第11話 雨様の匂い

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 この日の昼休みはいつもの中庭には行かなかった。

 通用口から外に出たハルは昨夜と同じ経路で現場へと向かった。

 校舎の中から聞こえてくる賑わしい声も、校内に流れている穏やかな空気も普段と何ら変わりがない。目にしているのはあの時とは全く違う景色であり、昨夜のことは夢見の中の出来事のようにしか思えなかった。


 裏山へと通じる小道を歩き校舎とグラウンドが一望出来る場所に立つ。ハルは死の淵で拾った命のことを考えた。あの場所で死を覚悟した。九死に一生で救われた命だった。それでも、日が変わりここに来てみれば生き延びたことに対してどうという感慨も持てなかった。生死の境目が曖昧なものに思えていた。


「僕は、また、助かってしまった」


 口をついて出た無意識の言葉に失笑を零す。

 いつ死んでもいい、けれど簡単に捨てることも出来ない。それは、ハルが家族を失ったあの雨の日からずっと思っていたことだった。


「何やってるんだ、こんなところで」


 背後から声を掛けられた。声の主が誰であるかは直ぐに分かった。ハルは気配に応じて振り返り、にっこりと笑った。思った通りそこには燃えるような朱色の髪が見えていた。


「どうしたの? お昼はもう済ませちゃったの?」

「あ、ああ、うん。もう食べたよ」

「そう、早いね」

「あ、あのさ――」

「何? 僕に何か用事? そんなに僕に興味があるの? もしかして」

「ば、馬鹿か! そんなわけないだろ」

「だよね、あるわけないよね」

「姿が見えたから、ちょっと様子を見に来ただけだ」


 答えながら茜は両手を後ろで組み視線を宙に投げた。どうやら彼女は嘘がつけない性分らしい。心配してくれている様子がありありと見えた。


「僕の様子をねぇ」

「なんだよ」

「あのさ、茜ちゃん、昨夜のあの巫女さんは君だよね」


 まずは助けてくれた礼を伝えようと思ったのだが、疑問の方が先に口から出た。

 この朱髪の少女は妖怪のことを知っている。仙里と真子の事情にも何らかの関わりがあると睨んでいる。でなければ、あの場所に都合良く現れた説明が付かない。ハルは茜の目を覗き込んだ。


「み、巫女? 昨夜? ええっと、何のことかな?」

 茜が目を泳がせた。やはり彼女は何か事情を秘めている。


「昨日の昼休み、茜ちゃんは、見ず知らずの僕の所にいきなり尋ねてきて忠告した」

「あ、ああ」

「あの時、僕は何を言われているのか意味がサッパリ分からなかったんだ」

「ああ、……言われてみれば、まぁ」

「君は、僕自身が事情を踏まえていると思い込んでいるようだったけど?」

「それは……」

 茜は迷うように口ごもった。


「責めてるんじゃないんだ」

 ハルは微笑んだ。


「ねぇ、茜ちゃん、昨夜のことを説明してよ。僕はもう妖怪が実在することを知っているけど、だからといって、今何故この様なことが起きているのか何も知らない」

 端的に質問を投げかけた。


「お前、やはり」

 茜の表情が変わった。厳しさを纏った目がハルを見つめる。


「僕は、茜ちゃんが何らかの事情を知っているのだと思ってる。僕は、どうしてこんなことに巻き込まれているのかを知りたいんだ」

「……巻き込まれている」

 茜は、顎に手を当て俯いた。


「茜ちゃん、話してよ。君は何を知っているの?」

 答えを促すがそれでも茜は迷っていた。


『何を迷うことがあるのですか? ありのままを話せばよいではありませんか』

 ハルの傍らから唐突に声が湧いた。真子の声だった。


「誰だ!」

 茜が咄嗟に身構える。


『娘さん、そんなに気張らなくても良いのですよ』

 柔らかな口調で話したあとハルの影の中から子供の狼が姿を現す。


「ま、真子! 君がどうしてここに」

 驚くハルを見て真子はニコリと微笑み愛嬌を見せた。


「お前は、いや、あなたは……そうか、昨夜の真神か」

「まずは昨夜のご助力、感謝致します」

「あ、い、いや」

「今更何を隠す必要があるのです。あなたは昨夜、私とアメサマを助けた。それが事実。それで良いのではないですか?」

「い、いや、知らない。それは、私ではない。そ、それよりも――」

「何か?」

「いま、アメサマとかなんとか」

「それが何か」

「あなたの言葉をそのまま受け取るなら、ハルちゃ、い、いや、蒼樹ハルがアメサマということになるのだが」

「はい、如何にも。そこにおられる蒼樹ハルさまはアメサマにございます」

「ま、まさか! そんなことあるはず……」

「おい! ちょっと待った!」


 ハルは二人の間に割り込んでいった。

 真子と茜の話の中に出てきた「アメサマ」というのは、今朝、仙里と真子の間で一悶着あった際に出てきた言葉だった。

 いまの茜の反応を見れば分かる。茜も「アメサマ」を知っているようだ。今朝の仙里せんり真子まこのやり取りの時には仲間はずれにされてしまった。一方的に話を終えた仙里は直ぐに煙の如く立ち去り、真子もまた物憂げにハルを見つめたまま透過するように姿を消してしまった。結局は何の事情も知ることが出来ず消化不良ままだった。しかし、今またここで「アメサマ」を聞いた。アメサマとは何者なのか。これだけ酷い目に遭いながら部外者とされるのはもう勘弁して欲しい。


「如何なされましたか、アメサマ」

「あ、あのさ――」

「待って、真神よ、理由を聞かせてもらえないか。なんでこの蒼樹ハルがアメサマなのか、あなたは何故そのようなことを確信を持って言うのか」

 ハルの言葉を遮った茜が強い目をして真子に問いかけた。


「何故って、それは」

「ちょ、ちょっと待て! 二人で勝手に話を進めないでくれよ。僕は、そもそもアメサマを知らないんだ。もう少し分かるように話してくれないか」

「あ、ああ、でも……」

 ここでもまた、茜は戸惑いを見せた。


「はて、蒼樹ハルさまはアメサマ。それ以上は何をお話しすればよいのでしょうか」

 真子は当然のこととしてアメサマを語った。アメサマとはいったい何なのか。

 

「いいかい、真子」

「はい、アメサマ」

「まず、僕のことをアメサマと呼ぶのをやめてくれないか。僕はアメサマというものが何なのかを知らない。生まれてこの方、そんな言葉を聞いたこともない。この際だからはっきり言っておくけど、僕はそのアメサマとかいう者ではない」

「そんな……アメサマ」

「真子、今朝も聞いたよね、僕が昨夜、この学校に来たのはただの偶然でしかないんだ。僕は、うちで飼っている猫の姿を追っていて学校に辿り着いただけなんだ。残酷なことを言うようだけど、真子の呼びかけに応えたのでも、危機を察知していたのでもない。それに、真子、君を助けたのは僕じゃない。あの時、グラウンドに現れた巫女さんが、僕達のことを助けたんだ。君が助かったのは僕の力じゃない」

「……アメサマ」

 真子はしゅんとして項垂れてしまった。


「そのことなんだが、ちょっといいか」

「なに?」

「お前、あの仙狸せんりとどういう関係なんだ?」

「な!」

 茜の口から、仙里の名前が出てきた事に驚いた。咄嗟に自分の口からもその名前が飛び出しそうになり慌てて口をつぐむ。


「何らかの接触があったことはもう分かっている。お前、あいつとどこで出会った? なんでお前とあいつがこんなことになっているんだ?」

「し、知らない。その仙なんとかってのも知らない」

「そうか、お前、あいつにそのように言われているんだな」

 ハッ――、慌てて口を塞いだ。

「お前が気にしているのは、あの化け猫との決まり事についてだな」

「ば、化け猫?」

「なんだ、そんなことも分かってなかったのか。呆れたやつだな。そもそも仙狸と化け猫は同意の言葉、仙人の仙に狸と書いて仙狸。狸と書くが仙狸は、猫の妖なんだよ。猫又ねこまたってのを聞いたことがあるだろう?」

「猫又……仙狸。――じゃぁ、あれは僕の勘違いだったのか……てっきり名前だとばかり」

「この国では、古来より年経た猫が妖力を得て妖になったものを猫又とか化け猫って呼ぶんだ」

「なるほど、仙里様はその猫又様だったのか……ふむ」

「だが、あれはちょっと違う」

「違う?」

「そうだ違う。あれは、もっと格が上だ。いや、考えているよりも上かもしれない。どうやらあれは大陸の方から渡ってきた化け物らしい。その由来までは知らないが、あれはただの化け猫じゃない」

「仙里様が、化け猫……」

「元は猫だ。ただし、あれは歳経て化け物になったのではなく、生まれた時からすでに二本の尾を持ち妖力を備えていた。その後まもなく神通力を得て妖になったといわれている」

「仙里様が、化け猫……」

「お前、仙狸から自分のことを他者に話せば殺すと言われているだろう」

「さ、さぁ、何のことでしょう」


 既に遅きに失した感はあったのだが、それでもハルは惚けた。そんなハルの様子を見て茜は肩を落とし溜め息を漏らす。


「安心していい。仙狸の事を話しても、聞く側が知っていればその掟には抵触しない。大丈夫だ。それに、仙狸どもが口にする掟は、あくまであいつらの種族の中での決まり事でしかない」

「え?」

「話せば殺す、それはあいつらが手前勝手に言っているだけで、必ずそうなるわけではないということだ。だから仙狸の事を誰かに話したとて、やつらにやられないようにすれば良いだけだ。問題ない」

「殺されなければ良いって言われても、それってちょっと難しくない?」


 茜は簡単に言うが実際には考えるまでもなくそれは無茶な話であった。ハルは昨夜、手も足も出せず殺されそうになった。妖怪から身を守ることなど不可能である。


「しかし、分からないことがあるな」

「分からないこと?」

「そうだな、分からない。あいつは何故、お前を誰かに殺させようとしたんだ?」

「仙里様が、僕を殺そうとした?」

「そうだ。昨夜あいつはお前を亡き者にしようとした」

「そんな、昨日のあれは、仙里様の仕業だっていうのか!」

「その通りだ。あいつは、この場所にお前を誘導して、あの犬神どもに始末させようとした」

「……そんな、仙里様が、僕を」

「妖怪が人を殺すことなど珍しくもない。分からないのはやり口だ。本気でお前を殺すつもりならば自らの手で殺す方が手早いだろうに」

 難しい顔をして考え込む茜。


「フフ、それは簡単なことです」

 真子が勝ち誇るように鼻を持ち上げて言い切った。


「真神殿、それは?」

「自ら手を下せない。それは、あれがアメサマに仕える者だからですよ」

 揚々と語気を強めて真子が言う。


「仕える? それにまたアメサマか。真神殿、アメサマなどはおらぬのです。仮に何処かにおられたとしても、今はもう顕現されることなどないのです」

「いいえ、アメサマはここにおられます。私には分かるのです。証拠はあの者です。あの仙狸からはアメサマの匂いがしました」

「はぁ、匂いですか……」

「それにあの者は、この蒼樹ハル様の従僕なのですよ」

「従僕? 蒼樹ハルがあの仙狸の主だというのですか? そう言えば先ほどもそれらしいことを言っておられましたが」

「左様で。アメサマの匂いを発するあの者は、ハル様に従う契約を結んでおります。従僕に主は殺せない。これは、歴とした契約が示すことわりです」

「契約? 待ってください。蒼樹ハルの方が契約で仙狸を縛っていると言われるのですか」

「如何にも。私にはその縁が見えております。私たち神獣もそうですが、妖が二人の主と契約を結ぶことは決してない。アメサマの匂いを纏う者がハル様に使役されている。故にハル様はアメサマである。理由は他にもありますが、今はこれが一番分かりやすいでしょうか」


 真子は、さも当然と言わぬばかりに断言した。

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