5話

               ***


「なあ、聞いてんのかって!」

 スーツの膝がデスクを蹴り上げる。ガシャガシャとデスクのものが跳ね上がって、パソコンの液晶の表示が一瞬乱れる。

「今月の目標どうするんだっていってんの! お前さ、自分が成績上げられてないことを、どう思ってんの? 会社やチームに対して申し訳ないと思わない?」

 目を吊り上げてガミガミいう先輩の肩越しに、丸い壁時計が見えた。九時を回っている。当たり前だけど、定時はとっくに過ぎている。今日も泊まりだ。

 ほかの社員は我関せずという様子で、自分の仕事を続けている。まあそうだ、とばっちりを受けるのがわかってるなら、首は突っ込みたくない。

「おい、何かいえって!」

 声を出そうとしたが、口がうまく動かず、変な唸り声しかでない。

 舌打ちと共に前髪を掴まれ、頬骨を拳の硬い部分で殴られる。

 衝撃に備えてとっさに目を閉じたが、なんのショックもなく、不思議と痛くもない。

 そこで僕はあることに気づく。

 デスクに目をやると、倒れた文具立てが視界に入る。散らばった文房具のなかに都合よくハサミをみつける。素早く逆手で掴み上げ、先輩の顔面に突きつける。

「おい、なんだよ……」

 左手で奴の胸ぐらを掴む。握りしめたハサミを振り上げると、僕は思い切り奴の喉に突き刺した。


 手応えはなかった。


 ゆっくり目を開ける。

 ぼんやりと天井を眺め、布団の下できつく握りしめた右手を解く。そこはオフィスではなく、僕はスウェットでベッドの中にいた。

 未だに前の職場の夢をみる。辞めてからもう二年は経つのに。

 決まって上司や先輩がキレ散らかしているシーンで、反撃に出た瞬間に目が覚める。

 たぶん、僕が現実でそこまでの暴力を振るったことがないからだ。そこが想像力の限界なんだろう。

 実際にはずっと耐えてたんだから、一発くらい殴らせてくれてもいいのに。


「本当にその程度でよろしいのですか。心など誰に覗かれる訳でもなし、御自由になされては」


 ああ、そうかもな。顔の形が変わるくらいには殴りたい――と、頭で返事をしてから、ハッとして右耳を押さえる。

 いま、声がしたよな。

 前にもこんなことなかったっけ?

 ――いや、寝ぼけてるだけか。

 掛け布団を身体から剥がし、ベッドから出る。素足に床が冷たい。スウェットの隙間から冷気が入ってきて、布団の中で蓄えていた熱を一瞬で奪っていった。

 鍵や眼鏡や腕時計や財布やレシートが散乱したローテーブルから、エアコンのリモコンを取って暖房を入れる。続いて、ひしゃげたマルボロの箱を取り上げ、中身を取り出してくわえる。

 使い捨てのライターには、オイルがほとんどなかった。十回ほどカチカチやり、ようやくついたカスみたいな火で、くわえた煙草に着火した。

 先端が燃えてチリチリいうのは、脳細胞と肺胞が死んでいく効果音みたいだ。不健全な刺激で意識が覚醒していく。フィルターを灰皿に押し付ける頃には、脳内に漂っていた夢の気配はすっかり消えていた。

 バスタブと便器に挟まれた、せせこましい洗面台で顔を洗って、歯を磨き、コンタクトレンズを装着し、髭を剃る。

 鏡の中の僕は、眉間に深いシワを刻み、眼窩を青く落ち窪ませていた。煤けたような顔色。前髪をそろそろ切らないと。

 左耳の上には変な寝癖。水で濡らしてなでつけてみるが、バネのようにピョコンと戻ってくる。シャワーで流してから、ドライヤーで乾かさないと直らないやつか。剛毛はこれだから困る。

 どうせ作業着で隠れるし、いいか。弁当工場のライン作業なんて、五体満足で最低限の脳みそがあれば、見た目なんかどうでもいいもんな。

 用を足したら、三点ユニットバスを後にする。

 キッチンの電気ポットに水を注いでセットしたら、水切りカゴからマグカップをとりだし、インスタントコーヒーの顆粒を瓶から直接振り入れる。

 六枚切りの食パンに、冷蔵庫から出したチューブのマーガリンを投げやりに絞り出す。半分に折って口に運ぶ。パッサパサの食感と、しつこい油気が口の中に広がった。

 モソモソと食べているあいだに湯が沸いたので、カップに注ぐ。薄いコーヒーで、口の中の不快感を胃に流し込んだ。

 スマホのアラームが鳴った。いつも起きている時間か。食器を流しの洗い桶に突っ込み、アラームを止めにいく。

 クローゼットから適当に、インナーの上下と靴下、Tシャツ、ジーンズを引っ張り出して着替える。スウェットは丸めてベッドに放り投げた。

 変な時間が空いてしまったな。

 いつもはギリギリまで寝ていて、十五分くらいでダッシュで出ていく。そうじゃないと余計なことを考え出して、家から出られなくなる。

 しょうがない、少し早いけどもう行こう。

 出かける支度をしたら、薄手のダウンジャケットを着て、寝癖隠しに黒いニット帽をかぶる。白茶けたスリッポンに足を突っ込んで、派遣会社の送迎バスがやってくる駐車場に向かった。



 弁当工場勤務で一番面倒くさいのは、出勤したときだ。

 入り口でまずリストに名前を記入する。出入りするのは正社員も派遣社員もバイトも業者もいるので、不審者対策だそうだ。

 次は備え付けられた水道で、手洗いとうがい。

 そして健康チェック。検温。三十七度以上は即退勤だ。喉の痛みや下痢はないか、手指に傷はないか、チェックリストに記入する。手指の傷には、専用の青い絆創膏を貼らないといけない。爪が伸びていたら切る。

 ロッカーには荷物を全部突っ込む。作業区域には何も持ち込んではいけない。腕時計もスマホも筆記用具もだめだ。どうせ使えないからいらないけど。

 五着貸与されている白い作業着は、毎日業者で洗濯されてくる。一年も使ってると、けっこうシミができて黄ばんできた。

 私服を脱いで、足首がすぼまったズボンを履く。インナーの裾は中にしまう。上衣は頭からすっぽり覆う形だ。髪の毛が落ちないように帽子に全部入れこんで、ファスナーを閉じる。足元はゴムの長靴。

 粘着テープで作業着についている細かいゴミを取ったら、エアーシャワーを浴びる。

 続く手洗い場ではタイマーを掛けて、三分間肘まで洗い、掌を消毒液を浸したあと、UVライトにかざす。ポリエステル製の青いアームカバーと手袋をはめる。その上からまた青いニトリル製の手袋をはめ、アルコールで消毒。清潔になった手で飛沫防止のマスクを取って着用。

 まつ毛やコンタクトレンズが料理に混入しないよう、UV殺菌されたゴーグルを装着し、もう一度エアーシャワーを浴びると、ようやく作業区域へ入ることが許される。

 盛り付け工程は、食品の鮮度を守るために温度が一定に保たれていて、一年中寒い。

 床は緑や黄色や赤に塗り分けられていて、盛り付け作業の工員は、清潔区域の緑の床しか歩いてはいけないことになっている。本当に清潔かどうかは怪しいもんだけど。

 何台も並べられたベルトコンベアーはまだ稼働していないから、ブルーのベルトには何も乗っていなかった。

「ちょっとあんた! そこは私の場所でしょ!」

 すでにスタンバイしていた人を乱暴に押しのけて、古株のババアが割り込んでいた。でしょ、といわれたって、帽子とマスクで目元しか見えてないのに、誰かもわからない。

 ライン作業はあらかじめ割り振りがあるわけじゃなく、早いもの勝ちだ。作業内容はどこを選んでも大差はないが、古株たちにはそれぞれお気に入りポジションがあるらしい。

 工場内には、独自のルールを周りに押し付ける人が結構いる。問題になっていないこともないんだけど、統括する立場の社員のほうが若くて職歴も短いから、いうことなんて聞くわけがない。

 現場を仕切っている社員をつかまえ、空いているポジションを確認。自分の名前を告げる。今日はハンバーグ弁当のラインだった。容器に入った白米の横に、茹でたパスタを敷き詰める係。 

 全員が配置についたのが確認されると、調理工程の冷蔵庫で保管されていた惣菜が、台車に乗って運ばれてくる。

 ラインが動き出すと、あとは時間が来るまでずっと、決められた作業を続けるだけだ。

 弁当の容器は二列で流れてくる。そこへ、パレットと呼んでいる黄色いトレイから、規定量のパスタを掴んで、入れてならす。それだけ。

 僕の前を通り過ぎると、メインのハンバーグが乗せられ、ソースがかかり、つけあわせが乗っかる。ベルトの端っこまで流れたら、蓋をされ、自動でシュリンクされ、金属探知機にかけられる。ラベルが貼られたら、出荷用の通函かよいばこへ。ここまでがこの工程の仕事だ。

 三十分くらい経つと、自分の詰めているものがゲシュタルト崩壊してくる。クリーム色の細長くてニュルニュルしたもの。

「遅い! こんなことも出来ないんだったら、早く辞めてほしいんだけど!」

 隣のレーンで、イライラした金切り声があがった。ラインが止まったんだな。手は止められないから、よそ見しているヒマはない。

 新人の若い女性がお局様に嫌われてしまっているようで、毎日こんな感じだ。工場内には派閥がいくつかあるから、女性はどこかのボスにうまく取り入らないと仕事にならないらしい。

 足がだるくなり、腰と背中がきしみだすのが、だいたい二時間後。こういうところの機械は、主に作業をする女性の平均身長に合わせて設計してあると聞いた。本当かどうかは知らないけど。

 この虚無な作業を四時間続けると、ようやく昼の休憩になる。

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