第5話

 私は今でもあの日を思い出す。


 夏の真ん中へと季節が移り、夜の空気に香りある湿度が含まれるようになったあの日。ベッドの下で漫画を読んでいた私は、都築つづきからの着信に気づいた。


「もしもし!」

 私の声は弾けていた。いつもなら都築からは文字のメッセージしか届かない。こうやって電話をくれたということは、例のレコードレーベルの件に進展があったのだろう。

「……もしもし? 都築?」

 だけど、電話の先からは返事がなかった。

 二十秒ほど無言のあと、心の一部を抑え込んだ声がかろうじて発せられた。


「だめになった」

「え、池袋のやつ? なんで?」

「爪が、だめになった」


 都築の雄弁はなりを潜めていた。私は言葉を選びながら状況を聞き出す。都築は時折詰まりながらも、レコードレーベルに面談の断りを入れたことを教えてくれた。

 都築の爪は、限界を迎えていた。彼の爪弾きは、少しずつ爪を削っていっていたのだ。そしてとうとう今日、人差し指の爪が縦に割れた。これでは生音を聴かせることなどできない。それどころか、おそらくはもうギターを弾くことすらできなくなってしまうだろう。


 私は、ピックを使って弾いたら、とは言わなかった。

 彼は爪弾きを自分の個性にしていた。ピック弾きを拒んでいた。そしてその爪弾きが都築の自然な演奏を生みだしていたのだ。おそらく大人になった今であっても、同じように私は無粋な提案を避けるだろう。


 言葉に迷う私に、都築は静かに言った。


「最後に一曲、聴いてもらいたくて。なにがいい?」

「そんな。爪、割れてるんでしょ?」

「中指で弾くよ。だから俺の曲はだめだぞ。俺の曲は、思い出の中にとっておいてくれ」


 最後に、というフレーズが心臓に響いた。

 都築は最後なのだと言う。真っ直ぐなあいつのこと、嘘はつかない。相当な覚悟を決めての電話、そして私への申し出なのだ。

 私の歯が小さく震えた。犬歯と下の歯が触れ合った。必死になって荒い息に蓋をしながら、やっとの思いで都築にリクエストの曲を告げた。


「じゃあ……『夜王子と月の姫』で」

「了解」


 その曲は、私たちが好きなゴーイングステディの中でも、落ち着いたバラード調の曲だった。

 電話越しに聞こえるほど大きな深呼吸のあと、ストローク音が鳴り始めた。人差し指を使っていないからか、どこかぎこちなくて崩れたリズム。それでも都築は、精一杯の声で私への一曲を歌い上げた。



 君が 星こそかなしけれ

 君が 星こそかなしけれ――



 痛かったろう、都築。

 割れた爪を振り回すだけでも全身に鈍痛どんつうが流れただろう。あの曲は、私への感謝だったのか。それとも、別れの言葉だったのか。その正体は、今となってもわからない。

 私の眼球に、薄い涙の膜が張られた。とめどない涙でも、乾いた諦めでもない。じんわりと、身体の奥底から漏れ出る熱量が私の光彩こうさいを捉えた。

 その気持ちは、やがて過ぎ去ってしまう時間への餞別に似たものだったのかもしれない。


 夏が深くなる。

 雨の気配がした。


 青春の時間において、空洞の夏ほどいやらしいものはない。

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