第23話 鈍感な悪役令嬢


「まあ、大体は収まったかね」


 文官らに大量の書類一式を積み上げさせ、ネル婆は一息ついた。

 

 これらはタランテーラ王国随所から寄せられた被害届けと嘆願書である。

 前代未聞の大惨事に、多くの死者を出し、さらには多くの地域が、溢れた樹海の毛だものらに呑み込まれてしまった。

 惨事の傷痕は生々しく深く、未だに王都周辺にも住み家を失った難民らがひしめいていた。


 だが、これでもまだマシなのだ。


 深夜に起きた未曾有の大惨事。


 これに対抗しえたタランテーラはまだしも、この大陸周辺国の多くは、対処も出来ずに半壊の憂き目にあったらしい。

 あれから三ヶ月。

 国内支援で手一杯だったタランテーラにも、いくらかの余裕が出来てきた。


 だからこそ、エカテリーナの帰郷が許されたのである。


「今頃はハシュピリス領内に入った頃かね」


 ネル婆は長く着けていたモノクルを外し、細く長閑な眼差しで、孫らに続いているだろう青い空を見上げていた。




「そうなんですのっ、びっくりいたしましたわっ!」


 ところ変わってハシュピリス領内国境。

 そこでは、小さな貴婦人が身振り手振りを交え、屈強な兵士らに熱弁を振るっている。


「御姉様は、こーんな大きなトカゲを仕留めて参りましたのよっ、ええ、そりゃあもう大きくて鋭い牙がありましたわっ!」


 樹海慣れしている兵士らには珍しい話でもなかった。

 そういった野獣や猛獣は掃いて捨てるほど現れる。

 しかし、それが初見で興奮する幼女の冒険譚に嘴を挟むほど、彼等は野暮ではない。

 大仰に驚いてみせて、大きく頷く気の良い兵士達。

 それに気を良くして、ミルティシアは満面の笑みを浮かべていた。


「大層ななつかれようだな」


「可愛いでしょ?」

 

 ソファーに座り、ミルティシアのはしゃぐ姿に眼を細めつつ、エカテリーナは紅茶をすする。

 同じく紅茶を片手にやってきたラシールは、程よい間隔を空けて彼女の隣に座った。

 分を弁えて配慮する無意識の隙間に、エカテリーナは好感を持つ。

 たとえどんな心を抱いていても、職務と身分を鑑みて正しい距離感と分別を表す当たり前の配慮。

 これの出来ぬ貴族の、如何に多い事か。


 選民意識を履き違え、権力には義務が生じる事を理解していない馬鹿野郎様らを脳裏に描き、エカテリーナは無意識にこめかみを押さえた。

 今回の惨事で、その馬鹿野郎様どもは浮き彫りとなった。

 今頃、王妃やネル婆様によって、容赦なく洗い出されている事だろう。


 いくらかの御家取り潰しも有り得るわね。それを今回の功労者への下賜とする事も出来るし。


 子爵、男爵あたりは確実に潰される。伯爵系も領地減少は免れまい。近隣で功績を立てた者がいれば、そこへの報奨となるだろう。

 

 御茶を片手に頬杖をつき、頭の中でパチパチと算盤を弾くエカテリーナに、ラシールは苦笑しながら呟いた。


「物騒な顔をしておられますよ、ハシュピリス伯令嬢」


「あらやだ、ごめんあそばせ」


 ぴゃっと背筋を伸ばして、エカテリーナは柔らかな笑みを浮かべる。

 ここは辺境伯領内国境の駐屯地だ。身内だらけなので、少し気がゆるんでいたらしい。彼女は公爵家の随員の存在を忘れていた。


「まあ、そんなリーナも好きだからかまわないけどね」


 エカテリーナだけに聞こえる絶妙な音量でラシールは囁く。その声音は酷く甘い。

 蕩けるような熱さを含んだそれに鼓膜を擽られ、エカテリーナは頬に仄かな朱を走らせる。

 

「馬鹿言わないでっ、もうっ」


 言葉そのものは大した台詞ではない。その文面だけならば、然したる問題もないのだが、それに乗せられた情感に、堪らぬ劣情がこもっている。

 まるで声が滑る舌先のように、ねっとりとエカテリーナの耳を掠めていくのだ。


 どうやったら、そんな甘ったるい声が出せるのよっ! 


 平静を装うエカテリーナだが、思わず掻き上げた彼女の指の隙間から見えたうなじは、真っ赤に染まっていた。

 それを眼にして、ラシールの脳髄に淫靡な疼きが爆ぜる。

 いくらでも彼女を翻弄する方法はあった。人知れず妖しく楽しむ手管とて熟知している。

 しかし、ラシールはそれをしない。

 エカテリーナが、それを望んでいないから。

 王太子の婚約者である間は、彼女の心はそれを良しとしないだろう。


 不埒な耽溺に溺れる愚かな女なら良かったのに。


 ラシールの眼窟奥に、舐めるような淫猥な火が灯る。


 だが、そんなエカテリーナであれば、ここまでラシールの心を掴みはしなかっただろう。


 ああ、もう、支離滅裂だね。俺は。


 手を伸ばせば届く位置に肉体はある。しかし、その心は計り知れず遠い。


 十年待ったのだ。あと数年など知れていた。

 身の内に巣食う獣を上手に飼い慣らし、ラシールは胸の奥で暴れる狂暴な己を封じ込める。

 こういった忍耐はべらぼうにあるラシールだ。伊達に王太子の側近筆頭としてやってきた訳ではない。

 これまでの刹那的な倒錯めいた忍ぶ恋を思えば、声高に明言して彼女を待てる今は、明らかに至福で溢れていた。


 今しばらくの辛抱だ。


 知らず不均等に歪む口角を隠し、ラシールは優雅にティーカップを傾ける。


 時折見せられるラシールの狂暴な雄の色香に戸惑いながら、エカテリーナは駆け足になる鼓動を心地好く感じていた。


 指一本触れていなくても、情は着実に育つ。

 己を絡めとる強固な軛に、未だ気づかない恋愛初心者なエカテリーナである。


 全てはラシールの掌の上だった。

 

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