着火マン

古新野 ま~ち

着火マン1

 8時43分になろうかという時、彼はホームのゴミ箱の前にいた。わずか数秒だが立ち止まり彼は自分の蛮行を振り返った。冷たい汗が拳の中で湧いた。


 意図せず、力のかぎり握りしめていた。爪が掌に刺さるほどだった。一息で肺のなかの空気を、さっきまで電車内で吸っていたあのサラリーマンの体臭を、吐き出す。


 弛んだ手の中にはライター。それを駅のゴミ箱に棄てそうになったが、そこから自分の行為が露見する可能性におもい至る。変哲もないライターだがかつての恋人から奪ったものだった。それは、ガスを注入して使う程度には愛着があった。


 武内詩杏のライターは、彼女が煙草を吸いはじめた時から同じものをずっと使っていたはずだった。別の大学に進学して、まだ未成年の癖に生意気なものだという印象を抱いた。一方で、彼は煙草を一本も吸ったことはない。


 彼女への軽蔑はありつつも、しかし、それが全く意外性を伴わなかったのはストレスに耐性がないことを知っていたからであった。


 彼は武内と同じ大学に進学することを、一方的に約束された。当時の生活圏にある大学で、かつ、自分の成績にあうところであれば学部ですらどうでもよかった。とはいえ、この時点で彼の中に武内と大学生活を共にするビジョンは、後述する理由により皆無だった。


 私は経済学部がいいと言った彼女が何故そんな進路を望むのかをほとんど聞き流したが、進路希望のプリントに経済学部と書いて提出し、いつの間にか県内で最も偏差値の高い私大の経済学部にいた。近くに武内はいなかった。


 二人の間には埋めがたいほどの学習能力があった。社交性、運動能力、両親の経済力、あらゆることで武内は優っていたものの筆記試験で彼は劣ったことがなかった。


 同じ大学に行こうと彼女が言うたびに、彼はその言葉を、私の所まで堕ちてこいと言っている風に聞こえていた。


 俺くらいならすぐに追い付くよ。でも俺も頑張るけどな。そんなことを言って彼女をなだめた。勝手に頭が良くなって俺と同じ大学を受ければいいだけのことだがそれができない情けなさを哀れに感じていた。


 彼女に抱く憐憫の情が胸をしめつけた。不愉快ではなく、むしろ彼にとって下には下がいるという安堵を常にもたらした。模試の全国レベルではやや上位といった中途半端さも彼女のおかげで自分は頭がそれなりに出来がいいと自惚れることができた。


 武内の様子に変化が見られた冬のことは、彼も未だに覚えている。


 彼女の自室はゲームセンターでとれそうなサンリオのぬいぐるみやクッションがベッドにあることが印象的であった。キャラクターグッズを所有する気にならない彼にはその魅力が分からなかったが、そのうちの一つは彼が旅行先で購入したゆるキャラのぬいぐるみであった。


 彼女は自分の机で、彼は床で、1時間ほど勉強をした。勉強が終わると消ゴムかすを掃除機で吸う。


 潔癖なのかなと彼女は言ってほほえんだ。


 手首まで隠れるアンダーシャツを常時着用していたのだ。彼女の部屋で、しっかりと暖房が効いた室内で、ベッドで彼女にマウントを取られた時はとても蒸し暑かった。彼女の身体は制汗剤のミントのにおいがした。


 その時、自分は既に裸なのになぜかシャツを脱ごうとしなかった。彼に舐めるよう命じ、自発的にショーツは脱いだのにもかかわらず、頑なにシャツを脱ごうとしない。


 以前なら校内や電車内や所構わず繋ごうと彼女が伸ばしてきた手も無くなった。彼から繋ぐことは決してなかった。


 彼女の腕を確認したわけではなかったが、自傷したに違いないと結論づけた。


 なぜなら自分も自傷行為を始めたからだ。


 昼食に炒飯を作っていた時のことだ。鉄鍋の重心が安定せず、コンロに置いたときにバランスを崩して落下し、彼の足を焼いた。


 当然、声をあらげるほどの激痛であった。冷凍庫の氷枕を足にのせた。涙が止まらない。これまでの人生で経験したことのないほどの苦痛だった。だが、堪えきれない悲鳴が、自分の呻き声が、存外、耳を悦ばせてもいた。


 何より、神経に鑢がけされたかのごとき感覚を細かくとらえていくと、表面は氷で冷たい。そのすぐ下は煮えたぎるマグマを想起させるような赤黒く無惨に荒れているだろう。


 にもかかわらず、マグマの下では、そこに腐った血が溜まっていたがためにそれを一気に噴出し、新鮮な血液が循環しはじめたような快を見出だすことができた。


 発見したばかりのそれが武内の自傷行為に相当するのかもしれん、この感覚を彼女に伝えたい。はじめて恋人らしい交流ができる。


 しかし、心地よさはすぐに去り苦痛だけが長く残った。今でも痣が足の甲に残っている。

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