〈3〉


 この家に来た時のことは、よく覚えている。毎晩、悪夢を見続けたからだ。


 家族と完全に離別して、家にいることが難しくなった子どもを一時的に保護する施設に預けられ、聡子たちと出会った日、恐ろしい夢を見るようになった。


 窓から突き落とされる夢。


 それはマンションの屋上だったり、高層ビルの最上階からだったりと形を変えたが、いずれも地に落ちる時の胃がふわりと浮きあがるような感覚がやけにリアルで、うなされて叫んだ。寝汗をびっしょりとかき、七畳の部屋で一人泣いた。すると聡子たちが必ずやって来て佳純の身体を抱きしめてくれるのだった。


 毎晩そうやって慰められるうちに、次第に佳純は心を開き始め、聡子たちのことを親だと思うことを決めた。


 あの家は、多分、間違って生まれたのだろうと思った。

 自分の本当の家はここなのだと決めつけたかった。


 けれど心のどこかで、なぜこんなことになったのか、家族はなぜバラバラになったのかという気持ちが湧き上がり、その負の感情に苛まれては悪夢を見た。


 ようやくぐっすりと眠れるようになったのは、行きつけの心療内科の医師に「あなたは運がなかっただけ」と言葉をかけられた時からだ。それ以来、不思議と悪夢は見なくなった。落ち着きを見せ始めた佳純に聡子たちはほっとしたように愛情を注いだ。


 ただ、悪夢を見なくなった代わりに、明け方頃に目が覚めてしまう癖がついた。そんな時は自室のカーテンを開けて夜明けの空と街並みを眺めた。青々とした色合いと静まり返った空気が気持ちよかった。


 佳純は現在、少し特徴のある子を集めた特別学級のある中学校の面接を受け、そこに通っている。学校には遠くから来た生徒たちのための学生寮があり、そこも一般とデイケア組に分かれている。学校帰りには月に二回の診察を受けている。明日はその診察日だ。


 寝る時間が来てベッドにもぐりながら、佳純は双子のことを思っていた。


 夕莉。

 私と似ている子。放っておけない子。


 翠。

 とてもかっこいい人。美しい人。


 私の初恋。


   ○


 病院の待合室は今日も混雑していた。学校は外来日で休みとなっている。まだ朝の九時台なのに、この心療内科は人気があるのか、いつでも人が途切れたことがなかった。


 佳純は空いた席に腰を下ろして、文庫本を広げた。読むのはたいてい「さらりと読める軽い話」である。佳純にとって「心に突き刺すような」重いメッセージ性のこもった物語は、余計に精神を悪化させるものだった。ティーンズ向けの文庫や少女小説などはまさに流し読みするのにもってこいの話なので、一番多く手に取っていた。


 ヒロインがついに相手役の男の子とキスをできそうな雰囲気まで読み進んだところで、名前を呼ばれた。これは王道のラブストーリーなのできっとヒロインは上手く行くのだろうなと思いながら、佳純は本を閉じて診察室に入った。


 担当医と挨拶を交わして、近況報告をした。


「友達ができたんですね。それはよかった」

 

 三十代後半くらいの男性医師は、あの時「あなたは運がなかっただけですよ」と言ってくれた恩人だった。左手の薬指にはめられた結婚指輪がきらりと存在感を放っていた。


「あのあと、悪夢は見ていないですか?」


 担当医はパソコンに佳純の現在の症状を打ち込んで、確認するように訊いた。


「悪夢は見なくなりました。ただ、明け方に起きる癖がついてしまって」


 初めの頃は自分のどんなことを話したらいいのか戸惑って途切れ途切れになっていたが、今ではすっかり言葉が口からすらすら出てくる。


「四時近くに起きてしまって、そのあと寝ようとするんですけど、眠れなくて。結局朝七時までぼうっとしています」

「夜は何時に寝ていますか?」

「十一時前には」


 担当医は「ふむ」とつぶやいてカタカタとキーボードを打ち込む。


「伊織さんの年齢は一番眠い時期ですから、確かにちょっと睡眠が足りていないかもしれませんね。授業中に眠くなったりもしないですか?」

「はい。元気です」

「家に帰って昼寝することは?」

「それもないですね」


 キーボードがまたカタカタと打ち込まれた。


「聡子さんと稔さんは優しいですか?」


 ふいに話題が今の養い主に移った。佳純は一呼吸おいて、はっきりと口にした。


「二人とも優しいです。特に問題ありません」


 嘘はついていない。聡子と稔は家族と離別した佳純をここまで育ててくれた。二人はいつだって温かかった。


 十五分ほどの診察を終えて、佳純は病院を出た。担当医は人気の医師なので一人に対しての診察時間はどうしても短くなる。あの穏やかな人柄が、見る者を安心させるのだろう。ここの大病院は有名だ。会計待ちも近くの薬局も混んでいる。最初の頃は辟易したがいくらか慣れた今では、こうして文庫本を読みながら待つこともできるようになった。


 ようやく会計が終わり、薬局で薬をもらうと、駅まで歩いた。十月に入る空は秋雨前線の影響で灰色に濁っていた。傘をカツ、カツと地面に鳴らしながら向かい、駅構内の大型書店に寄った。


 積み上げられている書籍や雑誌などを眺めるのは楽しい。今の話題や流行はこれなのか、とすぐにわかるからだ。世間が何に興味があるのか、佳純は知ることが楽しかった。


 話題になっている少女漫画の最新刊を一冊買い、電車に乗った。停車駅で降りて次はバス停に向かう。


 バスを待っている間、雨が降り始めた。一応屋根はついているのでなるべく身を縮ませて雨から避ける。やがてザアザアと本格的な降り出しになった頃、バスが遅れてやって来た。「お急ぎのところ大変ご迷惑おかけ致します。ただいま十分ほどの遅れでございます」と運転手のアナウンスのもと車内に入り、奥の二人掛けの座席に着いた。


 雨が窓に貼りつく様子を見て、佳純は、こんな時も雨が降っていたなと遠い日のことを思った。


 もう記憶から捨てたはずの、捨てたいと願っているはずの過去が、ぼやけた輪郭を持って佳純の頭の奥に鈍い痛みを与えた。


   ○


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