十一(2/2)

「よし」


 と、そう意気を込めてアパートを後にすると、ちょうど一階の部屋から出てきた秋崎先輩と目が合った。


「おはよう」

「……おはよう、ございます」

「どこか出掛けるの?」

「えっと……はい、まぁ」

「うん、そうしたほうがいいかもね。あまりあの部屋にいても気が滅入るだけかもしれないし。気分転換したほうがいいかも」

「そう、ですね」


 先輩は気遣わしげにそんな言葉をくれた。

 けれど、私の脳裏には先日近所のおばさんから聞かされた話が蘇り、思わず素っ気ない受け答えになってしまっていた。

 あれは私が秋崎先輩の部屋に招かれ、あの三○二号室にまつわる過去のいわくを聞かされた日のことだった。

 あの後、先輩の部屋をおいとました私は、ちょうどその場面を近所のおばさんに目撃され、数秒ほど視線を交錯させた後に詰め寄られた。


「あなた、に越してきた子よね」


 その言い草はもう、あの部屋が曰く付きであることを微塵も私に隠す気のないものだった。

 なんていう曖昧な単語で話を通そうというのがいい証拠だ。


「はい、そうですけど」

「今、秋崎君の部屋から出てこなかった?」

「はい、出てきましたけど」

「何を話してたの?」


 一瞬、あんな話をしたことを打ち明けることに躊躇ためらいを覚えたものの、事実確認のためにもそうしてみるべきかと判断した。


「えっと、これまでで起きた出来事を、教えてもらいました」

「あ~、それね」

「本当なんですか? これまで何人も亡くなってるって」

わよ。あなたもよくあんな部屋に入居する気になったわねぇ」


 何も好きで入居したわけじゃない。

 事前に聞かされていたら絶対に入居しなかった。

 だって紛れもない事故物件じゃん……。

 というか、そういうのには事前に入居希望者に通知する義務があるって聞いたことがあるんだけど、昨晩、母に確かめたところによると、仲介業者からは何の言葉もなかったという。

 

「っていうか、そんなことよりも秋崎くんよ」


 と、おばさんは言った。

 ……そんなことよりも?


「あなた、何もされなかった?」

「いえ、特に何も」


 私の肩を掴んでちょっと強めの力で揺さぶりながら追及してくるおばさんの様子は、面白半分、心配半分といった感じだった。

 ……いや、七:三くらいかな。


「そう? 独り暮らししてる男の部屋に上げられたみたいだから何かあったかもって心配したんだけど。あの子も年頃だしねぇ」


 一瞬、思考が止まる。

 ……独り暮らし?

 そんな話は聞いたことがない。

 確かに両親の姿は見えなかったけど、それはまだ仕事から帰っていないだけなのだと思っていた。


「でも付き合ってるってわけでもないんでしょ?」


 興味半分なおばさんの追及は、尚も続いた。


「はい」

「だったら気を付けないとダメよ。あの子、あまりいい話聞かないし」

「えっと、それはどういう……」

「いえ、なんでもね、秋崎くんね、あの部屋に若い女が入居する度にその住人のことを嗅ぎ回ってるらしいのよ」

 

 ぞわぞわと、この身に沸き上がってくる得体の知れない不安感。

 まるで今まで自分が立っていた足場がぐらついて崩れていくかのような。

 身体がふらふらと揺れているような、平衡感覚の喪失感。


「とにかく、気を付けなきゃダメよ。私たちだって自分の住んでるアパートから死人が出るなんてイヤなんだから」


 その言葉はなかば私の頭を素通りして、その後自分の部屋に戻った記憶もおぼろげだった。

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