第17話 忍び寄る危機

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 そこに供えられていた花はもう枯れていた。

 夕暮れ時、夏はすぐそこまで近付いて来ていたが日の光が遮られているその場所は薄ら寒かった。周囲には生徒の声もない。

 ほんの数日前までは少女の死をいたむ色とりどりの形骸が山のように詰まれていたのだが、今はもう萎れた花束が一つだけとなっている。

 ハルは唇を噛んだ。なんと容易たやすいことなのだろう、人はこんなにも簡単に忘れてしまうのか。

 学校はあったことを無かったように塗り替えた。囃し立てられた死は既に忘れられ、次の死も過去のことのように過ぎていった。前を向いて進むことは確かに大切なことであり、必要なことなのかもしれない。けれどその風化は空しい。ここの時の流れは余りに速い。


「ごめんね、もう少し早く気付けていたなら……」

 呟き、屋上を見上げた。ジワリと胸に湧き上がる自責の念。ハルはそっと目を閉じ祈りを捧げた。


「あの……。蒼樹君?」

 後ろで小さな声がした。振り向くと一人の少女が立っていた。少女は目を潤ませてこちらを見ていた。


「そうだけど、君は?」

「……その子の友達」

 か細い声だった。肩をすぼませながら手を前で組み、おどおどとしていた。


「悲しいよね。こんなことになって」

「……うん」

 少女の返事は短かった。友人の死に心を痛めているのだろう。こうして事件現場に立てば言葉を失ってしまうのも無理はない。


「あの、少しお話が……」

 少女が憂える瞳を持ち上げた。ハルは直ぐに呪いの事件のことを思い浮かべた。

「話? 僕に?」

 戸惑いながら尋ねると、少女は小さく頷き、チラリと向こうを見やった。その視線を追っていく先に裏山が見えた。


「ああ、構わないよ。人がいない方が話しやすいっていうなら、向こうへ行こうか」

 僅かでも手掛かりが欲しい。この少女が事件に繋がる何かを知っているのなら聞いてみたいと思った。


 グラウンドの裏手に進む。古墳を思わす程度の高さしかない小山は半ば放置されている状態で普段から人気はない。不気味に生い茂る木々を見上げ、木立の間を縫うように続く山道を行く。日はまだ落ちきってはいなかったが辺りはもう暗かった。


「ねえ、どこまで行くの? 話ならもっと下でも大丈夫なんじゃないの?」

 しびれを切らしたハルは尋ねた。だが、少女は無言のままで先を目指した。


「ええと、随分と上って来ちゃったけど、大丈夫なの?」


 頂上の少し開けた場所に出ると先の方に照明がポツリと一つだけ見えた。その淋しげな明かりの中に簡易的な遊具やベンチがぼんやりと浮かぶ。

 少し緊張していた。いけないと思いつつ、思春期の甘酸っぱい感情を芽吹かせてしてしまっていた。ハルは強く自制を言い聞かせた。が、そこで図らずも期待通りの事が起こる。少女が唐突にハルの胸に飛び込んできた。当然のことであるが少女の突飛な行動についていけるはずもなく、だらりと手を下げたままその場で固まってしまう。


「ハル君」

 名前を呼ばれたことに激しく動揺した。鼻先に心をくすぐるような甘い香りが漂ってきていた。


「ようやく、二人きりになれたわ」

「あの、ええと……」

 少女の甘い囁きに対して、どう答えて良いか分からず口ごもる。心臓は高鳴っていた。


「いい匂い。い、いや香りだね。でも、ごめん、僕は今はこんなことを――」

「そう? そんなに良い匂い? ハル君はこの匂い、好き?」

「あ、はい、好きです」

 ついつい返事をしてしまう。それでも分別は弁えていた。ハルは少女を引き離そうとして肩を掴んだ。


「良かった。でも不思議、ハル君はこの匂いを嗅いでも平気なんだ。といってもそうね。そうじゃないとね」

「え? 何を言っているの」

「何でもないわ。それよりもね、ハル君の方がもっと良い匂いをさせているのよ」

 目を蕩けさせながら少女は言った。直後、ニタリと口角を上げた。


「え?」

「まだ分からないのかしら? あなたの方が美味しそうな匂いをさせている、と言ってるのよ」

「え?」

「だからぁ、食欲を掻き立てるようだと言っているの」

 少女は下を向き、喜びを堪えるようにしてクツクツと笑った。その異様な様子に驚いて後退る。これは何の冗談だと混乱する頭が状況についていかない。


「フフフ、あなた『雨』なんでしょ? いや、『雨』に違いないわ。いや、この際、『雨』でなくても構わない。こんなにも美味そうなんだから」

「美味しそうって、それに、雨って! なんで、どうして」

「どうしてって、そりゃもう大騒ぎなのよね。この辺の化け物の間では、それはもう雨の話題で持ちきりなのよ。数百年ぶりに雨が現れた。しかもまだまだ未熟者らしい。それならば今のうちに喰ってしまえってね」

「な、食べるって、マジか!」

「マジです!」

「あ、いや、断言しないで!」

 話のオチに納得していた。情けないことだがどうやら上手く誘い込まれたようである。これは不味いことになった。少女の気配を感じ取る肌が教えている。この化け物はおそらく犬神より強い。勝が目がないならば早々に逃げるしかない。

 

「おっと、逃がしやしないわよ」

 素早く少女が動いて一本道の退路を塞いだ。

 逃げ切れないことを悟る。少女の動きは犬の妖怪よりも素早かった。


「さて、もういいかしら? どうせならもっと恐れおののいて欲しいものだけど、もう我慢できないわ」


 少女が少しずつ変化していく。まず、瞳の色が黄色に変わる。瞳孔を細めた眼は爬虫類を思わせた。次に髪の毛が伸び、額の上部から角が突き出す。ブラウスを裂くように筋肉が盛り上がった。


「あ、あの……」

「なにかしら?」

 声色は既に少女のものではなかった。


「あなたは、もしかして鬼? なのですか」

「そうだけど、見て分からないの?」

「あ、いえいえ、見たまんま鬼です」

「そう」

 鬼がにじり寄ってくる。


「ちょ、ちょっと待ってください!」

「なんだよ、うるさいやつだな」

「あなたは、見たまま鬼ですけど、だからといって、僕が見たまま『雨』ということにもならないでしょう?」

「何が言いたいのかしら?」


「いやぁ、僕もね、つい最近、『雨』だのなんだのって言われたんですけどね。でもね、それをね、違うって言う人もいるんですよ」言うと鬼が首を傾げた。ハルは鬼が会話に乗ってきたことを機に何とか事態の打開を図ろうと言葉を続けた。「いや、むしろ、否定派の方が多いくらいで。多数決では、結局は、お前は雨ではない! みたいな結果になったと申しましょうか……」


「はあ?」

「だから、間違いなんですよ」

「……?」

「だから、ほら、僕が雨だというのは間違いなんです!」

 矢継ぎ早に会話をする。何とか鬼の気を逸らして逃げ道へのポジションを確保する腹づもりだった。

 

「もういいかな? 言うけど、お前の正体云々など、もうどうでもいいのよね。ただ美味そうな御馳走が目の前にある。そ・れ・だ・けっ」

 鬼は悠々と構えて隙など見せなかった。鼻息を荒くした鬼が飛び込んでくる。直後にハルの動体視力が鋭利な刃物を捉えた。


「うわっ!」

 鬼が放った光の筋を仰け反るようにして躱す。尻餅をつくように転んだ際に足をくじいてしまった。


「避けなくても良いのよ、それとも遊びたいのかしら」

「いえいえ、とんでもない。そんなデカい包丁のようなものを振り回す相手と遊ぶだなんて」

「そうよね。まどろっこしいわよね」

 

 再び風を切る刃物が唸りを上げる。鬼の動作を頼りに、音が出る前に転げてなんとか攻撃を躱す。後方ではミシミシと木が倒れるような音がした。


「あのね、だから勘違いだって言ってるじゃないですか! 僕は雨なんかじゃありませんって!」

「ああ、それ、もうどうでもいいから」


 縦に横にと刃物が走る。相手の手数の内の幾つかを避けるも幾つかが身体をかすめた。徐々に体力が奪われていく。荒く吐く息が途切れるようになってきた。手足に力が入らなくなってきた。


 ――不味いな……。

 藁をも掴む思いで周囲を見回すが見えるのは草木ばかりで救いの手が現れる雰囲気など微塵もない。冷気が漂う薄闇の中、冷たい汗がシャツの下を流れた。

 鬼が笑う。これはもういよいよかと覚悟したその時だった。風が爽やかな香りをハルに届けた。何かが来た。と、その香りに希望を持った。気配が段々と近付いてくる。香りの主がその場所に姿を現す。


「くそっ! よりにもよって、こんな状況で」

 香りの正体を見た途端に期待は裏切られた。

 種はあの時とは違う。迫力も段違いであった。それは記憶の中にある忌ま忌ましい姿。

  

 ――こんな時に犬神って、なんなんだよ。

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