十五(1/3)

 家に帰ったら早速、住職から貰った(買った)お札を部屋に配置しよう。

 そうすれば、私はこんな非常識な恐怖から解放されて、ようやく穏やかな毎日に戻ることが出来る。

 両親が離婚してから幾度となく願って止まなかった、普通の日常。

 それを手に入れたらバイト探しを再開して、バイトを始めて、慣れない内は大変かもしれないけれど時々部活にも出て運動して、友達と喋ったりどこか遊びに行ったりして、そんな日常を満喫しよう。

 そんなふうに明日からの毎日を想像しながらアパートに帰宅すると、通りを挟んで向かいにある公園に、あの男は……。


「今日もいるの?」

「……いえ」


 いなかった。公園の中を隅から隅まで見回しても。

 ……一体どこに……?

 ここであの男を見ないのは初めてのことで、敷き詰められた困惑の中に過った暗い不安感を、私はすぐに忘れてしまった。

 その後、先輩と別れて自分の部屋――あの三○二号室へと戻ると、時刻は夕方の四時少し前といったところだった。

 外はまだまだ蝉の鳴き声が五月蝿うるさく、その喧騒を追い払うように玄関を閉める。

 部屋はもちろん薄暗く、誰もいない。

 母が帰ってくるには全然早いのだから当然ではある。

 これまでいくつもの不可解な現象に見舞われた部屋で、私一人きり。

 途端に不安が襲ってきた。

 ……が、今の私にはもう、この不安を追い払う手段が手元にある。

 住職に言われた通り、お札を部屋の東西南北に配置すれば、それでもう何もかも元通り。お守りもある。幽霊なんかに怯える必要は――


 ガタッ――


 と、どこかで物音が聞こえた気がした。

 過敏になっている私の神経はびくんっ、と体を震わせ、次いで硬直させた。

 やっぱりこんなのは理屈じゃないということなのか、ついさっき抱いた強がりはどこかに霧散していて……。

 物音は、私の私室から聞こえたような気がした。

 後は貰ったお札を配置するだけだっていうのに、本当に運が悪いったらない……。

 私は恐る恐る、自分の部屋へと近付いていった。

 そして自分の部屋にいたソレを前にして、再び硬直することになった。

 悲鳴が漏れそうになったのを、すんでのところでこらえる。

 息を呑んで、ガタガタと震える脚がただ崩れ落ちないように保つことに全霊を注ぐ。

 そこにいたのは一人の男だった。

 けれど、あのニート男ではなかった。

 ボサボサの長い黒髪で顔の上半分が隠れていて、簡素なTシャツにジーンズという至ってシンプルな出で立ちはほとんど同じだけど、私の記憶にこの男の相貌そうぼうに該当する人間はいない。

 ましてやこんな――腹部に刃物を刺したまま、まるでそれにも気づいていないかのように一心不乱に人の部屋を漁り回す知り合いなんて。

 刃物は刃の部分が半分以上その腹部に埋まってしまっているせいでいまいち判別がつかないけれど、それは包丁のように見えた。

 そんなものが刺さっているせいで赤黒い粘性のある液体がどろどろと傷口から流れ出ているにも関わらず、男の顔は平然としている。

 ……いや、何か別の目的に躍起になっているように見える。

 そのおかげか、私が帰ってきたことにはまだ気付かれていないようだったけれど、黒いボサボサ頭を振り乱すことで揺れる前髪の隙間から酷く血走った眼球とどろっと濁りきった瞳が垣間見えて、私は思わずたたらを踏みながらも一歩、後ずさる。


 ――出掛け先から帰宅したときに、留守中に忍びこんでいたストーカーとはち合わせちゃったんだって――


 この部屋の秘密を聞いたときの言葉が、脳裏に甦る。

 よりによって今日、どうして……!

 そんな、ほんの些細な感情の変化を察知したかのように。

 男の動きが唐突に、ピタリと制止した。

 ドクンッ、と心臓が高鳴る。

 息を詰める。

 さらに一歩、慎重にゆっくりと後ずさっている最中だった。

 男の顔が、ゆらりと、こちらに向いた。

 不自然にその輪郭を揺らしながら。

 まるで実体を伴っていないかのような、人の顔をかたどった煙か何かが動いたかのような――。

 そして数拍遅れて体全体を私に向けると、男はその口の端をどこか醜悪に歪めて見せた。

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