2話

 一曲目は知らない曲だった。幻想的なメロディだから、ロマンチックなテーマの曲なのかな。

「本日のタイトルが『青は藍よりいでて』ということだったので。『ムード・インディゴ』という曲をお聴き頂きました」

 アップライトピアノは客席に背を向ける形になるので、柴本さんは体をひねって振り向く。藤田さんは眠そうな声で返した。

「これ、恋人に振られて、もう死んじゃいたいっていう歌でしょ。一曲目から憂鬱だねえ」   

 全然ロマンチックじゃなかった。

「ブルーな気分なんてまだまだ、インディゴの気分になるまでは、というね。ジャズはブルーな音楽ですから。この曲はエラ・フィッツジェラルドやフランク・シナトラなどが歌っていますが、初出は『ドリーミー・ブルース』というタイトルのデューク・エリントン楽団のインスト曲だったんですよ。のちに作詞されて、今のタイトルになったんですね」

「それじゃ青からでた藍、じゃない」

「……本当ですね」

 柴本さんは、今気づいた、とばかりに藤田さんを指差した。

 二人は面白おかしく解説を挟みながら次々と演奏した。『テイク・ファイヴ』『いつか王子様が』『マイ・フェイバリット・シングス』『イパネマの娘』……タイトルを聞いてピンとこなくても、実際聴いてみるとけっこう知っている。

 ランダムに強弱を織り交ぜて小気味よく刻まれるピアノのリズムは、ドラムがいるのかとさえ錯覚させた。低音部はまるでウッドベースのようにねっちりとしたタッチ。そのしっかりした土台の上で遊んでいるサックスは、自在に走ったり食ったりして、絶妙なうねりを生み出していた。

 丁寧にリハーサルを重ねた寸分の隙もない演奏もすごいけど、こういうミスタッチすら表現に取り込んでしまう勢いのある演奏こそ、ライブだな。再現不能という点で。

「ジャズって、難しい音楽っていうイメージがあると思うんだけど、最近はポップスでも複雑なものがあるよね」

「そうなんですか? 僕は疎いので……」

「特にね、アニメとか、アイドルとかね。そっち方面のね。田中秀和さんとか面白いよねえ」

 うなずく人がいた。僕は知らないけど、その界隈では有名な人なんだろう。

「でもね、ぼくは、そういう複雑なコードであるとか、めちゃくちゃ高い声が出るとか、音程がばっちりあてられるとか、技術としては素晴らしいんだけど、音楽の本当のところじゃないんじゃないかなって思うの」

「そうですね、やる側としてはついついそっちへ行ってしまいますが、それだけでは聴く人が疲れてしまいますし」

「表現の極北にたどり着きたいっていう気持ちを否定するわけじゃないんだけどね。ジャズもそういう世界だし。だけど音楽って、心に響かないとそれはもうただの音でしょ。心に届きやすいテンポとか、音の密度、響きとかは絶対にあって、人間っていうのはもともとわかっているんじゃないかな。それはどこにも明文化されていないし、たぶんこの先もしないんだけど、どこまで肉薄できるかっていうのが、演奏というものの本質的なところだと僕は考えているんだよね」

 藤田さん、結構クセのある人みたいなんだけど、面白いことを考えているなあ。

「音楽は言葉、ライブは対話ですからね。あまりに伝わらなすぎるのも良くないのかもしれません」

「そういうことだね」

 ラストの曲はこれで出し切るとばかりに熱の入った演奏だった。サックスが威嚇すれば、ピアノが唸りを上げる。かと思えば足並みを揃えて並走し、伸びやかに歌い上げはじめたサックスを、ピアノが力強い連打で追い立てる。真剣勝負なのは音から伝わってくるけど、その表情は爽やかだ。心から演奏を楽しんでいるんだな。

 二人がチラッとアイコンタクトをして、演奏を終わらせた瞬間、客席から歓声と拍手が沸き上がった。

 氷が溶けて薄まってしまったジン・リッキーを飲み干し、僕は嘆息する。

 ジャズのライブははじめて見たけど、こんなにスリリングでかっこいいもんなんだな。ロックやポップスのバンドとは違う興奮がある。

 余韻に浸っていると、カウンターにドリンクを注文しにきた人がいた。今夜のトリを飾るブルース奏者、平津さんだ。ブルースマン、とは呼ばれたくないらしい。

「ミッチーくん、こんな隅っこにおったんか。もっと前に来たらええやんか」

 すらりとした長身を艶のある黒のスリーピーススーツで包み、ソフト帽を斜に被った姿からほとばしる威圧感。しかもこの大阪弁としゃがれ声だ、もうカタギの雰囲気じゃないんだよな。

「あのド真ん前の席空いたるで」

 節くれだった長い指が、ステージ正面の席を差した。よくある。真ん前って気恥ずかしくて座れないんだよな。

「お客様が優先ですし……」

「かまへんて。見られるもんは見られる時に見なあかん」

 僕の肩をぽんと叩くと、ロックグラスを片手に楽屋へ向かっていった。見た目が怖いだけで、気さくな人だ。

 彼のライブが凄い、というのは河南さんからも聞いていた。さっきのライブももう少し近くで見たかったし、移動しようかな。

 僕は二杯目のグラスを手にして、テーブル席を物色する。ソールドアウトなだけあって、ステージ最前のその席だけ、ポツンと空いていた。

 座るか座るまいか考えていると、セッティングを終えた平津さんが、ステージ中央に準備された木製の椅子に腰掛けた。手垢と傷でテラテラになったアコギを爪弾き、歌い始める。


I went to the crossroad fell down on my knees

I went to the crossroad fell down on my knees

Asked the Lord above "Have mercy save poor Bob, if you please"


 『クロス・ロード』だ。ロバート・ジョンソンのコピーだなこれ。かなり精密だ。

 まだ転換中のはずなのに、すっかり静まり返ってしまう。立っているのが気まずくなって、僕はそそくさと目の前の席に収まった。

 平津さんは途中で演奏をやめ、軽く手を挙げて合図する。客席が暗くなり、ステージの彼にスポットライトが当たる。

 彼はかたわらのテーブルからロックグラスを取り上げ、目を閉じると、たっぷりと間を取ってから、おもむろに口を開いた。

「――十字路っちゅうのは、洋の東西を問わず、変なもんと会うところやゆうて。日本でも四つ辻はあの世とこの世の境界線や、いわれとる。かのロバート・ジョンソンも、十字路で出会った悪魔に、音楽の才能と引き換えに魂を売ったっちゅう伝説が残っとります。オレはライブハウスっちゅう場所も、一種の魔境やないかと考えとる。演奏者の思い、聴く人の思い、色んなもんが交差する場所ですわ。何も起こらんわけがあらへん。魅入られんように、気をつけなはれ」

 平津ひらついさおです、と低く名乗る。

 普通の演者ならここで拍手が上がるけど、オーディエンスはじっと次の言葉を待った。そうするしかない。間は空いても、物音すら立てるのがはばかられる緊張感が充満している。

「大阪出身でブルースやってますいうと、だいたい同じようなこといわれるんですわ。“なにわの”」

 そこで彼はバーボンを煽り、グラスをテーブルへ、ゴトン、と音を立てて置いた。

「しょうもな」

 空気が一瞬ピリつく。彼は我が意を得たり、とばかりにニヤリと笑った。

「オレは日本語でブルースなんか唄えへんし、日本人に本物のブルースなんか唄われへん。そう思とる。そやから、オレはブルースマンにはなれへん」

 気だるげにギターを抱え直し、左手薬指のガラスのスライドバーをはめ直す。

「差し詰め、人様のブルースを唄っとるだけの奴や」

 スライドギターの音色が響いた瞬間、寒気がして二の腕を擦る。パーカー越しでも鳥肌が立っているのを感じた。

 さっきの『クロス・ロード』だって十分に凄かったんだけど、あんなの本当にただの音出しだ。

 脳裏に浮かび上がってきたのは、町並みを彩るきらびやかなネオンサイン。赤いカーテンを背に、妖しげなライトに照らされて歌うアフリカ系アメリカンのミュージシャン。ビールグラスと食べかけのチキン。天井から吊り下げられた沢山のギター。

 よく歌詞の情景が走るなんていうけど、僕は英語の聞き取りができないから、即時で理解なんかしてないし、何かといえばこれは、まさにブルースが唄われているシーンそのもの――どうしてそんなイメージが湧いてくるんだ。

 想像というには自分を越えすぎているし、妄想というには生々しすぎた。

 奇妙な映像を振り払うように、目の前の光景と音に集中する。

 ライブは静かな熱をたたえたまま、淀みなく進んでいく。

 クラシックなブルースという似たような曲調の中でも、平津さんの声は表現豊かだった。地声でがなり上げるばかりではなくて、絞り出すように囁いたり、深く吐き出したり。まったく別人の声のように聴こえることもある。ギタープレイは高度すぎて僕にはもう何をやっているのかわからない。

 つんのめるような独特のリズムに誘われて、僕の意識は再びぼやけてくる。床が抜けて宙に放り出されたような気分。自分がどこにいるのかわからなくなってきた。

 気が張り詰めたところに酒を入れたから、悪酔いしてるんだろうか。


「ここが……の……ござい……よ」


 右耳にボソボソと声がした。ビクッとしてそちらを向くが、誰もいない。

 満場の拍手が上がって、ステージに向き直る。演奏を終えた平津さんが、帽子を取って礼をするところだった。

「おおきに」

 僕は周りにならって手を叩く。

 ただただ、口を開けてぽかんとするばかりだった。

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