自宅方面に戻るバスに乗り込むと、私は車内に効いた冷房に至福の息を吐いた。席に着いて少ない乗客の人目をはばかりながら、シャツの胸元を軽くぱたぱたさせて冷気を取り込む。

 夏休みといっても、まったく学校に行かなくていいわけじゃない。活動の盛んな運動部に所属している生徒はほぼ毎日学校に足を運んだり、学校どころか遠征に行っていたりするし、補習のある生徒だっている。私はないけれど。

 ないけれど、あまり活動の盛んじゃない運動部に属している。

 週に二、三回しか練習しない、大した目標もないゆるゆるのバスケ部に。

 別に参加しなくても何も咎められるようなことはないんだけど、友達に会えるし、ある程度の運動はしたいので今日は顔を出してきた。

 バイトは目下もっか捜索中。

 こういった移動中も求人アプリでバイトを探しながら、バスに揺られること十五分。

 自宅最寄りのバス停で下車すると、ここから自宅までは徒歩五分といったところ。スーパーやコンビニも近く、立地は決して悪くない。それでいて家賃が三万を切っているというのだから、掘り出し物件だと母が興奮気味に話していたのが記憶に甦ってきた。これから家計も厳しくなるんだから、出費が減るのは私としても嬉しかった。

 早く帰ってシャワーを浴びたい。

 そう思いながら数分の炎天下を歩ききってアパートにたどり着き、外階段に足を掛けようとして、しかしふと気になるものが私の視界をよぎって背後を振り返った。

 そこにあるのはアパートの前に面している、小規模ながらも趣のある公園。その隅に設えられている天蓋つきのベンチに、陽射しから避難するように一人の男が座っていた。確か今朝、私が部活に行く前にもまったく同じ場所に座っていた記憶がある。

 私の視線はその男にひとりでに吸い寄せられた。……いや、その容姿が魅力的だったとかそういうものじゃなくて、むしろ逆。

 年齢は、高校生……と見るには少し大人びていて、いくらか社会経験を積んだかのような苦労が滲んで見える。ジーンズに黒いTシャツという洒落しゃれのない出で立ち。あまり髪型にはこだわらないタイプなのか、最低限みっとも過ぎない程度に櫛を通してきただけといった黒髪。

 まるでこのアパートの全容を視界に収めるようにしてこちらに体を向けているその様からは、陰気さがありありと漂っている。

 確かに今は夏休みだけど、それは学生にとっての話でまだお盆ではないし、そうなると社会人は仕事に勤しんでいるはずなんだけど……と。


「……あ」


 ふいにその男がこちらに視線を向け、私のそれと交錯した。

 突然のこととこの暑さのせいか思考がまとも働かず、思わず数秒、見つめ合ってしまう。

 はっと我に返って慌てて会釈えしゃくする私。

 もしもこの近隣の住民なら、目が合っておいて無視するわけにもいかない。陰湿というだけで悪い人だと決めつけるのは良くないし、ご近所付き合いは大切にする必要がある。

 しかし彼は、どこかばつの悪そうな顔を見せながらすぐに視線を逸らしてしまった。

 どこかぶっきらぼうで、面倒くさそうで、それでいて何か――見られたくないものでも見られたみたいに。


「…………」


 せっかくの会釈を無下にされたのもある。

 私は少しの勇気と警戒心を用意して、公園へと足を踏み入れた。

 男に真っ直ぐに近付いて、今度はきちんと挨拶をする。


「こんにちは」


 ところが男は、私のハキハキとした挨拶にも適当に、嫌そうに数秒目を合わせて、


「……どーも」


 と、くぐもった声で返してきただけだった。すぐに頭を伏せてその目線を前髪の下に隠してしまう。

 まったく会話をする意思が感じられない……。

 私はそれでもめげずに当の賃貸住宅を指差して


「この近くの方ですか? 私、数日前にあのアパートに越してきた美沢って言います。これからよろしくお願いします」


 と言うと、


「それってもしかして三○二号室?」


 と、今度は意外にもそんなちゃんとした反応が返ってきて、私は面食らうことになってしまった。

 が、それも一瞬、すぐに我に返って二の句を継ぐ。


「はい、そうです。やっぱりもう知ってるんですね」

「まぁ、あのアパートの空き部屋ってあそこしかなかったはずだし」


 男は興味なさそうにそう言うも、中空を仰いだその面持ちはどこか思案げでもあった。

 タイミングからして、要因は私が入居した部屋かな。

 私たち母娘がここに越してきてからもう数日が過ぎているし、この近所の住人ならあの部屋に新しい入居者が来たのを知っていてもおかしくないとは思うけれど、なんだろう、この違和感。


「掘り出し物件だったろ? 家賃は三万……もしないくらい?」

「あぁ、はい、まぁ」


 曖昧に頷きながらも、私は胸の奥に何か引っ掛かるものを感じていた。

 確か秋崎先輩も、あの部屋には何か思うところがあるような振る舞いを見せていた。

 ただの偶然?

 男は覇気のない無味乾燥とした顔をしていて、その表情からは何を考えているのかなんてさっぱり読み取れない。

 つい今しがたはこちらの話にもちりほどの関心を見せたようにも見えたものの、既にどこ吹く風で、今となってはただただ覇気のない、無気力でくすんだ瞳を公園の遊具に向けている。

 社会人にとっては平日であるはずの真っ昼間から、こんなところで、ただ何をするでもなく、朝からずっと。

 いや、この人が社会人かどうかはわからないし、私は部活に行っていたので朝からずっとなのかも確証はないけれど、でも――。

 私はそんな男に適当に別れを告げて、胸の内にもやもやした何かを抱えながらきびすを返すと、引っ越したばかりの一室に戻った。

 

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