第16話 優香

設楽葉子。やっと彼女に一歩近づいた。

やはり彼女が言った「過去に還る」とは、彼女のメッセージだったのだ。

その名前が偽名でないかどうかはこれから調べるとして、彼女との細い糸がまた再びつながったことが嬉しかった。

あの日、新宿で彼女に会ったことは偶然じゃない。必然だった。少なくても、彼女は、あの日、僕のことを知っていた可能性が高いからだ。

知っていて、僕に近づいてきた。一体、なんのために?


僕は自分がかつて通っていた高校に行き、かつての同級生に会い、設楽葉子の情報を集めた。

彼女は僕が高校を辞めてすぐに、埼玉県の高校へと転向して行ったので、彼女のことを詳しく知る者はいなかった。

僕はその夜、母校に忍び込んだ。学校側なら彼女の公的な資料が残っているはず。個人情報保護法が施行されてからという者、生徒のプライバシーは厳重に管理されているはずなのに、彼女のプライバシーは忍び混んで、30分も経たずに見つかった。

僕は、設楽葉子の住所、生年月日、電話番号、保護者氏名などをメモ用紙にうつしとり、僕は学校を立ち去った。


駅前でタクシーを拾うと、ドライバーに目的の住所を告げた。

20分後、目的の住所に到着した。

闇の中にそびえる大きな一軒家。建物の明かりは全て消えている。これほどの大きさならば、きっと2億円はくだらないだろう。表札には「SHITARA」の文字。その脇には「(株)設楽クリニック」の文字。

確かに彼女の名前は存在した。これで、彼女の本名は確かなものとなった。


僕は待たせて会ったタクシーにのり、駅前のビジネスホテルに宿をとった。

ホテルに入り、チェエクインして、部屋のベットに寝そべっても、興奮がおさまらず、なかなか寝付くことができない。

設楽葉子に近づいてきたということが、僕の胸を熱くさせて止まなかった。まだまだこれからすることはいくつもある。彼女の所在を掴まなければならない。

本名と住所は分かった。でも、彼女は今どこに?

彼女の家は母子家庭だ。保護者の欄には、彼女の母親の名前しかなかった。

そして、今晩訪れたあの豪邸。彼女の家は何かの病院を経営しているようだ。

彼女の家は裕福だ。きっと探偵を雇うくらいの金は大したことはないはずだ。


翌日、僕は早起きして、6時にはチェックアウトし、7時には彼女の家のまで張り込みを始めた。朝8時に黒塗りの高級車が出てきた。中の様子は分からない。

僕はインターネットカフェで、「設楽クリニック」を検索した。画面に表示されたのは「女性を綺麗にする」という「整形外科クリニック」だった。

僕は、会社の住所を控えると、店を出て、紳士服屋で、スーツと、ネクタイ、革靴を購入し、そのまま美容室に行き、現代風の髪型にしてもらった。

その後、直接、設楽クリニックに向かった。


設楽クリニックは、新大久保の駅の傍にあった。大きな建物で、女性が好みそうな、上品で落ち着いた色合いの外装だった。

インターネット上の書き込みでは批判的な書き込みはほとんどない。企業としては新しく、勢いのある時なのだろう。

僕は昨晩、ホテルで考えた作戦を実行する。受付の女性を口説き落として、内部情報を探る。香織の指摘通り、ここ最近の僕の顔つきは厳しくなってるようだから、細心の注意を払って女性に接しなければならない。


正面限界から中に入ると、受付には一人の女性が座っている。こういう商売はまずイメージなのだろう。受付の女性は、テレビタレントのような顔だった。

僕は、「渡辺」と名乗り、「橋下」という職員の人と約束があると言ったが、もちろんそんな職員の人間はいない。僕は彼女にお礼と謝罪をして、設楽クリニックをでた。


次に僕は新宿に行き、公園のホームレスに声をかけた。


夕方、受付の彼女が仕事を終えて、帰宅するのを後をつけた。

彼女が、駅につき、改札をくぐり、ホームに入り、電車を待っていると、酔っ払った浮浪者が、彼女に近づいていき、、大声で彼女に絡み始める。

「ばかやろー。死んじまえ。」

駅のホームに彼の怒号が響く。周囲の人は目を合わせない。見て見ぬふりをしている。僕は浮浪者に近づいていく。

「やめなさい。彼女は嫌がっているでしょう。」

と浮浪者に声をかける。60代くらいの男は、

「なんだお前は、引っ込んでいろ。」

と怒鳴る。彼女は、恐怖で震えている。男は、彼女の片腕を握っている。彼女は怖くて、何も言えないでいる。僕は続ける。

「彼女を離しなさい。嫌がっているじゃないか。」

男は、彼女の腕を離し、僕の胸ぐらを掴んだ。僕は彼女に逃げるように目で合図を送る。彼女は察したのか、軽く頭をさげると改札へと続く階段の方へと逃げていく。

男は、僕を殴る、僕は耐える。

「フザケンナ。このやろう。」

歯が抜けている、初老の男の息は臭かったし、段々とろれつが回らなくなってきている。男は興奮し、暴力はだんだんとエスカレートしていくが、彼の拳で僕にダメージを与えることなどできない。

いい加減、ムカついたので、正当防衛の範囲で、ワンパンチを食らわせたら、男は大の字に伸びた。

僕は急いで、改札の方へと逃げた。改札の外に出ると、先ほどの彼女が待っていた。口から血を流している僕の元に駆け寄ってきた。

「危ないところを助けていただいて、ありがとうございました。」


彼女の名前は、山本優香、28歳。

設楽クリニックに勤めて6年になる。受付の華として、設楽クリニックの看板娘であった彼女は当然男にモテた。

けれど、優香には並みの男たちでは、落とせない。彼女は自分の容姿に絶対的な自信を持っていた。ブランド物も好きだし、それが、若い自分に似合うと本気で思っている。大した学歴もない、美貌だけで生きてきた女なのに。

優香は興奮していた、僕との運命的な出会いを。そして、僕の容姿は彼女のお眼鏡に叶ったようだ。彼女はお礼と、傷の手当てという名目で、僕を自宅のマンションに招き入れた。

僕たちは、すぐに打ち解けた。彼女は自分のことをマシンガンのように語り始めた。


彼女は現在、設楽オーナーの片腕、峯口隆二、42歳と不倫関係にある。

それは、僕にとって好都合だった。僕は、彼女から峯口の写真を入手し、彼に接触を試みる。


僕はまた、設楽クリニックの前で峯口を待ち伏せた。確かに42歳には見えないほど、精悍な顔つきをしている。髪の毛はいつもオールバックにしているようで、すぐに彼だと分かった。

僕は駅に向かう彼に、後ろから声をかけた。


「峯口さん。初めまして、私、こういうものです。」

と言って名刺を差し出した。その名刺には、山本大輔という名前と、設楽クリニックでは使用されていない、某有名医療品メーカーの名前が記してある。

「どうも。私に何か御用ですか。私、ちょっと急いでいるので、失礼します。」

「山本優香さんをご存知ですね。」

峯口の表情が一気に厳しくなる。

「そういうことか。」

僕は峯口とともに、タクシーに乗り、馬場の喫茶店に入った。峯口とは向かい合わせで座る。彼は、相変わらず、眉間にシワをよせ、タクシーの中でもずっと無言で険しい表情のままだった。

「それで、何が望みだ。」

「峯口さん、大変失礼いたしました。私は、あなたと彼女のことをどうこうするつもりは一切ありません。ただ、こうでもしないと、初対面の私の話など、聞いてくださらないと思い、大変あご無礼を承知の上、恥を忍んでお願い申し上げたいことがございます。」

「なんだね。」

峯口の表情は、幾分和らいだものに変わっていた。

「実は…。」

そこでコーヒーが二つ運ばれてきた。

お互いに無言でコーヒーをすする。

「実は、オーナーの設楽さんの娘さん『葉子』さんと僕は交際しています。」

峯口は意外という様子だった。話が自分の不倫から、オーナーの娘のことに飛んだのだ。当然だ。予想もしていなかっただろう。僕は続ける。

「僕は彼女との結婚を考えています。」

「結婚って、確かオーナーの娘さんはまだ高校生だろう。」

「別に今すぐという話ではないのですが、彼女もその気があると言っていました。」

「それで、それが、私になんの関係がある?」

「はい、彼女は私に対して、まだ全幅の信頼を寄せてくれていません。彼女は信頼したいのに、信頼できないでいます、話によると彼女は母親との関係で悩んでいるようです。オーナーの片腕である、峯口さんが、その辺の事情をご存知でしたら、教えていただきたい。」

「そういうことか。オーナーのプライベートを、他人に無闇やたらに話すわけには行かない。が、この際、仕方ないだろう。彼女は15年前からこの商売を始めた。私は当初から彼女を支えてきた。彼女には才能があった。たった15年でこんなに大きな企業に成長した。彼女は昔、どこかの社長の愛人をしていたようだが、妊娠をきっかけに切られたそうだ。娘さんはその社長との間の子で、彼女は一人でその娘さんを育ててきた。娘さんがその辺の事情をどこまでご存知なのかはわからないが、確執の原因が彼女の出生と、最近のオーナーの多忙さにあるのではないかな。」

「ありがとうございます。それだけわかれば十分です。」

僕が席を立とうとする、と、峯口は再び口を開く。

「山本くん。分かっているとは思うが。今日のことは他言は無用だよ。もし、僕やオーナーに少しでも不愉快なことが起きたら、その時は君もタダじゃすまないからな。」

「はい。肝に命じておきます。」

何を偉そうに!自分の身可愛さに、世話になってきたはずのオーナーのプライベートをいとも簡単に売っておいて。何が、「タダじゃすまい」だ。

名刺一つで簡単に人のことを信用してしまうようね迂闊な男は、どうせ僕が何もしなくても、自分でボロをだすに決まっている。

こんな男に抱かれている優香の気が知れない。一体この男のどこがいいというのか。愚かで、気の回らない、自分勝手な姿じゃないか。


僕は優香に電話し、今夜、これから会えないかと誘う。新宿で9時に落ち合うことになった。

僕は優香の世話になっていない。これまでとは違う。僕は一社会人として、優香に会う。

優香は僕になんでも話す。今日は同僚の子の陰口を聞いたとか、気持ち悪い客が来たとか、そんな他愛もない話ばかりが延々とと一時間も続く。


「そういえば、この間、オーナーの娘さんがクリニックにきていなかった?」

「なんでそんなこと知っているの?」

「前に雑誌で見た、君のところのオーナーによく似た美人の女の子がクリニックに入っていくのが見えたから。」

「そう、でも、きっと人違いじゃない。確か今、オーナーの娘さんはフランスかどこかに留学しているはずだから。」

「そっか。じゃあ、僕の見間違いだったか。」


ビンゴ!僕は、その場で飛び上がりたいほど歓喜した。勿論、優香の前でそんなそぶりを見せつることはなかったが、心中は穏やかではいられなかった。

僕は早い所、次の行動に移したくて、目の前の優香との時間を切り上げにかかった。

僕は愚痴をこぼし続ける目の前の女に、どんどんと酒を飲ませて、酔わせて、タクシーに押し込んだ。運転手には行き先の彼女のマンションを告げ、チップを私て、彼女が歩けないなら、部屋まで送って欲しい旨も伝えた。そのためにわざわざ女性のドライバーを頼んだのだ。ドライバーの女性が面倒な表情を浮かべたので、チップを倍に弾んでやった。


新宿の駅からタクシーで設楽葉子の自宅に向かう。

葉子がいないのなら、母親のオーナーが帰ってくるまでは、あの家は誰もいないのだ。

タクシーを降りて、彼女の自宅に向かうと、ちょうどそこに黒塗りの高級車が入っていくのが見えた。

オートの門が開き、車は中に吸い込まれていくところだった。僕は、門が閉まる前に急いで、体を滑りこませて、中に入った。

中に入ると、目の前には大きな二階建ての一軒家がある。

コンクリートで塗り固められた、打ちっ放しの四角い箱のような住居だった。

広い庭があり、周囲は緑の芝生が植えられており、小さな池まである。

自然と無機物の対象がおかしい。こんなところで育った葉子がかわいそうだとさえ思った。

僕は闇に紛れて、植木から植木を移動する。

車を止めたガレージからは数人の声が近づいてくる。

僕は闇の中から目を凝らして、その人物たちを確認する。

先頭は、葉子の母、設楽クリニックのオーナー。その後をモデルのような美人の若い女性が二人。もう一人は背の低い年輩の男性だ。

どこかで見たことがある男だった。僕は、僕の記憶中枢に神経を集中させ、男の顔を検索した。

僕の頭の検索エンジンに引っかかったのは、確か練馬区だったと思うが、先の衆議院選挙で立候補して、当選した、現役国会議員の顔だった。


そういうことか。僕は一人ごちた。彼女の母親は、表向きは整形外科クリニックのオーナー、裏の顔は政治家相手の売春宿。

きっと売春している女も、元は患者で、作られた美貌を提供して金とコネを稼いでいるのだろう。

なんて醜い大人たち。葉子はこんな環境で育って来たのか。僕は彼女に同情と、そして親近感が湧いた。

彼女はきっと大人を恨んでいる。真の愛情を与えない、汚い大人の欲望の道具にされた女性たちの姿を間近で見て来たのだろう。そして、そんな女性たちを次々に作り出す母親。

僕は女性に真の愛情を求めた。父は女性を子供を作る道具程度にしか考えていない。同じだ。

彼女が言った、

「過去に還る」

その言葉の意味を、真に理解した。


僕は、暗闇の道をどこまでも彷徨い歩く。都会の夜は明るい。

僕は空を見上げる。この空ははるか遠くのフランスまで続いている。

時差があるから、今頃彼女は陽の光を浴びているのかもしれない。フランスには闇は存在しているのだろうか。


僕は久しぶりに実家に帰った。こんな時間だから当然鍵はしまっている。

僕は2階の自分の部屋の窓を割って中に侵入し、久しぶりに自分の布団で死んだように眠った。

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