9月28日 ゆいかが書き始めたこと
書道の授業は私とれいが二人で一緒になる貴重な時間だった。
「ゆいか、最近、楽しそうだよね。慣れてきた? 学校」
「……うん、最初の頃よりは大分マシになってきたかな。……ちょっとずつだけど、自分の時間とのバランス……とれてきたし」
厳かな雰囲気の書道室の中、私達は半紙を広げながら小声で会話をする。
「そかあ、そういやお喋り苦手マンだったっけ。私、あんま喋りかけん方が楽?」
「……どうだろ。今喋ってるのはそんなにしんどくないかな。ただ、……みんなでいっぺんに喋るのは、その、苦手かも」
書道室は前面に畳が敷かれている小さな部屋で、簡単な解説の後実践として、書道を行う。
何かを学ぶための授業というより、静かな時間で集中力を磨くための授業って感じが好きだった。
基本的に、ただ無心で何かに臨む。その感覚が好きで選んだ授業だった。
先生が軽く咳をして私たちにちらっと微笑みかけた。
『自分が書くことに集中しなさいな』って感じだろうか。私とれいはお互い顔を見合わせて、苦笑い。
それから、そっと自分の半紙に向き直った。
言葉が一度途切れると、あとは静寂に墨と筆が滑る音が聞こえてくるだけだ。
そんな中でゆっくりと少しずつ筆を動かしていく。半紙に墨が滲んでいく感覚を筆越しに感じながら、じっと筆を滑らせる。
じわり、じわりと私が走らせた線から少し広がるように紙が黒い染みを浮かべていく。
ゆっくりと滑らせれば染みは大きく滲んで、細く走らせれば細やかに真っすぐと墨の後が残るだけ。
この授業は何を書くかは自由に決めていい。ただ、その時々で浮かんだ言葉を延々と書き連ねる。
静かで書く音以外何もしない場所の中。
ただ、黙々と。書くと言うことだけを繰り返す。
最初、何を書けばいいのか分からなかった。
書道の先生にそう告げたら、『深呼吸して、最初に思い浮かんだものを書いてみたら?』と、言われたっけ。
ただ、そうアドバイスをもらったけど、その日は上手く書けなかった。
書けなかったから半紙の上で構えた筆から、墨が一滴ずつ半紙に染みを創っていくのをただながめていたんだっけ。
ぽつりぽつりって、墨が落ちる音だけを聴きながら。
ただじっと、なんでか不思議とそれに魅入られるみたいに。
書道の先生は、そうやって出来た染みをなぜか満足げに受け取った。
れいは、『なんか芸術家っぽいね!!』と何故だか褒めてくれたっけ。
芸術家……かあ。
私、まともに出来たことなんて、ゲームくらいしかないのだけど。
いつかに書いた小説は結局、きりこにすら見せることもないままに封印してしまったのだし。
よくよく考えれば、いつか見せるよなんて口約束をしていた気がするのだけど。
結局、恥ずかしくなって、こんな変なの見せたら嫌われちゃわないかなって心配になって、そっと忘れたふりをしていたんだっけ。
きりこも、それを察してか、それともただ忘れていたのか、小説についてそれから触れてくることはなかった。
何かを創る人間なんて、私はほんとになれるのかな。
そんなことをぼんやり考えて、結局、次の授業の時も、上手く想い浮かばなくて。
困ったから、一緒に授業を受けていたれいのほうをちらっと見た。
最初の頃は、れいと二人きりだと何を喋ったらいいのかもわからなかったっけ。
ただ、彼女の書いている文字がなんとなく気になって、ふと声をかけてみたんだ。
『澪』
彼女の双子の姉妹の名前。
なんでそれにしたのって聞いたら。
れいは困ったような顔で笑いながら、たまたま目を閉じたら澪が出てきたんだよね、ってそう言っていたっけ。
いっつも、みおのことばかり考えているみたいで、ちょっと恥ずかしいけどさって、小声でつぶやきながら。
そんな話を聞いた後、私の口は少しだけ、なんでか動いてた。
「別に恥ずかしくないよ」って、そう、なんでか動いてた。
れいは最初、驚いたように私を見ていたけれど。ちょっとだけ嬉しそうに笑うと、「ありがと」って返してくれた。
書道の先生はその時は、なんでか何も言わなかった。
それが先週の出来事で。
今週、私が書くものは始まる前から決まってた。
結構、難しいから、所々歪みながらだけど、細かく筆を走らせる。
決してうまくはないけれど、迷いなく筆は進んでいく。
ずっと固まったままだった腕が嘘みたいに、言葉を表していく。
なんだか大事な変化な気はするけれど、詳しいところは今はいい。
ただ書きたいものを書いていく。ただそれだけを描いていく。
浅く、どこか焦っていたはずの呼吸が落ち着いている。
たくさんの人の中で筆を滑らせているのに、まるでたった一人の部屋で自分のためだけに文字を書いてるみたいな。
頭の奥が少し熱くなる。
肺を流れる空気の冷たさが心地いい。
滑る線が、思い通り進んでいくのが楽しくてたまらない。
心の底にあった蓋が、ポンって急に外れたみたいな。
濁った水の中に沈んでいたみたいな視界が、急に透き通った空に変わっていくみたいな。
そんな不思議な感覚の中、私はじっと筆を滑らせた。
眼を閉じたら、思い浮かぶ人の名前を描きながら。
※
思い浮かぶ人の名前が途切れて、私はふっと意識を戻した。
そしたらどっと肩が重くなるみたいに、堕ちてくる。息を吐くと、肺の奥の方が重くて、喉が渇いているのを急に思い出した。
頭が少し眠くなったみたいに重くて、汗も少し滲んで、身体が弱く震えてた。
あれ、なんか集中しすぎてたかな、引きこもり当初、ぶっとうしでゲームのランク上げに勤しんでいた時の感覚に似ている。
ふと、顔を上げると、私から少し離れたところで、れいと書道の先生が私にひらひら手を振っていた。気づけば、その二人以外の姿は書道室から消えていた。
「あ……れ?」
「ゆいか、もう授業終わったよー、すごい集中してたね」
「え、あ、ごめんなさ……」
「ああ、別に先生、次の授業ないからいいってさ。私も次、空きコマだし、もーまんたいだよ」
「あ……うん」
明るいれいの言葉に誘われながら、私は立ち上がろうとして、「へにゃ」思いっきり横にぶっ倒れた。
「うぇ?! 大丈夫、ゆいか?!」
「足……しびれた……」
そういえば、ずっと正座だったっけ。人生でこれ以上ないってくらい、足がしびれてた。
れいと先生は一瞬呆けた顔の後、けらけらと楽しそうに笑ってた。
私もそれを見て、自分のことなのになんでかおかしくて笑ってしまった。
昔だったら、馬鹿にされるのが怖くて、逃げてたかな。本当は笑いたくなくても愛想笑いとか浮かべちゃってたかな。
ただ、今は、それとなく自然に笑えてた。
足が痺れてる自分がどうにもおかしくて、なんでか気分は楽しくて。
寝転がる畳が火照った身体を少し冷やしてくれるのが心地よくて笑ってた。
少しだけそうやって笑った後、私はゆっくり身体を起こして、畳に散らばった半紙を眺めてみた。
『
『
『
『
『
あと、最後に『
きりこのお兄さんとかお母さんも書きたかったけど、漢字が分からなかったから、書けなかった。
仕方ない、また今度聞いておこう。そうだ、また今度、ゆうまくんとかしょうげんくんの名前も書こう。
まだ乾ききっていないから、重ならないように気を付けて、私はそっとその半紙たちを、私が描いた私たちを並べてみた。
そしたら、ちょっと胸の奥が暖かくなって、なんでか笑みが浮かんできた。
「いい出来じゃん?」
「うん!」
れいは隣で笑ったから、私も笑って言葉を返した。
静かな静かな書道室の中、たくさんの名前を見ながら私はそうやって笑ってた。
そうして笑っていた最中、胸の奥の、底の方で、ふと思い浮かんだ言葉あった。
そういえば、お父さんとお母さんの名前と漢字はどんなのだっけ。
こぽりこぽりと胸の奥から、その言葉がほんの少しずつだけ浮かんでいった。
水面にはまだ届かない。
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