だが、まあ、きちと儂の二人だけだが、以前は若い坊主が常時二人や三人はいたんじゃ。だがのー、段々老いて来ると若い者を育てるという事が重たくなってのー。一度、風を引いてえらい目にあってからこのまんま儂が死んだら、若い者達は随分慌てるだろう。先々を不安に思うだろうなどいろいろ考えてしまってのー。まあ、あれから随分長生きしてしまったんじゃが、その時は考え込んでしまって若い坊主達の身の振り方をいろいろ考えてあっちこっちに落ち着かせたりしてあの頃は忙しかった。ようやく自分一人だけの身軽になってホッとした頃ある日、また噂で医者が体を壊して病気で伏せっているという噂が流れて来たんじゃ。それも胸の病らしいという。医者はいろいろな病人を診るから、遠くからここを訪ねて来る病人の中にはその病の者もいたのだろう。そういう者からうつされたのだろうナ。可哀想に、医者でも病気になるのは仕方のない事じゃ。それからというもの、あの医者は胸の病持ちだ。そういう噂は風のようにあっという間に村の中や村の外にも吹き抜けて、今まであんなに頼りにして来ていた患者も皆急にピタリと来んようになってしまったんじゃ。薄情とお前様方は思いなさるじゃろうが。人間というものは弱い者じゃ。誰もかれも自分の身を守る事に精一杯で、今までどんなに世話になっていてもうつる病だと聞くと急にパッタリと近寄らなくなるんじゃ。儂のように長年人間をやっていると、坊主だからというだけではなく、多くの人と関わり多くの人の死に様、生き様も見る事が多い。そういう人間の性は嫌と言う程見て来ておる。だから若い頃は驚いてよく落胆したり憤慨したりしたものだが、この年になると成程ナー。やはりそうなるかという具合で妙に悲しく淋しくなるだけだ。儂はの、その時になってあの病気の医者が実家と縁を切ってしまった以上どうしているかと急に気になり出した。あの後親達は、妹娘に婿をとっている以上自分達きりでは婿の手前心配して見に行けないだろうと想像された。せめて息子の方から頭を下げて助けを求めて来たらその時は助けてもやろうと思っているには違いないが、この小さな村の事とて誰もが世間体を気にして生きているような所があるんじゃ。本当に不自由なもんじゃ。父親も母親も自分の方から訪ねてはいけないそういう事情も解るので、儂はある日、米や野菜や卵等を持って伏せっている医者の家を訪ねて行ってみたんじゃ。例の垣根の所に行ってみたんじゃが、小さな子供のいる家とは思えない程、ひっそりとしている。まるで人の気配がない程静かだった。儂は思い切って、こんにちは、山寺の坊主じゃがいなさるか!と声を掛けると、小さな可愛い女の子が出て来、その後ろから例の嫁女が顔を出した。女の子はそれは愛らしい顔をしている。嫁さんも相変わらず子供の母親に見えない愛らしい顔立ちをしているがやはり陰がある。無理もない。

「何の御用でしょうか?宅は今、体調を崩して伏せっております。」と言う。受け答えは武家の妻女のようにきちんとしている。儂は、「御亭主の具合はいかがかナ。儂の事は覚えていないかも知れないが、この山寺の坊主をしているが御亭主が子供の頃をよく知っている者だから。坊主で縁起が悪かろうがお見舞いに来たんじゃ。」と言うと、妻女は少しうれしそうにして、さあどうぞどうぞと言って垣根の方から通してくれた。薬草の畑はきれいに手入れされていた。この妻女は薬草に詳しいのかと感心した。女の子は父親と母親の両方の良い所を合わせたように色白の美しい顔立ちをしている。儂が亭主の伏せっている所に近寄って行こうとすると寝ている医者が、和尚様、これ以上近づかないで下さい。この病気はうつる病ですからと言う。医者はやはりあの幼い頃の頭の良さそうな面影を残していたが、もうすっかり痩せてこの病がその身をかなりむしばんでいる事がありありと見て取れた。儂はあまりに無残で気の毒で見ておれない程だったが、つとめて明るく、坊主はあちこちから貰い物をして食いつないでいる者だがこの度もまた、余計に誰かが置いて行ってくれてナ。貰い物のお裾分けというのも妙な話だがこれで御亭主に何か精のつく物でも作ってあげて下さらぬか。そう言って儂は持って行ったものを置いて帰って来ました。とてもそこに腰を降ろしてのんびり世間話をするような空気ではなかった。そして帰りの道々、あの顔色ではそんなに持たないだろうと思ったものです。だがその医者の家を出る時に、物の陰からチラリと見覚えのある者がこちらを見ているのに気が付きました。あれは忘れもしない占い婆の信女です。以前医者が診療に使っていたらしい棟の戸口から儂を見ている所を見ると、何らかの事情でここに住むようになったのでしょう。それで実は少し安心しました。この家の哀れな若い夫婦と子供の為には一人でも少しでも手伝いになる者がいる事は良い事だと思ったし、あの占い婆の為にもです。あの信女は儂にとっても多少気になる者だったからのー。信女があの暗い沢にある朽ちかけたあばら家に一人いるよりも山寺の少し下った所の陽の当たる医者の家にいる事は良いと思ったからでもあったんじゃ。この占い婆とは、まま、ちょいとした因縁があるのじゃがそれは置いておくとしましょう。そういう事があったその日の夕暮れ、この山寺に儂を訪ねて来た者がおりました。あの日中儂が訪ねて行った医者の妻女でした。」


そう言って、和尚はすっかりぬるくなった茶をグッと飲み干して過ぎ去った日々を遠く思い出すような目をしました。まあ一服という所です。

これまでの事を和尚から聞いて、それをまた通訳してヘンリに伝えなければならないのですから忙しいのは勇作でした。

だが、この通訳は大変優秀らしく、語り手が意味ある所を的確な言葉で即座にヘンリの耳に入れるのでヘンリもまた、和尚の言いたい事を十分理解する事が出来たらしく、その様子を受け入れて更に先の物語を知りたくて和尚の目と口元を好奇心の目で見守っているのでした。

きちがいつの間にか新しい熱い茶を持って来てまた湯飲みにたっぷりと注いでくれました。和尚はそれを見守りながら、「儂の身の周りを世話してくれるこのきちが、あの頃はもうとっくに二十歳を過ぎて嫁に出して幸せな生活をして貰おうにも本人には全くその気が無く、どうしたものかと考えていた頃です。そう、まおがまだ五歳の時ですから、もう十三年も昔になりますか。その時の様子は今もはっきり覚えております。そんなに寒い時期でもないのに妻女はいかにも寒そうに震えていました。きちが熱い茶をだしてもそれに手をだそうともしないで俯いてばかりいるのです。それかと言って用件も話そうともしないので、話すか話さないかをためらっているに違いないと思い儂はきちにちょっとした用事を言いつけてその場から外させました。きちの為に弁明しておきますが、きちはお二人共もうご存知と思いますが、決して人の話の中に割って入って出しゃばった事を言うような女ではありません。いつも人の思惑を敏感に感じ取って邪魔にならぬように気を遣う女です。ですからあの時も儂と妻女の傍らにいたのではなくほら、向こうの隅で何やら自分の仕事をしていたのです。だが妻女はその気配さえ気にしているようだったのです。何の相談事だろうか?今この妻女が話す事は大層重大な事なのだナと思いましたので、私はもう暗くなっておってきちには可哀想でしたが裏手にある観音堂の用事を言いつけました。きちも咄嗟に儂の意志を汲み取ったのでしょう。この寺の中から気配を消しました。この寺には儂と妻女の二人だけになりました。儂は、「ここにいるのは儂と妻女以外は御仏様方がおわすだけです。心の中にあるものを吐き出しても大丈夫だ。」と言いました。すると妻女は思いきったように話し始めました。


和尚様、和尚様は徳の高い方で信頼のおける方だと思い訪ねて参りました。もしも、もしも私共に何かがありましたなら、まおの事を宜しくお願い申し上げます。」とこの田舎の村には聞きなれない馬鹿丁寧な言葉遣いの話し口でしたが、妻女の頬にはいつか涙が溢れ流れていました。


「もしもの事?」(ご主人は御病気で心細いだろうが、だが母親の貴女はまだ若くてこれからではないか。)儂はそう言おうとして口から出かかったその言葉を飲み込んで胸に抑え黙って相手が何を言うのか待ちました。


「実は私はこの国の人間ではないのです。」その言葉を聞いて成程と儂は思った。だが黙っていた。


異国から船に乗ってこの国へきて夫と知り合いました。長崎であの人と会った時、すぐに私達は前の世でもまた前のそのまた前の世からお互い約束していた相手だったと思いました。私は勿論の事、夫もそう思うと言ってくれました。私と夫とはそういう間柄なのです。ですから土地柄が違って親しい知り合い一人いないこの土地でも夫さえ居れば私はどんな苦しみでも乗り越えて行けました。でも、唯一頼りの夫は今にもここから旅立って逝こうとしています。ですから私も一緒に逝かねばなりません。」妻女はそう言うのです。儂は驚いてしまいました。武家社会では夫が切腹したら妻女は自害をして夫の後を追うという話を聞いた事がありますが、そういう事は滅多にある事ではありませんし、この妻女は武家社会の中で生きている訳でもありません。ましては、異国から来たと自分で言ったばかりです。しかも、まだ幼い子供を残して夫の後を追うと言うのですから。この妻女は心細さの余りどうかしているのではないかと思いました。それにしても言葉遣いはもとより、少しのおかしい所も見当たりません。儂は妻女の話を聞きながら、この国のなめらかでしかも礼儀正しい家に育った丁寧な言葉遣いはどこで身につけたものだろうかとずっと考えていました。儂は自分も落ち着き、相手にも落ち着かせる為に茶をすすめ、自分でもゆっくり茶を飲んでからこの女性がこの国へ来るまでの事を聞いてみました。すると妻女は自分達二人がいなくなった後、残った女の子の後見人をお願いする儂に全てを話しておこうと思ったのでしょう。話し始めました。


「私は物心ついたころには大陸の長安という所にいて祖父母と一緒に暮らしていました。だから、その長安から大分離れた所の別の所に実の両親や兄弟姉妹が何人もいるという事を後になってから知らされました。私は末っ子だったらしくその私を自分達の元で特に祖母が仕事に忙しく、留守がちの祖父のいない時もまるで唯一の宝物のように慈しんで大切に大切に育ててくれました。その祖母が、自分が丁度今のまおの年頃に呆気なく亡くなってしまいましたので、それからは自然に祖父に育てられる事になりましたが、あの優しい笑顔で私に語りかける祖母の面影はいつまでもいつまでも私の中に残っています。忘れる事等決して出来ません。祖父はいろいろと商いに通じた人で、祖母が亡くなってからは遠くへ出歩く事は無くなっていましたが、昔はあちこちの国の人と絹布や玉等を持って珍しい物と交換する商売人だったようです。祖母も死んで自分も年老いて、小さい孫娘をかかえる事になってから、あの頃は商売人が止まったりくつろげる宿屋のようなものをしておりました。その仲間うちでは大層の顔だったようです。祖父はどこへ行くにも誰と会うにも私を連れ歩いたので、自然いろんな国の人達にも私は大層可愛がられました。私の本当の名前は蓮華と言うのですが、小さい私は子猫のように愛らしいという事で誰もが私の事を、シャウマオ、シャウマオと呼んで可愛がってくれました。シャウマオとは可愛い子猫という意味なのです。祖父もいろんな国の言葉を話せましたが、私もいつの間にか当然のようにいろんな国のいろんな部族の言葉を話せるようになりました。らくだの扱いも出来ましたし、馬を自由に乗り回す事も出来ました。十一・二歳の頃には、いっぱしの祖父の片腕にでもなっている気分でした。シャウマオは頭が良い、シャウマオは何でも出来る、シャウマオには話せない言葉はないだろう。周りの皆は口々にそう言って私を誉めました。その頃は私自身自分には出来ない事はないような気がしていました。そういうある日、祖父はちょっとした用事の帰りに、今までは私が立ち寄った事のないような所に一緒に連れて入りました。珍しく祖父は私を男達が集まって酒を飲む酒場という所に連れて行ったのです。一番先に私の目に入ったのは、その店を仕切っているらしい見事な白髪の女の人でした。その前に座るか座らないうちにどこからかシャウマオ!シャウマオ!と呼ぶ声がして振り向くと、何人か見知った顔の男達が向こうの奥の方でもう酒を飲んでいるようでした。酔いも回っているらしく、ほろ酔い気分で私の名前を呼んだようでしたが、だが祖父は何故かその人達を完全に無視して女主人のいるすぐ傍らに私を連れて行くと、私をその人に引き合わせました。髪が真白でちょっと見には老婆かと思いましたが、近くで見ると髪が白いだけで他はまだ随分若くて美しい人でした。しかも、目に独特の光を持った人でした。「孫娘の蓮華だ。」祖父がそう言うと女主人は、私の顔と目を何か探るようにあからさまに見ました。その目に見つめられると何もかも隠しておけないような気分になったことを覚えています。少しして、「情の濃い賢い目をしているネ。」「この娘はこの辺の男では満足しないだろう。自分が求める相手なら山越え川越え海までも越えて行くだろう。そしていつかそういう相手にきっとめぐり逢うだろう。だがそれからの一から十まで、何もかも順調にいかないのが世の中だし人生だ。まあ、けれどこの娘の血はやがて代々流れ受け継がれてやがては大輪の花を咲かせるだろう、きっとだヨ。この娘か、この娘の子供にとんでもない災難が押し寄せるだろうが、どこからか救い手が現れて危難から救い出してくれるヨ。まるで物語の中の主人公のような娘だヨ。この先、何があっても自分が考えて選んだ道を行く事だネ。」そう話している女主人はどこか死んだ祖母にも似ているナーと思って私は楽しくその話を聞いた事を覚えています。そしてそこから帰った夜に祖父は突然、郷里に帰る事にしたと言い出しました。


「儂もそろそろ年だ。今までは家に金を送るという口実で随分好き放題に生きて来た。だけれどもつい先日、次男坊が来て、おふくろも年をとって今じゃ親父が帰っても何も言わずに迎えてくれるだろう。せめて最後は少しの間でも夫婦一緒に暮らしたらどうだ?そう言うんだヨ。あれも亡くなって暫らく経つし、金も貯めた。今が帰る潮時だと思う。祖父がそう言うので私は呆気にとられました。向こうに本当の妻、つまり私の本当の祖母がいるというのです。じゃあ私を五歳まで育ててくれたあの優しいお婆さんは本当の祖母じゃなかったのかと私には大きな驚きでした。私はいわば祖父のおめかけさんに育てられていた事をその時初めて知りました。あの人は例え血がつながっていなくても私の事を本当に本当に可愛がってくれました。だから私は本当に幸せに育つ事が出来たのです。私がボーッとそんな事を考えていると、祖父がシャウマオお前はどうする?一緒に帰るか?お前の両親も兄弟も叔父さんも叔母さんもそれに何より本当のお祖母さんがお前の顔を見たくて待っているそうだヨ。どうする?と聞く祖父の顔は少し寂しそうでした。祖父も私も大家族が待つ郷里に帰ったらそれは賑やかで楽しく暮らせるだろうと思いました。それがめでたい事だと一瞬思いましたが、でも、それでは亡くなったあの優しいおばあちゃんはどうなるの?誰からも忘れ去られて初めっからいない者にされてしまうのだろうか?あの人がどういう経緯で祖父と知り合い子供も作らず祖父について歩き最後にようやく手に入れた、たった一つの宝のようにあんなに私を可愛がって大切に育ててくれた人。まだそんなに年老いてもいないのにろうそくの火がフッと消えるように儚く逝ってしまった。その人の事が急に悲しく思えて私はポロポロ涙を流して泣きました。祖父もうなだれていました。そして、シャウマオ、お前がしたいようにおし。故郷に帰るもよし。ここ長安に残って自分の生きたいように生きるも良し。酒場の水蓮のみたてはお前はもう何も儂が心配しなくても自分の道を行くと言ってたナ。あの水蓮のみたてはよく当たるんじゃ。気の向いた時にしかみようとしないが、儂の今まで来た道はあの水蓮の占いで随分助けられたものだ。あの時もそうだった。あの水蓮が最後に生まれた孫の女の子をあれに育てさせれば、あれは最後まで俺と一緒にいた事を悔いる事なく幸せと思って一生を送るだろう。そう言ったのは水蓮なんだヨ。そう言われて儂は久しぶりに故郷に土産を持って帰ってみた。すると水蓮の言う通り長男の家では八人目の孫が生まれたばかりだった。しかも女の子だった。それがお前だヨ。子沢山でまだ小さい子供が沢山いてしかも忙しい仕事の合間に生まれたばかりの子供を育てるのは大変だろう。せめて儂にも少しは手伝わせて欲しい。この子は儂が責任をもって面倒を見る。そう言って、お前の親達に満足するだけの金を与えて儂はさらうようにしてお前を連れて長安に帰って来たんだ。そしてその生まれたばかりへその緒の取れたばかりのお前を麗華に与えたんだ。麗華は涙を

流して喜んだ。何せ向こうの家には、つまり儂の本妻には長男の孫達の他に二男の所の孫達、また近くに嫁いでいる娘達二人の孫達が沢山いて、それに取り巻かれているんだから。それに、お前の親達にしたって何も他人に預けるのではなく本当の祖父の所で育つのだから安心という気持ちがあったろう。儂は年に一、二回はお前の様子を知らせるついでに金を送ってやった。そしてお前が五歳になった時、麗華は呆気なく逝ってしまった。全く呆気なかったヨ。あの時、お前はまだ五歳だったが、儂はすぐに故郷に帰る気持ちがしなかった。あまりにも死んだ麗華が不憫だったからナ。だけどあれからもう七年が経った。儂も年老いた。次男がわざわざ長安まで出て来て帰って来ないかと言ってくれている。今が潮時だろう。」祖父は淋しそうにそう言いました。「じゃあ、私を育ててくれたお祖母ちゃんは幸せだったの?」と私はすがるように聞きました。「ああ、それは幸せそうだった。以前は少し憂いのある所が気になったが、お前を育て始めてからはすっかり明るくなってそれはそれはお前に夢中だった。自分の宝物だっていつも言っていた。最後に息を引き取る時もこう言っていたヨ。私はあなたという人に出会えて一緒になれて本妻さんには申し訳なかったけれど本当に幸せでした。この子にも私のように本当に好きな人と一緒になって本当の幸せを知って欲しい」ってネ。儂が後悔していないかい?と聞いたら、「後悔などするものですか。もう一度生まれ変わっても私は貴方を見つけ出して一緒になって、そしてまた、あの子を育てます。」笑ってそう言っていたナ。シャウマオ、お前だけはどこにいても麗華の事を思い出してやって欲しい。この宿は仲間の一人に売ったが、お前のよく知っている男だから部屋は今まで通りシャウマオが居たいだけ居ていいと言ってくれている。何か困った事があったらあの酒場の水蓮に相談するんだヨ。そして帰りたくなったらいつでも郷里に帰って来るんだヨ。」そう言ってその間もなく後に祖父は大金を持って帰って行きました。私はその後、暫らくは祖父と祖母麗華の匂いの残る部屋でボーッとしていましたが、どうしても自分の身の振り方が解らなくていくつか仕事の口はあったのですが、決めかねてまたあの水蓮の所に訪ねて行きました。扉を開けて中に入ると、水蓮はその見事な銀髪を前以上にキラキラさせながら、「また来ると思ったヨ。」と笑いました。「シャウマオ、お前はこれからどっちの方へ歩いて行ったら良いか知りたいのだネ。」と言うのです。私が困ったように頷くと、「それは解りきった事サ。それなら、」と言ってから、「お前がこれから会う人の中におや?と思いお前の興味をそそる人がいたらその人とじっくり話をしてみるんだネ。きっとその人が自分ではそうと知らずにお前の行く道を教えてくれるだろうヨ。」と言いました。私はその一見雲をつかむような返事に本当はがっかりしたんです。いっそお前にはこういう仕事が向いているとかお前は西の方へ行った方が良い。あるいは東の方へ行った方が良いと言ってくれる事を期待していたのです。その日の店の中は珍しくお客が殆どいなくて静かでした。いつも声高に語り合う者達がいないとこんなに静かなのだ、そう思っていると、水蓮が、「丁度良かった。向こうの隅に座っている貴人にこの飲み物を持って行ってくれないか?いつも手伝ってくれる者が今日は用事で休んでいるんだヨ。」と言うのです。私は水蓮にそう頼まれて、お盆に盛られた酒と肴を持って行きました。水蓮が貴人と言った通り、その人はどこか気高い雰囲気の人でした。しかも大層変わったなりをしてこの国の人ではないなとすぐに解りました。それは日本の羽織、袴姿だったのです。腰には重そうな刀をさしているあのサムライでした。私は驚いて少し緊張し何と挨拶して良いかと思いましたら、その貴人は向こうからニッコリ笑って私達の使う言葉で声を掛けてくれました。私がホッとしてお盆を置きますと、貴人は「シェイシェイ」と言ってくれました。私が頬を紅潮させて帰って来ると、水蓮が、「あの方は日本の方でもう随分前からこの国におられてこの国の大事な仕事を任せられているお方だヨ。言葉も私達よりも余程達者だから安心おし。シャウマオ。国によってああも違うものかネ。この国の人達とあのお方は話し方も仕草もまるっきり違う。面白いものだネ。」

そう話しているうちに何人かの男達が入って来ました。入って来るなり盛んに語り出しました。そしていつものように店の中はいっぺんに騒々しくなりました。聞き慣れれた活発な言葉のやり取りの中で、日本から来たというその貴人は一人静かに酒を飲み肴を食べていました。喧噪の中ではまるでその人は陰のようでしたが、それでも私はずっとその人が気になり出しました。

私はお酒を持ちながら、その貴人の所に行って「貴方の国の言葉でシェイシェイは何と言うのですか?」と聞きました。貴人は静かに笑いながら、

「ありがとう。」と言います。また、丁寧できちんとした言い方は、「ありがとうございます。」と言うのだと教えてくれました。私はいろんな国の言葉を話せましたが、日本の言葉は話せませんでしたので急に日本の言葉を覚えたくなりました。

その事を水蓮に言うと、あの方はいつもいらっしゃるという訳ではないんだヨ。もしも気になる事があったら今聞いてみるんだネと言ってくれました。

私は思い切って貴人にその事を話しました。日本の事や、言葉を覚える為にはどうしたら良いでしょう?

するとその方は、自分の屋敷で働いていた者が嫁いで、今丁度人手を探している所だからうちで働いてみる気はないかと言ってくれました。偶然の出会いから急な思い付きで更には、働き口まで声を掛けられてまるで夢のようでした。

私は一も二も無くすぐに承諾してその貴人の家で働くことにしました。

その貴人の名は“阿部様”と言います。年は私の父よりもまだ年齢が高い方ですが、若い頃から異国に渡って来て長い間こちらにいらっしゃるという事でした。とても御立派な方でした。

日本に帰る事を再三願い出ているけれど、この国でも日本でも阿部様がここにいていろいろお仕事をして下さる事で、相方の行き来が順調に運ぶ為、なかなか帰国のお許しが出ずもう二十年以上も経ってしまったと悲しそうにおっしゃっていました。

私は阿部様を日本でそう言うように“殿様”とお呼びしておりました。

お屋敷はとても御立派で和国風の造りでした。

入ったばかりの時、日本ではこのように屋敷に使われている者は御主人様の事を何とお呼びするのかと聞きましたら、普通は“殿様”と呼ぶが皆と同じようにここの言葉で御主人様で良いとおっしゃったのですが、私は全て何もかも日本の事を覚えたかったので、いいえ、どんな些細な事でも日本と同じようにしたいのです。間違っていたら正して下さいとお願いしました。

すると殿様は、それを大変面白く思ったのか、挨拶や仕草まで本気で自分の国の女性ならこうする、ああすると教えて下さいました。

あのお屋敷には男女合わせて私も入れて六人働いておりましたが、私以外は長安近辺の漢人でした。

殿様は言葉は私達と同じく流暢ですので、使用人も自分達の言葉で良かったのです。

その中で私だけがただ一人、しかもまだ十三歳の小娘が日本の言葉を覚えようと一生懸命必死でした。

まあ年の離れて若かったのが幸いしたのでしょう。私は殿様にも自分の娘のように可愛がっていただき、周りの使用人仲間からも可愛がられて楽しくお仕えする事が出来ました。

そこでの暮らしは大変楽しゅうございました。二年もすると私は、殿様と和国の言葉で話すのが大して苦労もなく話せるようになりました。そうなると殿様は、和国の女性が着る着物や帯をどこからか取り寄せて私に着せました。

髪も髪結いを読んでそれらしく作らせ、髪に飾るかんざしもさしてくれました。

私は何事につけ好奇心いっぱいの性質であり、年頃です。それがただ面白く楽しくどんどん身について行きました。

そんなある日、お屋敷にお客様がありました。私は普段から殿様に厳しく指導を受けていた通り、日本の娘姿のなりをしてお客様のおいでになる座敷に出てお茶を点てて差し上げました。

お客様はお二人でしたが、この遠い異国に来て自分の国の女性が点てるお茶が味わえたと大変感激して、貴女のお名前は何とおっしゃるのですかと聞かれますので、雅(みやび)と申しますとお答え致しました。雅とは殿様が下さった日本の名前です。お二人のお客様は最後の最後まで私の事を和国の娘と思い込んでいた様子でした。


そのようにして私は、殿様の屋敷で皆から可愛がられ大事にされながら和国の言葉ばかりか作法も身につける事が出来ました。

あの頃の五年間はとても楽しいものでした。

ある日、やはりお招きしたお客様ですがこちらに漢方や針治療の勉強に来られて、いよいよ日本に変えられるというお医者様が見えられました。

殿様はその方が日本に帰られる事を大層喜ばれて、良かった良かったとおっしゃっていました。ですが私は知っています。

自分の親しい友人達が一人、また一人と自国に帰って行くのは本当は淋しいに違いありません。私はその殿様のお気持ちを思うと、自分の事のように悲しくてポロリと涙が落ちました。それをみて殿様は笑い、雅も本当に日本の娘になりきったようだとおっしゃいました。

するとお医者様が、この娘御は日本の娘ではないのかと非常に驚かれました。

殿様は笑いながら本当の事を話しました。

お医者様は、これは驚いた。我が国へ行っても誰も異人だとは思わないだろうとおっしゃいました。

それを聞いて、私はきっと目をキラキラさせていたのでしょう。

殿様とお医者様は私に向かって、日本に行ってみたいか?とお聞きになりました。

私は即座に“はい”と答えました。

そして私は、そのお医者様の帰る船に異人としてではなく殿様の娘、雅として一緒に乗り日本に来たのです。

着いたのは長崎という所でした。

そこは異人達も珍しくはなく、いろんな人達が多勢賑やかにしておりましたが、私は自分がどこまでこの国の娘として通用するか興味がありましたので、あくまでも雅として通す事にしました。

異国でお勉強して帰られたお医者様は国に帰られるとなお一層忙しいようでしたが、それでも何かあれば自分の身元を知るお医者様がいてくれると思えば、大変心強うございました。

先生は、あちこちで身につけた漢方や針治療の講義に走り回り滅多に顔を合わせる事が出来ませんでしたが、私はその先生の所にいて薬草畑等をてつだいながら、この国の娘、雅としてそこで働き始めました。

そしてその時に知り合ったのが夫です。

私は多勢いるお弟子さん達の中で、あの人と目が合った瞬間、何とも言えぬ懐かしさを感じました。

この方に逢うためにはるばる海を越えて来たのだ、そう思いました。

それからは、先生のもとで一緒にお手伝いと薬草の勉強をし、時々お話をするうちに、この人が自分の夫になる人だと思うようになりました。

最初はここ日本には、一年や二年いろいろ見、聞きしたらまた、自分の国へ帰るつもりでいました。まさか日本へ来て日本の人と一緒になろうとは思いませんでした。

殿様もそうなるとは予想もしていなかったでしょう。

でもいつの間にか、私はあの人と別れてまた元の大陸に一人帰る気持ちにはなれませんでした。もう二人の気持ちは決まっていました。

私はその時、初めて夫となる人に自分がこの国の者ではなくて異国人であり、大陸から来た事を話しました。

あの人は非常に驚きましたが、決してそれで気持ちが変わる事はありませんでした。

先生に話をした時は、さすがに先生は何も言わず暫らく考え込んでいましたが、異国人だという事で辛い思いをする事を考えて、このままで通した方が良いという事になりました。

もしも素性を問われても、ある武家の出だという事にしたのです。

ですから夫の家が何代も続く由緒ある庄屋であり、その家に来た嫁が異国人ではあってはならなかったのです。

その後の事は和尚様の御存知の筈です。


私は今までとても幸せでした。

生まれてから今までずっとずっと幸せでした。

皆からシャウマオと可愛がられ、お祖母さんお祖父さんから宝物のようにして育てられました。

可愛い小猫、可愛い小猫と呼ばれて……。

そしてまた、殿様の所でも大事にされました。

そしてあの人に逢う事が出来ました。あの人との間に子供も生まれました。

今まで、あんまりにも幸せ過ぎたのです。ですから悔いはありません。

私の生まれた土地には古くから語り継がれているお話があります。

それはこういうお話です。


昔々ある所に、とても仲の良い高貴な若い夫婦がいました。

ある日夫が戦いに出なければならなくなりました。

夫は心配する若い妻に、必ず帰って来る。どんな事があっても帰って来るからと誓いました。なぜなら夫が空を指さす方を見ると、あの並んで輝いている二つの星は私達なんだからと言うのです。成程、そこには小さい二つの星が並んで光っています。今まで気が付かなかった星がまるで自分達のように寄り添って輝いています。妻は泣き顔で笑いながら、夫を送り出すしかありませんでした。

しかし、その後かなり経っても夫は帰って来ません。

若い妻は夕暮れになると空を見上げながら星を探しました。

二つの星はやはり小さく輝いています。

待って、待って、待って。どんなに待ったでしょう。

ある日何故か若い妻は、急に矢も楯も堪らず周囲の人達に黙って家を出ました。

どこへ行けば良いのか解りません。

ただひたすらあの夕暮れの空に瞬く二つの星を頼りに歩いて行きました。

貴女がおっしゃった事は本当ですよネ。きっときっと本当ですよネ。必ず会えますよネ。

若い妻は夫の面影に話しかけながら、広い広い草原の中をただ星の瞬く方向に歩いて行きました。

行けども行けども人の影や家の影等一つもない草原を、二つの星を見上げながら暗い中をひたすら歩いて行くと何かにつまずいて転びました。

何とそこにはあんなに待ち焦がれた夫が息も絶え絶えに倒れていました。

月の明かりが夫の顔を照らしました。

妻の顔も照らしました。

夫はもう息も絶え絶えでしたが、妻の顔を見るとパッと嬉しそうに笑って「ホラ、やっぱり会えたじゃないか。」そう言って幸せそうに笑いました。

妻も嬉しくて嬉しくて生きている夫を抱きしめてうれし泣きに泣きました。

「私達二人はいつまでもいつまでも、一緒なんだヨ。」そう言って夫はもう力が尽きたようでした。妻は夫に遅れまいとして隠し持っていた小刀で喉をついて一緒に逝きました。

やがて朝陽が登った時に二人一緒に死んでいるのをたまたま通りがかった村人が見つけて大変騒ぎになりました。

こんな人里離れた何の目印もない所に、何故相手を探し出す事が出来たのだろうと、後々まで口から口に伝わり語り継がれたそうです。

何故ならそこは家からも戦地からも幾十里も離れた草原だったからです。

二人がどのようにめぐり逢えたのか不思議だったからです。

人々は、あの二人はきっと次の世でもまた、次の次の世でも一緒になるだろうと話し合いました。


私は小さい頃からその昔話をお祖母さんから繰り返し聞いて育ちました。

そして幼いながらも、本当に好きな人と出逢えたら自分もきっと夫と死のうと決めて来ました。

和尚様から見たら幼い子供を残して夫と一緒に逝くのは身勝手に思うかも知れませんが、あの人のいないこの世界で私は生きては行けないのです。

それにあの子はこの先、幾多の困難を乗り越えてもやがて幸せになる事を約束されています。あの酒場の水蓮が言った言葉ですから、必ずやがて大きな花を咲かせます。


妻女は自分の話した事をかたくなに信じているらしかった。

そういう相手に対して儂は何も言えなかった。


妻女はその日の来るのを予測して自分の家の棟に占い婆の信女を住まわせているらしかった。

あの妻女は儂などが止めても止められるものではない。この国の女ごなら止められもするだろうがのー。儂はつくづく思ったものだ。姿形、言葉はこの国を真似ても体の中に流れる血は変えられるものではなかろう。この妻女の体の中には我々日本人にはない並々ならぬ情熱が激しく渦巻いているようだった。

そして、それから何日も経たないある朝、儂に知らせが入った。

驚いて駆けつけると、全て何もかも準備されていたように、あの若い医者に寄り添うように妻女も死んでおった。きっと自分で育てた薬草の中に毒のあるものも育てていたのだろう。それを飲んだに違いなかった。

本当に子供を置いて死ぬとは何て女なんだと儂は思った。


二人の枕元には達筆な字で、

 一緒に逝く事をお許し下さい。

 娘のまおの事は信女様にお願いしました。後を宜しくお願いします。

と書いてあった。


その書状通り儂はひっそりと弔いを済ませ、その後で医者の親達に知らせた。

そしてその時、何かあれば相談しますが一応私が小さな女の子の後見人を頼まれた事を話すと、亡くなった息子の親達は安心したようだった。何せその頃には妹娘に婿をとり、子供も出来、自分達は老いて力もなく、この先勘当した息子の子供を引き取るとなれば、何かと面倒が起きる事になるのは解りきっているからだろう。

老いた元庄屋夫婦は、残った子供に使ってくれとなにがしかの金をよこした。

その金と占い婆のわずかの占い料と、また寺からきちが時々届けるものでまおは育ち、あのような美しい娘になったのじゃ。

占い婆の信女はああみえてなかなかの物識りで、よくあのようにまおを立派に育てたと思って儂は感心しておるのじゃ。

きちも表には出ないが、何かと母親の信女を助けておったようじゃ。

それなのに、まおが小さい頃は知らんふりしていながら、年老いた親達が相次いで亡くなって居なくなると、妹婿のあの今の庄屋のじん助がとんでもない事を思いついたのじゃ。

だんだん美しく成長して村の人々の評判になって来ると、そのまおを利用しようと考えたのだ。

あの男はなかなかの商売上手な男で、自分の代で身代を倍にも三倍にもしてみせると豪語しておるしたたかな男で儂は好かん。

自分より偉い者にすり寄っては、いろいろ工作をするのでいくら庄屋でも皆が皆、胸の奥で快く思ってはいないが、それが去年の大雨で流された橋を新しく作るのに、代官の力を利用しようとして代官にすり寄っているという噂を聞いた。

その代官というのが評判のよくない好色な男で、しかもその男を利用するのに白羽の矢をたてたのが何とまおだったんじゃ。

あの通りまおはこの地方ばかりか江戸に出しても目立つ程の器量良しじゃ。代官が気に入らない筈はない。

案の定、代官はその気になって橋作りに許可と助成の金を約束したそうだ。

それというのも、世にも稀な美しい女を自分のものに出来るという下心からに他ならない。

今の庄屋のじん助はいけすかない男だが、村には誰も表立って異を唱える者がいないのだ。儂とてそうじゃ、胸の内じゃ苦々しく思っていても誰に頼まれもしなければ自分から、しゃしゃり出て行く訳にも行かぬ。ましては相手はこの村の庄屋とあの代官じゃ。まお自身が決める事だから傍がとやかく言える事ではない。

だが儂はその噂を聞いた時、すぐにまおの所に行って話をした。

まおの母親が以前、私に話した事をの。するとまおはうなだれて聞いていた。

何も言わないで、ただ悲し気な顔をしているばかりなのだ。

あの子の母親はあんなに自分の気持ちを貫く女なのに、この娘はどこまでも儚げで頼りがない。儂が歯がゆくそう思っていると、側にいて話を聞いていた占い婆の信女が

「何も心配せんでいい。今に救い主が現れるんじゃから。」と言うばかり。

この占い婆の信女は昔から儂も知っているが、何でも解り切っているような物言いをする。

最初は、どうせいい加減な事を言ってと腹を立てた事もあるが、それが大方言ったとおりになっているので、この時もこの窮地に救い主等来るものか。そう思ったが、それかといって他に良い手立ても無しに困っていたんじゃ。庄屋のじん助は時々まおの所に来て、代官様の妻女になるなんて大変な出世だとかなんとか説得にかかっていると聞いている。

するとこの三日程前、また噂が耳に入って来たんじゃ。

噂と言っても確かな事じゃ。

まおはじん助の話にまるで首を縦に振らない。するとじん助は何を血迷ったのか急にとんでもなく脅迫めいた事を言い始めたという事なんじゃ。

橋を架けるには昔から二度とその橋が流されないように人柱を立てる事が慣わしだ。

その人柱には村で一番美しい娘がなるというのも昔からの言い伝えだ。

このままでは村で一番美しいと評判のまおが人柱にされかねない。

だが、その前に代官様の妻女におさまれば、それから逃げられる。そう言い出したのだ。

そしてさらには、村の若者でまおの事を想っているような者を調べあげて、その中でもまおが時々仲良さそうに話しているという村のはずれの百姓の次男坊の仙吉を問いただした。

まおの事が好きかといきなり聞かれて仙吉が、“はい”と答えると、またたく間に隣村の醤油屋の娘の縁談話を持って来て、無理矢理、相方の親同士を納得させて、あっという間に婿にやってしまったというのだ。

その話はあっという間に広がって、もう事情を知る若者は、村の中の者は勿論の事、近隣のまおに憧れ想いを寄せていた者達は誰もまおに近づけなくなってしまったのじゃ。

まおは大人しそうでいて頭の賢い娘だ。

なにもかもじん助の魂胆も充分承知している。

だが好色な代官の所に行く気はサラサラない。あの娘は人身御供にになるくらいなら橋の人柱になっても良い、そう言ったそうじゃ。

最初は今の時代、そんな馬鹿げた事があってたまるかと笑い飛ばしていた儂らも笑って見ていられぬ事になって来た。

じん助も後には引けぬようになったのだろう。

自分の思い通りにならないまおに肝を焼いて、この頃では本当に人柱をたてかねない様子になっているのだヨ。

あの娘は何を思ってか、この所滝行をしているのだと聞いた。

もう諦めて覚悟を決めているのかと思うと哀れでならない。

心の内はどんなだろうと思うと本当に哀れで仕方がない。

何とかせねばならないと儂も村のこれといった者達と相談しているのだが、この土地に住み、これからもこの土地で生きて行かなければならない身にとっては、うっかりした事が出来なくてのー。何といっても相手は庄屋と代官だからのー。ほんにどうしたものかと悩んでいた所なんじゃ。」

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