第五話

1


我等の軍資金は全額で786万である。此度の戦において、この金額は多い部類に入るのであろう。しかし、全額を賭けるのであるから大した違いはないだろう。此度の戦に対する戦術は、三連単と単勝に半額ずつ賭ける。流しなどの確実な勝を拾いに行かないという話になった。理想主義だとののしられるかもしれない。現実を見ろと言われるかもしれない。しかし、今の私たちならどんな困難にも立ち向かうことができるのである。

「行くぞ、マルガリータ決戦だ」

「ええ、この時のために今までがあったんですもの」

私たちは気持ちを一つに歩みを進めたのである。今回の人気は上からディープボンド、アリストテレス、ワールドプレミアと続いている。

「3連単だと、この通り買うのが一番安定かな」

「三人ともディープインパクトのちが入ってるなんて、流石ね」

「じゃあこのまま買っちゃうぞ」

「駄目よ、そんな面白くない買い方したら。もっと、考えましょうよ」

しかし、オッズが低いほど勝つものだと思っていた。さて、一発大きいのを狙うとなると単勝で穴馬を狙うしかない。

「なあ、おまえの悪魔の力で予想するとかできないのか」

「馬鹿!そんなことしたら競馬に対して失礼でしょう。どれだけの思いと金が一頭の馬にかかってるか知らないからそんなことを言えるのよ」

「ああ、わるい」

できるが、どうやら気持ち的にやらないらしいな。これは困ったそうするとやはり単勝は上位人気から選ぶことになってしまうな。

「マルガリータならどうする?」

「私なら、このワールドプレミアにするわね」

「どうして?」

「女の感、いや。ギャンブラーとしての感ね」

当てにならないようなセンサーが発揮されているようだ。そんな時ふと15番人気のジャコマルトいう名前が目に入った。単勝153.9倍。百円かけただけでも一万五千円を超えてゆく値段であった。

「なあ、このジャコマルてのはどうだ」

「オッズは高いけど、これに単勝かけるなんて狂気の沙汰としか言いようがないわよ」

「でも、なんだか応援したくなるんだよ。こういうのってさ気持ちだろ?」

「そうね、今回はあんたのレースだし。あんたが決めるといいわよ」

「ああ。単勝はジャコマルで393万ベットする」

「よくよく考えると、正気の沙汰じゃないわよね。もっと、流したりするべきだったんじゃない?」

「いまさらそんなこと言っても始まらないだろ」

単勝は決まった。もしも当たったら393万掛ける153.9で六億円を超える、そう思っただけで頭の中から弾けるような刺激が流れてい行く。

「次は3連単だが、これは手堅くいこう」

「そうね、私は地味にこのカレンブーケドールってのが熱いと思うわ」

「四番人気か」

「ええ、カレンブーケドールからディープボンド、アリストテレスこの三連だと思うわね」

「ワールドプレミアじゃないのか」

「それも考えていたんだけど、単勝と3連単だとなんだか肌に感じる者が違うのよ」

女の感とは恐ろしいものである、数秒後にころころ変わっていくのだから。しかし、競馬のことだと、まだマルガリータの言っていることを信じるしかないのも現実である。

「ワールドプレミアにも、少し賭けとかないか。複勝とかでいいから」

「それはだめよ、人間逃げに走ったら追われるだけ先はないわ」

「でも、逃げ馬っているだろ」

「G1だと逃げ馬が、逃げ切っている方が私の勝手な印象だと少ないわ」

「なるほどな」

しかし、聞いた話だとディープインパクトの走りは、ラストスパートにこそ真髄があるはずだ。

「なあ、それこそワールドプレミアじゃないか?」

「いえ、それは絶対にないわ」

「何でそう言い切れる」

「私が何度、そういう期待を裏切られたか経験が物語っているわ」

「なるほど、辛いな」

「ええ、辛いわ」

しんみりとした空気が場に流れた。よし、覚悟を決めてマルガリータの予想に乗っかってみることにした。上位人気の馬を並べたんだし、かなりいい線を行くのではないか。オッズはなんと200倍である。

「なあ、こんなのにかけて大丈夫か?俺不安になってきたよ」

「大丈夫、今日は競馬の神様が私たちに微笑んでいるのがわかるわ」

そういうマルガリータの微笑みは、いかなる万難を排してでも守り抜かなくてはいけないと感じさせた。ああ、競馬の神様がいるとしたらきっとこういう笑顔をしているのであろう。競馬場に一陣の強い暖かな風が吹いた。少し曇り気味だった空が晴れ渡っていることに驚いた。画面や新聞ばかりで、目線が狭まっていたんだなと反省した。ああ、外れたってかまわないこんなにも気持ちがいいのだもの、それくらいは共用範囲なきがしてきた。

 馬券は、三連単で3-12-2(カレンブーケドールからディープボンド、アリストテレス)、単勝で我らが希望の星ジャコマルである。日本人の宦官びいきというのはよろしくないのかもしれないと、頭でわかっていても応援してしまうのが人情である。未来の万馬券、いや百万馬券を手に私たちは先程まで座っていた席に向かった。会場に立ち込める熱気、人の密度によって生まれた湿気を帯びた空気、そのすべてを払いのけるような春風。会場のざわめきがこだまして、まるで何かの暴動でも起きているんじゃないかと錯覚してしまうほどだ。会場にいる人すべての鼓動が、観客一人一人に波のように連鎖し伝わっていくのを感じる。

「そろそろ、始まるか?」

「待ちなさいよ。あと五分あるは」

「五分か…」

二人の間に緊張感のある沈黙が流れた。深呼吸…気持ちをリセットして落ち着こう。確かにこれによって人生が決まると思うと、膝が笑い、握る手がゆうことを聞かない。

「なあ、そろそろはじまるか?」

「まだよ、一分しかたってない」

待ちきれないのである。始まる時間が近づくに連れ、時間の流れが遅くなっているような気がする。もしやこれは、走馬灯なのではないか?死に向かって進むにつれ時間が引き延ばされているのではないか。体中から汗が噴き出すのを感じる、湧きも手も額もびしょびしょである。昔読んだ本の中に、ブラックホールがブラックホールと言われる所以は、『とてつもない重力が中心部にむかって集まることにより最後は光すら抜け出すことができなくなってしまうからである』と読んだことがある。あれはいったい本当だったのか、今の自分が置かれている環境と妙に重なる。今なら納得いくものだなと思った。

「なあ、あとどのくらいだ」

「あと一分よ」

こんなにも長いこと考えていても3分ほどのことであったようだ。会場が跳ねるようにざわめき始めた。

「馬が入ってきたわよ」

「本当だ!」

私たちの未来を背負った。馬たちがジョッキーに連れられゲートに入っていた。私は、一段と気を引き締めこの戦に挑むのであった。


2


馬がゲートに運ばれている。少しづつ揃って良くにつれ会場の緊張感が高まっていく。そして、最後の馬オウソリティがゲートに運び込まれた。

「始まるわよ」

「おう」

返事の声にも力が入る。

 ガチャン!ゲートの開く音が会場に響いた。観客の緊張を閉ざしていたものが、一機に解き放たれたように歓声があがった。そう、三分弱の熱い戦いが今始まったのである。

「おい、あれジャコマルじゃないか」

「本当ね!でも、あれじゃ終盤まで持たないんじゃないの」

「ワールドプレミアは…」

「出遅れたみたいね」

危なかった。ワールドプレミアになんて単勝でもかけていたら、この瞬間にゲームセットである。一方、ジャコマルは二番手に付け熱い走りをしていた。

「ワールドプレミアにかけなくてよかったな」

「ええ。でも、あの光景どこかで見たことあるのよね」

「それよりも、カレンブーケドールはどうだ」

「良い位置につけてると思うは」

コーナーを曲がっていく。戦闘はディアスティマ、いまだにジャコマルは先頭と競り合っている。三番手にカレンブーケドール、シロニイ、ディプボンド、そしてゴースト。続いてアリストテレス、ウインマリリンと続いていく。今の状況では決して良くない状況だ。

「厳しいんじゃないか」

「いえ、まだ粘れるだけの可能性は残っていると思うわ」

先頭集団は決して離れてはいないが縦一列に並び、どの馬も気をうかがっているようだ。

「そろそろ、1000メートルよ」

「ああ、」

天皇賞春は、全部で3200メートル。つまり今三分の一ほどが終わったことになる。

先頭は、ディアスティマ。続いて

「ジャコマル結構いいんじゃないか」

「そうね、まだ一応先頭集団に張り付いてるものね」

アリストテレスが少し後方へ下がったが、他は最初と変わらない。強いて言えば、ワールドプレミアが後ろにつけているくらいである。

「じりじりするな」

「ええ、」

自然と口数が減ってくる。

2000メートルが過ぎていった。馬が少しづつペースアップを始めた。最初に脱落する馬はいったい誰だ。

「あ、ジャコマルが」

「ほら、飛ばしすぎたのよ」

ジャコマルが少しづつではあるが確実に後方へと下がっていく。さらば、私の393万。

「まだ粘れる」

「無理よ。それより、カレンブーケドールあれが追い上げてきているわよ」

「意外と、予想通りになってきたんじゃないか」

「そうね、このまま行けば3連単もあるんじゃない」

先頭からカレンブーケドール、ディープボンド、アリストテレス。

「おい、私たちの予想通りじゃないか」

「そうね、このまま行ってくれれば6億円も夢じゃない」

走る。私たちの夢を乗せて。頭の中にとてつもない勢いで電撃が走った。鼓動が跳ねる、それに合わせて馬たちも跳ねている。意識が飛ぶほどの快楽だ。馬も、もはや飛んでいるんじゃなかと誤解してくるほどだ。あと数百メートル、これを耐え忍べば栄光が待っている。

「よし、行け。いけ!」

しかし、

「待って、あの後ろから猛追してるのって」

「ワールドプレミア!」

なんということであろう、あれだけ後方にいたワールドプレミアが今では先頭を追い抜かんとしている。たくましい走りだ。まるで、マルガリータが言っていたディープインパクトの様である。

「おい、やめろ」

今のままではいずれ追い抜かれる。そうか、一事が万事マルガリータの予想通りじゃないか。

「やめてくれ!」

脳に走る電気が強くなってくる。熱い。頭がぎゅうっと、締め付けられているようだ。私の、393万。意識が千切れるほどの快感、熱い、興奮が止まらない。頭の中から出てはいけない物質が流れ出ているのを感じる。

 しかし、私の声も届かず。ワールドプレミアが先頭に追い上げてきた。祝砲を上げるように新聞が打ち上げられている。ああ、人生とは無常である。祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。盛者必衰、奢れるものも久しからず。ただ風の前の地理に同じ。

「終わったな」

「ええ、終わったわね」

私は、意識が千切れかけた。よく今持ちこたえていると思う。

「おい、」

「なによ」

「ワールドプレミアじゃないか」

「そうね、」

うまく言葉が出てこない。ふたを開けてみれば、上からワールドプレミア、ディープボンド、カレンブーケドール、アリストテレスと続いていた。ジャコマルはと言えば、

「最下位ね」

「ああ、」

「だから言ったじゃない!」

「うるさい、おまえがもっと強くいってくれれば」

「私のせいだっていうの」

「そうだよ」

「なによ!」

「なんだよ!」

叫ぶと同時に、意識が薄れた。ああ、又だ。またうまくいかなかった。結局うまくなんか行かなかった。人生とは面白いもので、調子に乗ると必ず誰かが鉄槌を下すものなんだなと思った。

「あんた、大丈夫?」

「大丈夫じゃない…」

「元気出しなよ!たった一回負けただけじゃない」

「その一回が大きいんだよ」

「回数で考えたら、気にするほどじゃないわよ」

気にするほどじゃないって、私の全財産が全ておじゃんだ。それで気にするなというほうが無理である。

「マルガリータ」

「なに?」

「なんか気分を変えたいんだ」

「そうね…」

今思うと、新宿の街をかけずりまわったのは、つい昨日のことである。そう思うと、人生とは面白いものである。

「じゃあ、あれにしましょう」

「なんだ?」

「食べるのよ」

「何を?」

「満漢全席とか?」

「はあ?」

又よくわからんことを言っている。こいつは、何故こんなにも元気でいることができるのであろう。ふと、あの老婆の顔が頭に浮かんだ。ああ、こいつらのせいで、そう思いながら、私は一時の静かな心地よい眠りについたのである。

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